第17話
出入口の方から、驚愕に染まった声が聞こえてきた。桜は早くも紅潮した顔を静かにあげた。そこには『レッド』のメンバーの一人、茜が立っていた。彼女はまだ『レッド』の紅色の制服を纏っていた。茜は狼狽えたように……いや、呆れているのだろうか。桜の座るダイニングテーブルへと駆け寄って来た。桜には茜の姿が二重に映っていて、その表情はよくわからなかった。
「なんで酒? 桜って酒に滅茶苦茶弱かったじゃん。『もう二度と飲みません』って言ってたあんたは一体どこにいったのさ……、……なんかあった?」
茜は桜の正面に座ると、窺うように桜へと顔を近づけた。左右の耳の下で、小さく三つ編みにされた珊瑚朱色の髪が跳ねていた。この距離だと彼女の顔にありありと呆れが浮かんでいるのが良く見えた。同時に、少し心配しているような雰囲気もあった。桜はその顔を、重い瞼の奥からじっと見つめた。……頭がぼーっとして、茜の顔を眺めているだけでなんだかいい心地だった。いつまでも答えない桜に、茜は訝し気に眉根を寄せた。
「……大丈夫? もしかして、もう酔ってる?」
茜は置かれた缶を見下ろし、中を覗いた。三分の一程減っている。桜はぼんやりとした頭で思考する気にならず、反射的に首を左右に振った。
「酔ってなんれ、らいれすよ」
「……コントか?」
茜は眉間に皺を寄せたままそう呟いた。上司に向かって酷い言い草だな、と桜は思った。彼女は基本的に、林檎以外の者を自分より上の立場とは認識していないところがある。……ちなみに桜はそれでいいと思っているため、その思想について口を出したことはない。
「まだちょっとしか減ってないじゃんか。相変わらず酒に弱いんだな」
茜はため息をつきながらそう零した。彼女の手が、桜の前のアルミ缶へと伸びる。桜はむっと頬を膨らませ、缶を先に掻っ攫った。
「弱くなんれ、ありません。……持っれこうとしないれくらさい」
茜を睨みつける。茜は手を虚空に伸ばしたまま、眉尻を下げた。
「いや……桜が酒で大失態を演じたのは皆知ってるし……」
「…………」
思い出したくもない記憶を呼び覚まされそうになり、桜は深く考えることをやめた。
「もう絶対に飲まないって固く誓ってたのに。……本当にどうしたんだ?」
「……。……なんにも……」
桜は小さくそっぽをむいた。赤くなった頬が茜を向く。口からは、それ以上の言葉は紡がれなかった。
「それと一般的な見解を言わせてもらうならば、いつ襲撃されるかわからない中で酒に溺れるのは、指揮官としてどうかと思う」
「……」
ぐうの音も出ない、忌憚のない意見だった。桜は眉間に皺を寄せたあと、返す言葉に窮したのを誤魔化すように缶の中身を口の中へと傾けた。ごくごくと飲む度、頭の中が熱くなって、段々とふわふわとしてくる。茜は片肘を立て、桜が酒を飲む様子を眺めていた。
「……そんなこと、わかっれますよ」
ぷはあと息をつき、桜は茜へじっとりとした目を向けた。
「それれも……飲まないとやっれられない時も、あるんれす」
茜は桜を眺めたまま、瞬きをしただけだった。桜は反応のない茜を無視し、再び缶を口元へ寄せた。傾けて、口の中へ流し込む。アルコールの独特の苦みが広がり、火照りが強くなり、頭がふわふわとして、気持ちが良くなってくる。全てがどうでも良くなって、何も考える必要がないように感じてくる。とても、心地いい。
「たまかが見たら、なんて言うかな……」
酒を飲み続ける桜を前に、茜は呆れたように苦笑を浮かべた。桜は朦朧とした頭の中で想像してみたが、自堕落な姿よりも未成年飲酒の悪影響を気にしそうだなと思った。
不意に、茜の肩越しに小さく人影が見えた。視界の奥、出入口の外の廊下。彼女も桜と茜に気付き、通り過ぎようとしていた足を止めた。
「まあ、二人とも何して……あら?」
長い髪を揺らして和やかに声を掛けてきたのは、灯だった。彼女も『レッド』の制服を着ていることからして、案外任務を続けている組織員はまだ残っていたようだ。彼女は部屋に入って来ると、ダイニングテーブルを周って桜の隣の席へとやってきた。近寄ったところで酒の缶に気が付き、灯は驚いたように目を丸くした。
「桜ちゃんがお酒!?」
灯は素っ頓狂な声をあげ、驚いたように口を手で覆った。灯も桜の醜態は記憶に新しいらしく、慌てたように桜のおかっぱ頭を見下ろした。
「ど、どうしたのかしら。お酒なんて駄目だわ、温かいココアを入れるからそっちにしましょ? 桜ちゃんの好きな甘い物もうんと用意するから、それ以上は……」
「……」
桜は灯の言葉に負けじと缶を持ち上げ、自棄になったように酒をごくごくと喉へ流した。隣であわあわとする灯、片肘をついたまま眺める茜。二人に見守られながら、どんどんと缶を傾けていく。
「ぷはっ」
最後まで飲み切り、空の缶を高い音を鳴らしてテーブルへ叩きつけた。ぐわんぐわんと頭が揺れる。身体が熱い。……でも、心地いい。
「何言っても無駄みたい。何があったか教えてくれないんだよね。……とりあえず、座ったら?」
茜に促され、灯は漸く思い出したように椅子へと座った。その間も始終、灯は心配そうな顔を桜へと向けたままだった。
「『レッド』が急激に変化したせいで、桜ちゃんの負担も大きくなって……限界だったのかしら」
灯は桜の顔を覗き込みながら、沈痛な面持ちを浮かべた。
「桜の仕事、全部たまかに押し付けちゃえばいいのにな」
茜は悪い顔でせせら笑った。茜の冗談に灯は頬を膨らませ、「あら、たまかさんだってやるべきことをちゃんとやっていると思うわ」とやんわりと反論した。自由に言い合う二人の横で、桜はぼうっとする頭に声が響くことに眉根を寄せた。
「……うるさいれす」
桜はふらふらとする頭に耐え切れず、テーブルへ突っ伏した。火照った頬に、天板の冷たさは丁度良かった。思考が纏まらないが、それが気分を楽にした。ふわふわと空に浮かぶような心地は、まるで皆が揃っていた過去に戻ったかのようだった。
「呂律、まわっていないわ」
伏せた後頭部を見下ろし、灯は心配そうに零した。茜は「ずっとだ」とでも言うかのように肩を竦めた。
「……なんで、皆いなくなるんれすかね」
テーブルに倒れた下で、桜はぽつりと呟いた。……頭が働かない。心に浮かんだ言葉が、そのまま口から出て行ってしまう。
「明日が休戦日だからだと思うわ」
灯は酔っ払いの言葉にも真面目に返した。余裕が出来る休戦日前の今日、恐らく大多数の者は既に帰っていて館内には残っていない。
「わたくしは……」
頭の中が霞がかって、火照りと共に漠然とした幸福感に包まれた。まるで、あの方の後ろを歩いていた時のようだと桜は思った。
「……ずっとお傍にいたかったのに……、…………」
消え入りそうなか細い声が、縋るように呟きを漏らした。桜は伏せた暗闇の中、零れそうになった涙を必死に堪えた。桜の微かな言葉を聞いて、茜と灯は揃って顔を見合わせた。そして二人の視線は、横に放られた空き缶へと向かっていった。二人共、桜が酒を飲み出した理由を察したようだった。誰も口を開かず、暫くの間静寂が部屋を支配した。
「……桜ちゃん」
静けさを破り、灯は穏やかな声で名前を呼んだ。そして、桜の横からがさごそと漁るような音が聞こえ始めた。視界がぼやけた上複視となっていたため判別出来ていなかったが、どうやら灯は手に何か持っていたらしかった。
「あのね、一緒にこれを食べないかしら? きっと元気が出るわ。良かったら、茜ちゃんも」
灯の優し気な声に、桜は突っ伏していた顔を僅かにあげて、横へと視線を向けた。机上には、見覚えのある箱がのっていた。桜は思わず息を呑んだ。薄い四角形。……梅のチョコレート。
「実は丁度、残り三つなの」
灯の言葉通り、蓋のあけられた仕切りの中はほとんど空だった。残りは三粒だけ、艶やかな塊が間隔をあけて収まっている。
「梅ちゃんが買ったチョコなんだけれど……梅ちゃんの遺品ってこれだけだから、勿体なくてなかなか食べられなくて。今日も取り出して、結局食べるのをやめたところだったの」
灯は箱を三人の中心へと寄せた。
「でも皆で食べたって知ったら、きっと梅ちゃんは喜んでくれるわ」
灯はそう言って、寂しさを滲ませて微笑んだ。




