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黄昏の追憶  作者: 小屋隅 南斎


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第15話

「朱宮さま、どちらかお好きな方を選んで頂けませんか」

 デスクの正面まで歩み寄ると、手の中を林檎に向かって広げて見せた。食い下がる桜が珍しかったのか、あるいは押し問答になることを面倒に思ったのか、林檎は気が進まない様子ながらも適当に付き合ってくれるようだった。桜の掌に置かれたチョコレートを僅かに覗くと、彼女は左側のチョコレートを指差した。

「左ですね。では、わたくしは右のチョコを頂きます。もしわたくしが朱宮さまに害をなそうと思っていたとしても、これで失敗に終わります」

 桜は林檎の選ばなかった方のチョコレートを摘み、迷わず自身の口へと入れた。林檎の目の前で、もぐもぐと口を動かす。……美味しい。もちろん毒など入っていない。カカオとミルクの深い甘みは、いつ食べても美味だった。林檎にも味わってほしいと思いながら、桜はこくりと嚥下した。

 林檎がどちらを選ぶかなど事前に知りようがない。毒殺するとしたら両方のチョコレートに毒を入れるしかないが、片方のチョコレートは既に桜が食して無事だった。つまりキッチンペーパーの上に残ったチョコレートに、毒は入っていない。

「……」

 桜の掌には、一粒のチョコレートだけが残されていた。自身の前に差し出された手へ、林檎は静かに手を伸ばした。細い指先でチョコレートを摘まみ上げ、彼女はそれをじっと見下ろした。感情を浮かべないまま、しかし一向に口に持っていこうとはしない。暫しの間、林檎は静寂と共に施された上品な模様を見下ろし続けた。やがて僅かに瞳が伏せられ、その指先は口元へと動いた。艶やかな唇の前で、チョコレートはピタリと止められた。

「……使う毒の種類は把握しているのですから、予め解毒剤や拮抗剤、活性炭を摂取しておけば、相手だけ毒殺することは可能ですよ」

 感情の読めない顔で、林檎は淡々とそう言った。視線は下げられており、桜と目が合うことはなかった。それから、チョコレートが唇の奥へと落とされた。

「……」

 林檎は言葉とは裏腹に、躊躇いなく歯を突き立てた。桜を信用しているというより、覚悟が決まっているような雰囲気だった。桜は固唾を飲んで見守った。痛い程の桜の視線を浴びながら、林檎はゆっくりと口を動かし始めた。

「……」

 書斎には静けさが満ちていた。二人とも何も言葉を発しなかった。小さく口を動かし続けていた林檎は、やがてこくんと喉を上下させた。動きを止めた少女の姿は、まるで等身大の人形が座っているかのようだった。……静寂。止まった時を再開させるように、林檎は小さな口をそっと開いた。

「……美味しい、ですね」

 勿論毒など入っていない。林檎は無表情のまま零して、ずっと逸らされていた視線を桜へと向けた。見上げた大きな瞳には、喜びを抑え切れていない桜の顔が映っていた。

「……変な人」

 林檎は小さな声で、ぼそりと呟いた。行動に対しての言及なのか表情に対しての言及なのか不明だったが、今の桜はそんな些細な事を気にしてはいなかった。自身の献上したチョコレートを、あの林檎が口にしてくれたのだ。警戒心が強く、誰のことも信用していない彼女が。その夢のような事実が、奇跡のように嬉しかった。彼女は組織員のことを決して信頼することはないのかもしれない。けれど小さな小さな一歩を、確かに踏み出せた気がした。

「わたくしが朱宮さまを害することなど、有り得ません」

 桜は胸を張って言い切った。この先何が起ころうとも、桜が林檎を裏切ることなど決して起こり得ないのだ。桜は曇りない眼で、林檎を真っ直ぐと見つめた。

(例え貴女が『レッド』の長でなくなっても、『レッド』の者達に追われることになったとしても、この世の全ての組織と敵対しても——)

 揺るがない瞳、真剣な表情。

「貴女を裏切ることなど、決して致しません。わたくしは——貴女に一生ついていきます」

 心の内を、長へと曝け出す。彼女に少しでもこの気持ちが届くようにと、心の中で願いながら。

「……」

 林檎は口を結んだまま、じっと桜を見上げていた。桜からの真っ直ぐな視線を浴びながら、彼女はそれが見えていないかのように探るような目つきを向けていた。その表情からは、彼女の心の内は何も読めない。暫し静寂を挟んだあと、林檎はその艶やかな唇を僅かに開いた。

「……やっぱり、変な人」

 林檎は目を細めた。呟いた言葉はとても小さく、静寂にすぐに溶けていった。彼女はまるで奇異な動きをする実験動物を見たような目をしていた。

「……むしろ毒が入っていた方が、張り合いがあって良かったのかもしれないわ」

 林檎はティッシュペーパーを一枚抜くと、指先を拭き始めた。その言葉に、桜は目を丸くして訊き返す。

「……朱宮さまは、謀叛をお望みなのですか?」

「いえ、面倒事は嫌いです。ですが長の座を奪うくらいの気概があった方が、組織の要としては健全でしょう?」

 そんなことは考えてもみなかったが、確かに『ブルー』や『ラビット』の殲滅に躍起になる人間ならば、血気盛んな思考になってもおかしくないのかもしれない。『レッド』をこの国で一番の組織へのし上げようと頭を使い貢献するほど、この組織のトップには自分こそが相応しいという考えになるのもある意味では自然だろう。そのような思考になる程に組織に貢献し尽力してこそ、組織の要の人材足り得る。そう林檎は考えているのかもしれない。

「……申し訳ございませんが、わたくしがそのような考えを持つことは、永遠にありません」

 桜ははっきりと否定の言葉を口にした。桜が長を害し、その座を奪おうとする日など、絶対に来ない。桜がこの組織をのし上げようとしているのは、偏に林檎のためだけなのだから。

 指先を拭いていた手が止まり、林檎は桜を見上げた。大きな二つの双眸が、じっと桜を見つめる。

「真面目な回答ね。……意外だわ」

「……意外、ですか?」

 そんなに野心に溢れているように映っていたのだろうか。困惑する桜を置いて、林檎は椅子から立ち上がった。隅に置かれたダストボックスの前へ立ち、丸めたティッシュペーパーを中へとそっと落とす。

「あなたは『レッド』の長の立場に、並々ならぬ執着を持っていると思っていたから」

「え……」

 全く心当たりがなかった。戸惑う桜へ、林檎が振り返る。頭の脇に作られた髪の輪が、上品に揺れていた。

「だって桜は、いつも長を第一に考えるでしょう。抗争中も過保護な程長の身を守ろうとするし、会談があると必ず護衛に付き添うわ。普段の言動も、長の品格や権威を保とうとするものばかり。あなたの中で『レッド』の長という肩書きは、きっと神格化されているのでしょうね」

「……!」

(それは『レッド』の長という立場に執着しているのではなく——)

 林檎は声色を落として続けた。

「……わたしも『レッド』の長の席に座る以上、あなたが期待する理想の『長』でいようと常に心掛けております。ですがもし、相応しい振舞いが出来なくなった時は……それこそ、あなたに殺されるだろうと思っていたわ」

 薄っすらと浮かべた笑みには、仄暗さを感じた。桜は顔色を失ったまま、立ち尽くすことしか出来なかった。

「今日がその日かと思ったけれど、どうやら違ったみたい」

 椅子に戻って腰を下ろし、林檎は緩慢に瞳を閉じた。口元に浮かんだ笑みは、安堵とも挑発とも違う気がした。桜はぎこちなく口を開いた。

「わ、わたくしは……」

 桜は何と言葉にすればよいのかわからないまま、大きなすれ違いを解こうと身を乗り出した。しかし桜の言葉を制するように、林檎の白い掌が桜へと向けられた。

「『害することなどしない』、あなたはそう言うしかないでしょう。……あなたの主張はわかりました。それがどのような狙いを持っているにせよ……この場でこれ以上言い合っても、お互いに無益ですね」

 林檎は思う所はあるようだったが、追及を避けて応酬に終止符を打った。彼女は両手を膝の上に置くと、背筋を伸ばして桜を見上げた。

「……報告、ありがとうございました。チョコレートも美味しかったです。ごちそうさまでした」

 上品な微笑みを添えて、林檎は締め括るように感謝を述べた。

「ですが、今度はぜひ梅と食べてあげてください。あの子も桜と食べたがっているでしょうから」

 見送るような微笑みを前にして、桜は一度黒髪を揺らした。しかしすぐに顎を引き、「はい」と短く答えた。深く頭を下げて「失礼いたします」と挨拶をすると、桜は長へと背を向けた。アンティーク調の重い扉を開け、書斎を出る。奥の彼女がどんな表情をしていたのかは、知ることは出来なかった。閉じた扉のドアノブを掴んだまま、桜は俯いた。

(朱宮さまは誰のことも信じてなどいない。……わたくしのことも)

 林檎は桜の言葉に別の狙いがあると思っているようだった。いつか裏切る時のため、忠誠を誓う素振りを見せて油断させようとしているように見えていたのだろう。拒絶されなかったのが、せめてもの救いだ。桜は漸く書斎のドアノブから手を離し、廊下をとぼとぼと歩き出した。

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