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黄昏の追憶  作者: 小屋隅 南斎


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第20話

 心地良い空気に包まれ、のんびりとした時間が流れていった。気付けば箱の中には小さな塊はなくなっていて、空の仕切りだけが残されていた。チョコレートを食べ切ったことに気が付いた梅は、隅に置いていた蓋を手に取った。

「美味しかったね」

 空の箱に蓋がのせられた。お茶会もおしまいだ。

「はい。ご馳走様でした。それと……話も聞いて頂いて、ありがとうございました」

 まさか梅にこのように面倒を見られる日が来ようとは、出会ったばかりの頃は想像すらしなかった。当時の彼女の暗い瞳からは、人が苦手なだけでなく極度に嫌っていることが読み取れた。羨望と憎悪の入り混じった、長い前髪から覗く双眸を思い起こす。彼女の力を最大限発揮出来る環境を作るには骨が折れそうだと思ったし、実際かなり腐心することとなった。しかし今はそんな彼女に親身に話を聞いてもらい、チョコレートをご馳走され、世話を焼かれている。まるで妹と姉が逆転したかのような……いや、それを言うならば梅の方が年上ではあるのだが。

「ねえ、桜。あたし……」

 梅は躊躇うように言葉を止めた。口角を上げたまま視線を逸らす。しかし、その視線はすぐに桜のもとへと戻ってきた。遮る前髪のない双眸は、澄んだ色をしている。

「椛みたいに……出来たかな?」

 小さな声で、梅は不安気に瞳を揺らした。桜を見つめ、答えを待つ。ぎこちなくはにかむ友達を見て、桜は柔らかな微笑みを浮かべた。彼女の不安を、全て包み込むように。

「ええ。灯を一人前に導いたのも、戦場で後輩達の犠牲を最小限に抑えたのも、わたくしを勇気づけてくれたのも……全部、貴女ですよ」

 まるでチョコレートの甘さのように優しい声色に、梅はその目を見開いた。明かりに煌めいた深い色の瞳は、彼女の心の内を表しているかのようだった。

「そっか……」

 彼女は安堵したように微笑んだ。そして、嬉しそうに桜を見つめた。桜は小さく頷き、微笑みを返した。数々の戦場を共に乗り越え、短くない時間を傍で過ごしてきた戦友の視線は、信頼感に満ちていた。一から少しずつ積み重ねてきた、全てがその瞳に詰まっている。

「うん、あたし……そろそろ行くね」

 チョコレートのなくなった空箱を袋へ仕舞い、梅は椅子から立ち上がった。名残惜しそうな表情は、それを隠すようにすぐに笑顔に変わった。彼女を思わず引き留めようと伸ばしかけた手を、桜は静かにテーブルの下へと戻した。

「ええ、わかりました。……『レッド』のことは、任せてください」

「うん、桜なら安心して任せられるよ」

 梅は椅子をテーブルの下へ綺麗に収めると、改めて座ったままの桜へと向き直った。空の箱が入った袋を胸に抱き、空いた手をあげる。梅は桜へひらひらと細い手を振った。以前は噛み癖のせいでボロボロだった爪は、今は灯に塗ってもらったマニキュアのお陰で綺麗に光を反射している。梅は柔らかにはにかんだ。少し困り顔の面影が残った、穏やかな微笑み。桜の好きな梅の表情だった。

 梅は桜へ背を向け、ダイニングルームを出て行った。ぱたぱたと少し早足で去っていく梅を、桜は転んでしまわないかと心配になりながら見送った。桜の心配に反して彼女は最後まで転ぶことなく、無事に出入口の奥へと消えていった。『レッド』の紅色のグラデーションが広がるスカートが、ふんわりと舞って壁の向こうへ姿を消した。

 一人になったダイニングルームで、桜はダイニングテーブルの木目へと視線を落とした。そろそろ自分も部屋を出なければ、と心の内で思う。今が何時なのか分からないが、会談の始まる時間までに何が何でも書類仕事を片づけなければならない。桜は椅子から腰を浮かしかけた。

「桜」

 突然鈴のような声が降って来て、思わず桜は動きを止めた。幻聴かとも思ったが、この声を聴き違うはずがない。桜は見開いた目を、ゆっくりと声のした方へとあげていった。今しがた梅の消えた出入口に、今度は林檎が立っていた。『レッド』の紅色の制服に身を包む、小柄で華奢な身体。艶やかに流れる紅色の髪。愛らしい小顔に浮かぶ、上品で完璧な微笑み。

「朱宮さま……っ!」

 桜は縋るように叫んだ。林檎はそんな桜にも、変わらず微笑みを向けていた。ずっとずっと求めていた姿に、倒した椅子へ目もくれずに桜は夢中で駆け寄った。

「朱宮さま、……朱宮さま!」

 彼女の前に来ると、林檎のいつもつけていた花の香りが鼻を擽った。毎日共にあった、慣れ親しんだ香りだ。重い瞼の奥の瞳に、涙が溜まった。昨夜あれだけ泣いたというのに、みるみるうちに涙が溢れ、次から次へと零れていく。

(ああ、駄目だ。せっかくの朱宮さまのお姿が見えなくなってしまう)

 桜は慌てて涙をぬぐった。顔をあげると、林檎は微笑みを浮かべたまま桜を見つめていた。何があっても決して表情や動きに感情を出さない、隙のない佇まい。懐かしさが込み上げて、桜の目はまた潤んでしまった。

「桜」

 林檎は再び桜の名前を呼んだ。柔らかな響きだった。彼女の声で名前を呼ばれるだけで、桜の心はとくんと鼓動を奏でた。

「は、……はい」

 桜はなんとか声が震えないよう努めながら、真面目な声色で返事をした。長を前にして、しっかりと振舞おうと気を引き締め直す。しかし直後に、溢れた涙が流れていってしまった。内心慌てた桜の頬に、林檎のしなやかな指が伸びる。細い指先が、涙の跡を掬い上げた。

「……『レッド』はどうですか。……新しい長の補佐はとても大変でしょう」

 桜は冷水を浴びた心地になって、凍り付いた。『レッド』の長は林檎であるという認識が、音を立てて崩れ落ちる。そうだ、今の長はたまかだ。……では、目の前の少女は? 彼女はなぜ、ここにいるのだろう?

「あなたには苦労を掛けて……申し訳なく思っております」

 林檎はそっと瞳を伏せた。

「ですが、桜なら任せられると思ったのも事実です。あなたは『レッド』の一員でありながら、激情家で、努力家で、ひたむきで、目的を成し遂げるために、最後まで諦めることなく頭を駆使し続けることが出来る……それをよく知っていますから。あなたの絶えない向上心と忠誠心は、必ずやたまかさんの切り拓く道を傍で支え、成功へ導くわ」

 林檎は大きな双眸をゆっくりと開いた。人形のような可憐な顔には、寂し気な淡い笑みが浮かんでいた。

「今のわたしの言葉を聞く気にはならないでしょうけれど……、『レッド』をお願いね。桜」

 桜の唇が、小さく震えた。首を横へと必死に振る。

「そんな、勿体ないお言葉です。……朱宮さまのお望みとあらば、わたくしは命を懸けて尽くします」

 桜の言葉に、林檎は珍しくその目を丸くした。

「もう『レッド』の長でないわたしの言葉に、耳を傾けてくれるの?」

 そうだ、今の彼女はもう『レッド』のリーダーではない。彼女は、死んだのだから。……林檎を目の前にしながらもその事実を思い出してしまい、桜はくしゃりと顔を歪めた。では、目の前の彼女は一体何なのだろう。幻か、妄想か何かだろうか。

(でも、それでもいい)

 ずっと姿を求め続け、ずっと会いたかった彼女がここにいるのだ。桜は声が震えないように堪えながら、口を開いた。

「勿論です。貴女が『レッド』の長かどうかなんて関係ありません。わたくしはいつだって、貴女の命に従います」

 確固たる信念が滲む声色だった。林檎はその言葉に小さく口を開いた。予想外の言葉だったようだ。大きな瞳が横へと逸らされ、「……そう」と小さく呟きが落ちた。彼女は内心、戸惑っているのかもしれなかった。

「朱宮さま」

 桜はこれまでと同じように少女の名を呼んだ。林檎はそっと桜を見上げた。

「わたくしは……ずっと朱宮さまのことが知りたいと思っておりました。長としてではなく、任務や策に利用するためでもなく……ずっとずっと、貴女という人のことが知りたかったのです」

 長と部下の関係では言い出せなかった言葉。今なら、きっと許される。

「教えてください。貴女のことを」

 同じ組織に所属していて、誰よりも傍にいて、ずっと行動を共にしてきた。しかし、桜は林檎のことを何一つ知らない。どうしたらそんなに隙のない振舞いが出来るのか。どうしたらそんなに感情をコントロールできるのか。どうしたらそんなに知識を蓄えられるのか。どうしたらそんなに完璧な策を企てられるのか。どうしたらそんなに臆さずに行動に移せるのか。知りたいことは山ほどあった。だが結局、真に知りたいのはそれらとは別にあるのだと思う。彼女の好みが知りたい。彼女の人となりが知りたい。彼女の本当の微笑みが知りたい、本当の声が知りたい。憧れの長ではなく、一人の年下の少女として。

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