第19話
「寝ているみたい」
灯の言葉に、茜は呆れたように苦い顔を浮かべた。
「こんなところで寝たら、風邪引いちゃうぞ」
「毛布を掛けてあげましょう? うち、丁度良い大きさのものを持っているの」
二人はあまり音を立てないように注意しながら、席を立った。灯の部屋へ毛布を取りに行こうと、二人はダイニングルームを後にした。テーブルには、一人突っ伏して寝息を立てる少女だけが残された。静まり返った部屋に小さく響く、一定規則の呼吸音。それはまるで、束の間の幸せを体現しているかのようだった。
***
静けさが広がる中、桜は薄っすらと瞼を開いた。パチパチと瞬いて、視線を揺らす。寝ぼけた頭が覚醒してくるにつれ、酒による痛みも同時に広がった。思わず開きかけていた瞼を閉じ、突っ伏していた上体をふらつきながら起こす。起き上がると、椅子の上で暫くゆらゆらと身体を揺らした。普段より一段と重い瞼を、薄く開く。痛みの引いてきた頭で、桜は状況を整理し始めた。
(見回り後に共用ダイニングで酒を飲んだところまでは覚えているが……どうやら寝てしまったみたいだ)
俯いた先には、ダイニングテーブルの木目がぼんやりと広がっていた。チョコレートの箱や、ティッシュボックスは見当たらなかった。認識が曖昧な中、なんとか記憶を手繰り寄せる。
(茜や灯の前で泣いてしまった気がする。……いやそれより、書類仕事が終わっていないのに寝てしまったのはまずい……)
記憶を取り戻すにつれて、桜の顔はより一層曇っていった。懸念事項が多すぎる。
「あ、桜。起きたんだね」
すぐ隣から柔らかな声がして、桜はびくりと肩を震わせた。そういえば、隣には灯が座っていた気がする。寝てしまった後もずっと付き添ってくれていたのだろうかと、桜は横の席へと振り向いた。朧気な視界に映ったのは、編み込んだハーフアップヘアーを揺らしてこちらを窺う、梅だった。
(え。……あれ……?)
思わず瞬くと、視界が鮮明になっていった。明瞭となった視界に広がるのは、微笑みを浮かべる仲間の姿。
「良かった。実は桜と一緒にこれを食べたくて……」
梅はそう言うと、おずおずと何かをテーブルの上に乗せた。見れば、チョコレートの四角い箱だった。
(あれ、確か灯が保管していたはずでは……)
桜は未だにぼんやりとした頭のまま、じっと薄い箱を見下ろした。なんだか記憶が混乱している気がする。
「ど、どうかな。寝起きだから、今度にした方がいい……?」
難しい顔をしている桜へ、梅は気弱な様子で控えめに尋ねた。桜は弾かれたように、箱から梅の顔へと視線をあげた。
「い、いえ。ぜひ、頂きたいです」
桜の快諾の返事に、梅は安心したように顔をほころばせた。
「良かったあ。遠慮せず、沢山食べてね」
梅は桜と自身の間へとチョコレートの箱を移動させた。そして小さな塊を一つ摘み、口へと運んだ。
「……桜は最近、どう?」
桜は内心戸惑ったまま、梅を横目で覗き見た。梅はチョコレートの美味しさに頬を緩ませ、なんだか嬉しそうだった。
「どう、とは」
「任務とか、身体の調子とか? あたしはね、絶好調だよ。この前の任務では十三人の狙撃に成功したし、四千メートル以上離れた場所からの要人の狙撃の任務も上手くいった。昨日はあたしがリーダーを任された小隊が中心となって、『ラビット』の子達を追い込むことに成功したんだよ。良かったら桜も、次の戦場ではあたしを積極的に使ってね」
梅の言った活躍は全て、梅が死ぬ少し前の彼女の実際の功績だった。その絶好調ぶりから、梅が殺された戦場では狙撃部隊の統括指揮を任されていた。桜は梅から視線を逸らし、小さく俯いた。
「そう、なんですね。……わたくしは、逆に絶不調です。全然仕事が手に付かなくて……過去の記憶ばかりが頭に過って……」
こんなことを梅に言っても仕方がないのにな、と心の中で思う。
「そっか」
穏やかな声が桜の耳に届いた。結果を残している彼女に役立たずだと思われたと思うと、同じ組織の一員としてなんだか情けなく感じた。
「真面目だね、桜は」
「え?」
手厳しい言葉や失望の言葉を投げられると思っていた桜は、思わず顔をあげた。梅は桜の視線を優しい笑みで迎えた。
「そんなの人間誰だってあるんじゃないかな。絶好調の時もあれば、絶不調の時もある。そういう時は、甘い物を食べて一旦休めばいいと思う。一見活動の停止って非効率に見えるけど、その分復帰後のパフォーマンスが良くなるから結果にそれ程影響しないんだよ。だから無理をし過ぎない方が、成果面でも結局一番効率がいい」
梅は再びチョコレートへと手を伸ばし、それを口の中へ入れた。もぐもぐと口を動かす横顔を、桜はぽかんとして見つめていた。
「過去の記憶ばかりが頭に浮かぶなら、きっと気持ちの整理が必要な時なんじゃないかな。たまには任務のことを忘れて、一緒に美味しいチョコレートを食べよう」
梅はチョコレートの箱を手に取り、桜へと傾けてみせた。桜は躊躇った後、勧められるがまま塊を摘まみ上げた。艶やかなチョコレートを、そっと口に入れる。林檎に書斎で口に入れられた時、毒が入っていないと証明した時、そして泣きじゃくっている中灯に口に入れられた時。様々な記憶とともに、優しい甘さが口に広がった。
「美味しい?」
「はい、とても……」
「良かった。あたしと灯イチオシのチョコレートだからね」
えへへと穏やかに笑う梅を見ていると、なんだか心が軽くなっていく気がした。桜の表情が和らいだことに気付いた梅は、嬉しそうにチョコレートの箱を再度桜へと示した。桜は二個目のチョコレートを手に取り、口に入れて味わった。
「絶不調だなって時は、またこうやってお菓子を食べてのんびりしようよ。今回はあたしがチョコレートを用意したけど、灯が準備してくれるお菓子も抜群に美味しいんだから。大丈夫、これは任務の効率を高めるのに必要なことだもん。後輩に呆れた目で見られたりしないよ……」
後輩と聞いて、桜の頭に茜の顔が思い浮かんだ。梅が特定の誰かを指して言ったのかは不明だが、桜は素直に頷いた。
「そうですね。……梅、その時はまた誘ってください」
桜の言葉に、梅の顔が明るく晴れる。
「う……うん! 誘う! 誘うよ……!」
梅は喜びを噛みしめるようにふにゃりと頬を緩めた。桜もなんだか嬉しくなって、その気持ちのままチョコレートを口にした。仲間と共に微笑み合いながら食べるチョコレートは、一層甘さが深く感じる気がした。




