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黄昏の追憶  作者: 小屋隅 南斎


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第16話

(わたくしが朱宮さまに臣従することは、そんなに変なことだろうか……)

 あんなに可愛いらしくて可憐で、何もかもを思い通りにするような策を思いついて、どんなことも知っていて、どんな窮地をも切り抜ける程頭の回転が速くて、華奢な体躯に反していつも強気で格好良くて、守っているつもりが気が付けば常に守られているような人を、裏切ろうという発想になるはずがないのだ。桜の憧れで、なりたい理想で、そして世界一大好きな人なのだから。

(……朱宮さまは、自分へ好意を向けられるという発想が頭から抜け落ちているように感じるな)

 組織員が自分を好意的に見るという思考が存在しないから、常に裏切られる可能性を考慮し、身構えてしまうのだろう。その異常な程の警戒心は、まるで自分へ向けられる感情には必ず裏があると知っているかのようだった。

(わたくしの気持ちの、ほんの少しでも伝わればいいのに……)

 林檎さえ隣にいれば満たされる、この大きな感情のほんの少しだけでも。そうすれば打算や思惑や裏切りのない、純粋な好きの気持ちが自分に向くこともあるのだと気付いてもらえるかもしれない。しかし一方で先程の様子を見る限り、彼女の認識を変えるのは大河を手で堰くように難しいことであるようにも感じられた。彼女は裏切りのない純粋な好意を受け取ったことがないのかもしれない。心を許した相手に、最後まで傍にいてもらえた経験がないのかもしれない。それほどまでに、彼女の頭からは特定の思考がすっぽりと欠落しているようにみえた。

(でも……)

 桜は歩きながら掌を見下ろした。そこには何も包まれていない、空のキッチンペーパーが皺を作って収まっていた。

「召し上がっていただけたし、さらに美味しいとも言ってもらえたんだ」

 上手くいかないことばかりではなかった。部下である桜の手から受け取り、彼女は確かにチョコレートを口に入れた。例え林檎の心に変化は無かったとしても、桜にとっては大きく意味のある行動だった。何より彼女が甘い物が好きかもしれないという情報は、桜にとって唯一無二の大きな収穫だ。

(召し上がるお姿も、麗しかったな……)

 林檎の貴重な姿を脳裏に蘇らせる。彼女は常に口に入れるものを警戒しているため、あまり人前で物を口にすることがない。白くしなやかな指先で、艶やかな唇の奥へとチョコレートを押し込む様。まるで絵画のような魅惑的な美しさを感じた。それを見られただけで、チョコレートを持っていった甲斐があったと言える。桜は浮かれたように頬を緩めた。自分だけがあの姿を知っていると思うと、優越感も覚えた。それにあの美味しいチョコレートを再び味わってもらえたことも、純粋に嬉しかった。途端に元気が湧いた桜は、ステップをするように小さな身体を揺らしながら、空のキッチンペーパーを大事そうに丸めたのだった。




***




 開け放した観音開きの小さな扉の前で、桜はしゃがみ込んだままぼんやりと暗闇を見つめていた。重ねられたフライパンとボウルの奥には、虚空ばかりが広がっている。

 結局、梅とチョコレートを食べる機会は訪れなかった。二人共……特に桜が、次から次へと任務に追われ、ゆっくりお茶会をするような時間などなかったためだ。どの組織も落ち着きなく暴れてばかりで、本当に困る。あのチョコレートの箱を見たのは、梅へ返した時が最後となった。その後梅がどこへチョコレートを隠す事にしたのか、桜は知らない。

(組織員達は任務を遂行するという目的と利益の一致した者達でしかない。決して『ブルー』のような友情や仲間意識があるわけではないが……)

 桜は暗闇へ向けた顔を、悲しそうに歪めた。

(梅とのお茶会は、しておくべきだった。朱宮さまに、言われた通りに。……話したいと思った時には、もう会えなくなっているのだから)

 項垂れた後、桜は開け放していた扉を力無く閉めた。閉ざされた扉を前にして、重い腰を上げて立ち上がる。しかし一向に出入口に向かう気配はなく、桜はその場にぼうっと立ち尽くしていた。

(チョコレート……流石に再度この部屋に隠してはいないか)

 今しがた閉めた扉の隣を開けて、中腰になって覗き込む。予備の笊と大きな鍋が重ねられていた。すぐに閉めて再びその隣を開けると、ボトルが何本か仕舞ってあるのが見えた。みりんや醤油のようだ。ここにも四角い箱は見当たらなかった。

「……」

 棚の扉を閉め、今度は目に付いた引き出しを開けて、中を見る。さらに隣の引き出しを開けたが、やはり箱は入っていなかった。この部屋にはないだろうとわかっているのに、なぜか探す手は止まらなかった。桜は冷蔵庫へ向かった。扉を開けると、冷たい風が桜の頬を掠めた。食品は数多入っていたが、目当てのチョコレートの箱は見当たらなかった。牛乳、卵、にんじん、ハム、ジュース、酒、プリン、ヨーグルト。そのいくつかには色とりどりの付箋が貼られ、様々な筆跡で名前が書かれていた。

(あるわけないのに、何をやっているんだろう……)

 冷気に当てられながら、桜は何気なく見渡していた視線を止めた。桜が目を止めたのは、何も付箋が貼られていないアルミ缶だった。共用キッチンには寮生の私物と共用の食材が置いてあって、私物には名前を書く決まりとなっている。基本的には自分の部屋にある小型冷蔵庫に入れるため、わざわざここに入れるのは何かしら理由がある場合が多い。一方で名前の書かれていないものは、常備してある共用の食材だ。需要の高いものが一定数常に置いてあり、欲しい者は名前を書いて自分の物にすることが出来る。その場合は代わりに新しい物を買ってきて、自身の消費する物と交換で補充をする義務が発生する。つまり、補充さえすれば『お好きにどうぞ』ということだ。

「……」

 桜は名前の書かれていないアルミ缶を手に取り、ラベルを見下ろした。大きくプリントされた商品名は、アルコール飲料のものだった。桜は暫し睨めっこをした後、それを手にしたまま冷蔵庫の扉を閉めた。そして、すたすたと共用キッチンを出ていった。

 隣にある共用のダイニングルームへ向かうと、室内に人の姿はなかった。ここは共用リビングとは違ってダイニングテーブルと椅子だけが並んでおり、主に食事や歓談に使用される。しんとした部屋を進み、桜は隅のダイニングテーブルへと向かった。壁際の隅の席を選び、椅子を引いて腰を下ろす。そして木目の広がるテーブルへ、音を立ててアルミ缶を置いた。

「はあ~……」

 瞼を強く閉じ、肺の奥から深くため息を吐く。そして、首を小さく横へと振った。

「駄目だ。駄目だ!」

 何をしても、目の前のことに全く集中出来ない。気が付けば、今はいない人のことばかり考えてしまう。こんな調子では、タスクが一生終わらない。

 桜は乱暴にアルミ缶を掴むと、勢い良くステイオンタブを引っ張った。プシュ、と小気味よい音が小さく響く。

(アルコールで、全部解決してやる)

 『レッド』の次期リーダーとは思えないような、短絡的かつ馬鹿げた思考だった。しかし何かで頭の中を洗い流さないと、会えない人達を一生追い求めてしまいそうだった。しゅわしゅわという炭酸の弾ける音を聞きながら、桜は自身の掴んだ缶を睨んだ。その目は、全てをお前に託すという据えたものだった。

(梅も朱宮さまも、もういないのに)

 口元へ近づけると、アルコールの独特な匂いがつんと鼻を通り抜けた。

(本当に、何をやっているんだ)

 彼女達は、もう死んだのだ。もう二度と会うことは出来ないし、話すことも出来ない。それを理解しているはずなのに、どうしていなくなった人達の影ばかり追い求めてしまうのだろう。

「……っ!」

 桜は勢い良く缶を傾け、中身を口に流し入れた。冷蔵庫でキンキンに冷やされた液体は、口内と喉を急激に冷やして通り過ぎていく。冷たいものを飲んだはずなのに体が温かくなってきて、頭がぼんやりとしてきた。心臓が早打ち始める。

「……」

 桜は再度、缶を傾けた。がむしゃらに、ごくごくと喉を鳴らす。

(二人は、こんな姿を見て怒るだろうか)

 閉じた瞼の裏側に、二人の姿が浮かんだ。次期リーダーのろくでもない姿を見て、彼女達は何と言うだろうか。

(……会いたい)

 閉じられた中で、瞳が潤み出す。なぜもう会えないと認識しているのにも拘らず、こんなに会いたいと願ってしまうのだろう。いつからこんな、わかりきった不可能を求めるような無意味な思考をするようになってしまったのだろう。『レッド』の重視する合理性と、真逆を突っ走っているではないか。けれど二人のことを思うと、どうしても止められない。

(アルコールで、全部忘れられたらいいのに……)

 桜は陰鬱な気持ちとともに、酒臭くなった息を吐き出そうとした。……その時。

「あれ、桜? ……えっ、何、酒……!?」

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