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黄昏の追憶  作者: 小屋隅 南斎


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第18話

「……」

 桜は照明に照らされた、艶めく小さな粒を見下ろした。滑らかな表面、小さな凹凸が影を作る上品な模様。まるで戦地で行方不明となった仲間と久方ぶりに再会したような感覚だった。箱を差し出す梅の姿が、桜の脳裏に蘇る。出会った頃は一度も合わなかった目を桜へ真っ直ぐと向けて、困り顔の面影が残ったはにかみを浮かべる彼女。何度も戦いを一緒に乗り越え、少しずつ積み重ねてきた絆が伝わる瞳。困窮した生活だったのか、何かを分けることに強い忌避感を持っていた彼女が、桜がチョコレートを取るのを微笑んで待っている。桜の目に、みるみるうちに涙が溜まっていった。

「う……」

 朧気な頭では、涙を堪えようという意思すら働かなかった。ポタポタとテーブルに落ちる大粒の雫を見て、茜と灯はぎょっとしたように目を見開いた。

「えっ、桜って酔うと泣き上戸になるタイプだったのか」

 茜は戸惑ったようにそう零した後、「前回の件から、てっきりキス魔になるのかと……」と苦い顔をして小さく付け足した。テーブルの隅に置かれたティッシュボックスへと茜の手が伸び、箱ごと持ち上げると桜の傍へと優しく置いた。桜は気付く様子がなく、一向にティッシュペーパーを取ろうとせずに頬を濡らしたまま泣き続けていた。置かれたままのティッシュボックスへ手を伸ばしたのは、灯だった。灯はティッシュペーパーを一枚抜くと、チョコレートを一粒摘まみ上げた。

「少し、しょっぱくなっちゃうかしらね」

 灯はそう言って困ったように笑ったあと、一声かけてそのチョコレートを桜の口へと入れた。嗚咽の狭間にやってきた繊細な甘さに、桜の目からさらに涙が溢れていく。林檎に『共犯』に仕立て上げられた時を思い出して、桜は激しくしゃくり上げた。あの時の記憶が心地よすぎて、涙が止まらなかった。溶けてなくなってしまうのが怖くて、なかなか口の中の塊を咀嚼することが出来なかった。

 子供のように泣き頻る桜の隣で、灯は残ったチョコレートの片方を持ち上げた。かつての仲間を前にしたように、艶やかな塊を優し気な瞳で見つめた。そしてそれを、自身の口の中へとそっと入れた。様々な記憶を辿るかのように、ゆっくりと咀嚼していく。亡き友の遺した最後の一時を、灯は穏やかな顔で大事そうに噛みしめたのだった。

 茜は頬杖をついて、泣きじゃくる桜とチョコレートを味わう灯を眺めていた。どこか他人事のように見守っていた茜は、残り一粒だけとなったチョコレートへと視線を落とした。そして、静かに口を開く。

「……私はパス」

 茜の言葉に、口の中の甘さに浸っていた灯の瞼が開いた。きょとんとしている灯へ、茜は片手で頬を潰したまま視線を向けた。

「たまかにあげたら。けっこういいところのやつっぽいし。梅も『レッド』の新リーダーに食べてもらった方が喜ぶでしょ」

「……そう?」

「うん。なんか美味しそうに食べる二人見てたら、もう腹いっぱいになった」

 茜の表情からは、その言葉が本心なのか軽口なのかは判別がつかなかった。灯は茜の提案に逡巡した後、「じゃあ……そうするわ」と微笑んで箱を見下ろした。一粒だけ残った塊は、明かりを反射して静かに佇んでいる。その上に影が差し、蓋がそっと閉められた。

「うっ……うう~~~っ……」

 まるでお気に入りのおもちゃが視界から消えた赤子のように、桜の哀哭の声が強くなった。二人は揃って桜へと顔を向けた。

「桜ちゃん、どう、チョコレート美味しかった? 梅ちゃんも味に自信があるって言ってたから、きっと桜ちゃんに食べてもらえて喜んでいると思うわ」

「うっ……うっ……」

「あら……美味しくなかった……?」

「無駄だよ灯、酔っ払いに話なんか通じない」

 泣きじゃくる桜を見て困惑する灯へ、茜が口を挟む。

「泣き上戸って何があっても泣くから。そういうものだから」

「そうなのね……」

 知見を得た灯は、心配そうに桜の顔を覗き込みながらも対話を試みることを諦めたようだった。茜も桜へと視線を向け、嘆くようにため息を漏らした。

「それにしても面倒臭い上司の姿、情けないね。見たくなかったよ……」

「あ、茜ちゃん。それは酔ってなくても泣いちゃうわ……」

 二人は好き勝手言っていたが、桜はその言葉が全く耳に入っていなかった。ただひたすらに、一人で泣き続けていた。頭の中にあるのは、温かな思い出ばかりだ。桜は耐え切れないといったように、再び机に突っ伏した。肌を叩きつける大きな音に、灯と茜の視線が再度桜へと吸い寄せられた。くぐもった嗚咽を聞きながら、灯が声色を落として口を開いた。

「……梅ちゃんが言っていたわ。桜ちゃんは真面目過ぎるから、たまには息抜きに誘わないとって。だから今度、三人でチョコレートを食べて沢山話そうって意気込んでいたの。でも、梅ちゃんって……その、人に声を掛けるの、あまり得意じゃないじゃない?」

「……気付いてたんだ」

 茜は少し驚いたようにそう言った。灯は亡き人を偲ぶように、寂し気な笑みを浮かべた。

「勿論。梅ちゃんってすごく社交的に見えて……たまに目線が逸れたり、人を誘うのを避けたりするところがあったから。だから本当は、あんまり人と話すのが得意じゃないんじゃないか、って思っていたの」

 灯はテーブルの上に両手を乗せ、指を絡めた。組まれたしなやかな指へと、視線が下がる。

「でもそんな梅ちゃんだからこそ、一緒にいて安心出来たの。うちもぐいぐい行く人はあんまり得意じゃないから……だから梅ちゃんが本当はうちと一緒なんだってわかって、実は嬉しかったのよ」

 今はいない友達を思い描くように、灯は優しく目を細めた。

「そんな梅ちゃんだったから、なかなか桜ちゃんのことを誘えなかったみたいで……。結局三人でチョコレートを食べることのないまま、梅ちゃんは亡くなってしまって……」

 灯は隣で伏して泣き続ける少女へと視線を向けた。

「梅ちゃんがいない今、うちが桜ちゃんをもっとお茶会に誘わないといけなかったわね……」

 後悔と共に仲間を見下ろす灯の対面で、茜は視線を横へと逸らした。

「……いや、桜をどうにか出来るのは、きっと朱宮さまだけだと思うけどね」

 小さく呟かれた言葉に、灯は目を丸くして発言主へと顔を向けた。

「朱宮さま? どうして?」

「あのお方は桜という駒の力を最大限に引き出していた。桜だけじゃなくて、梅も灯も、私も。『レッド』のメンバー全員が、彼女に陰から支えられていた。あのお方を失った『レッド』は、これから自分の力だけで自分という駒を動かす必要がある。でも、あの方以上に上手く動かすなんて無理だ。例え自分自身だとしても」

 茜は逸らしていた視線を、突っ伏した下で未だに泣き続けている少女へと向けた。

「桜を動かすことが出来るのも、結局朱宮さまだけ。……でも朱宮さまは、もういない……」

 灯も、茜の視線の先を追った。

「桜ちゃんが……自分で乗り越えるしかないのね」

 灯は一度口を閉じた。しかしすぐに、「でも」と小さく零した。

「それでも……一緒にチョコレートを食べてもいいんじゃないかと思うの。桜ちゃんという駒を、最適に動かすためじゃなくてもいい。温かいココアを入れて、ミルク味、苺味、抹茶味、マカダミアナッツやジャンドゥーヤ……様々なチョコレートと共に、桜ちゃんの話を聞くことがあってもいいと思うわ」

「桜の任務の効率には影響しないと思うよ?」

「ええ。きっと、それでもいいのよ」

 灯は柔らかく微笑んだ。灯の言葉に、茜は小さく口を尖らせた。

「たまかが長になってから……なんか、『レッド』は弛み出したね。組織員の繋がりは戦場での意思疎通に有用だから、お互いを知るのは駒を有効活用するのに役立つから、それが暗黙の了解だったのに。合理的に考える人間ばかりだから、お互いのことは戦場の駒としか認識していなかったはずだ。それがリーダーがたまかに代わって、雰囲気が変わってきている気がする」

 茜は不満気な顔を隠そうともせずにそう言った。

「桜もそのせいでこんなんになっちゃったんじゃない」

「そうかもしれないわね。……でも、うちはそんな『レッド』もいいと思うわ」

 灯は茜へにっこりと笑ってみせた。茜はこれ見よがしにため息をつき、頬に当てた手の角度を変えて口を覆った。

「……まあ、おめでたい新リーダーにはお似合いかもね」

 吐き捨てられたその声は、言葉に反して柔らかかった。灯もそれに気付き、小さく微笑む。灯も茜も口を閉じたことにより、僅かばかり静けさが広がった。

「……あら?」

 泣き声が止んでいることに気が付き、灯は突っ伏したままの桜を覗き込んだ。近くに顔を寄せると、小さく寝息が聞こえてきた。

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