第13話
桜が共用キッチンへ入ると、先客はびくりと肩を震わせた。しゃがんでいた彼女は、恐る恐るといったように出入口を振り向いた。前髪越しに覗く瞳と、目が合う。
「桜……」
編み込んだハーフアップヘアー、丸く縮めた背中。座って棚の奥を覗き込んでいたのは、梅だった。彼女は現れた人物の名前を呟くと、そわそわとした様子で口を閉じた。
「これをお探しですね?」
桜は手に持ったショッパーを掲げてみせた。梅が共用キッチンに入ったのを陰から確認し、先日林檎から直々に受けた任務をいよいよ遂行する時が来たのだと思って追ってきたのだ。
「あ、それ!」
梅はショッパーを指差し、気まずそうに視線を逸らした。
「……バ、バレてたんだ……」
「チョコレートを隠してこっそり食べていたことですね? バレてますよ、とっくに」
本当は気付いていたのは林檎なのだが、それは言わずに黙っておく。桜は梅の横へと近寄り、彼女と同じ様にしゃがみ込んだ。
「なぜこんな場所に隠したんですか?」
「り、理由は特にないよ。ここ、温度や湿度が丁度良かったから……」
誤魔化す様子もなく、梅はばつが悪そうにしながらも素直に桜の質問に答えた。
「梅の家に置いておけば、バレなかったと思いますが」
「それだと灯と一緒に食べられないでしょ? 一人で食べるために買ったわけじゃないから……」
やはり林檎の予想通り、灯と二人で食べていたらしい。桜は持っていたショッパーを、梅の前へと差し出した。
「ここに置いておいては、他人の手が介入する余地ができてしまいます。不用心ですので、鍵を掛けられる場所などに仕舞うべきだと思います」
「あれ……没収じゃないの?」
「しませんよ、他の人の手に渡るのを避けるために預かっていただけです。その……ペナルティとして、少し中身を頂いてしまいましたが」
梅に倣って、桜も素直につまみ食いしたことを申告した。梅は桜の告白にも怒るようなことはなく、「そうなんだ」と返しただけだった。そして差し出されたショッパーを受け取ると、スカート越しに膝の上へと置いた。
「このチョコレートはね、灯と食べるために買ったんだ。……といっても、別に二人だけで食べようと思ってたわけじゃないの。桜にも食べて欲しかったから、結果的には良かったかも……」
梅はそう言いながら、ショッパーの中から四角い箱を取り出した。ショッパーと入れ替わりで膝の上に乗せると、蓋を開けた。カカオの香りが濃くなり、ふんわりと部屋に漂う。
「……三つ。もっと食べて良かったのに」
『レッド』のメンバーは観察眼に長けていて、些細なことも記憶して違和感をすぐに察知する。それは任務中だけではなく、日常生活においても同様だ。梅も今までに灯と食べたチョコレートの数を記憶していたようで、無くなった数を瞬時に当てた。
(……朱宮さまは梅のこの反応を予測していたから、『もう少し味見していい』って言っていたのか)
こっそり食べてしまったことを、てっきり梅は怒ると思っていた。しかしもともと桜にも分けようと思っていたらしく、怒るどころかむしろ少し嬉しそうだった。これではペナルティにならないからこそ、林檎は桜にもっと食べてもいいと促していたのかもしれない。安易な隠し方を叱ろうと思っていた桜は、梅の反応になんだか毒気を抜かれてしまった。
「……とても美味しいチョコレートですね。良い所の物でしょう?」
蓋を戻す梅へ、桜は先程までの勢いを無くしてしおらしく尋ねた。梅は照れ臭そうにしながら、はにかんだ。
「えへへ、灯はあたしと同じで甘い物が大好きだからね。その辺のじゃ満足してもらえないと思って……ちょっと頑張ったの」
桜はショッパーへと視線を落とした。印字されたブランド名から、値が張ったであろうことが推測された。梅は金銭的余裕がないのか、いつも質素な物を使うよう心掛けている節があった。彼女が贅沢をしているところを見たのは、これが初めてだ。
「贈り物なんてほとんどしたことないから緊張したけど……このチョコレートは本当に美味しいって聞いたから、灯も気に入ってくれると思って。……あたし、椛みたいに上手く面倒見ることなんて出来ないのに、いつも一緒にいてくれているからその恩返しがしたくて。……灯は甘いものが好きだからチョコにしようって思って……」
「……それでなぜ隠して食べる発想になったのですか?」
桜は怪訝な顔で疑問を口にした。贈り物をするところまでは微笑ましい話だし、珍しくない話でもあるように感じた。それがなぜ、下手くそな隠し方をしてこっそりと食べることになってしまったのだろうか。
「あ、あたし……実はその、借金があって……」
梅は言いにくそうにしながら、自身の人差し指をちょんちょんとくっつけ、視線を逸らした。
「借金……?」
桜は初耳の情報に眉根を寄せ、探るように梅の顔を窺った。重い瞼の奥からじっと見つめられ、梅の人差し指はくっつける速度をあげていった。
「そ、そう。しかも貸してくれていた人は、好意で貸してくれてたの、たぶん。だから皆の前で贅沢はあんまりしたくなくて……」
言い方からして、同じ組織に属する者から借りていたのだろう。桜はその話に、思い当たる節があった。以前経理作業を行っていた時、桜は記録の中に不明瞭な支出を見つけた。それは定期的に発生していて、その都度決まった額が流れていた。無視をするにしては大きい額だったが、その支出は林檎の一存で決められているようだった。そのため、桜は深追いすることを止めた。林檎が関わっているのならば不正なものではないだろうし、無駄な支出でもないのだろう。そのように判断し、桜はその支出を黙認することに決めたのだった。思い返せば支出が始まったのは、丁度椛が組織にやってきた頃のようだった。一方で同じ頃から、林檎の梅への当たり方が少し強くなったように桜は感じていた。話を聞いている分には別に梅を見限ったというようには思えず、どうやら他人の目があるところだけそのように振舞っているようだった。全てを総合して判断すると……恐らく梅へ金を貸しているのは、林檎だ。桜のような経理を担当する組織員がそれに気付くことを見越して、林檎はわざと梅へ冷たく接するようになったのだ。その振舞いを見る限り、林檎は贔屓で梅に金を貸しているわけではないのだろう。きっと、何らかの事情があるのだ。
「だから高級なチョコレートを、人目に付くところに置きたくなかったの。これは特殊な事情で工面したお金で買ったんだけど、貸してくれてる人に誤解を与えちゃうのも良くないし。だけどそうなると、置く場所に困っちゃって。あたしは家から通ってるから個人の部屋とかないし、上の階の自席に仕舞っても出し入れする時に皆に見られちゃうし。それで、共用キッチンに隠そうってなったの。ここなら食べるところも見られにくいし、灯が一人の時も食べられる。それにここで二人だけで隠れて食べるのも、なんだか楽しくて……」
おっとりと笑う梅へ、桜は苦笑を浮かべた。
「もっと適切な場所や隠し方があったと思いますが」
「こういう成り行きだったから、そこまで隠すことにこだわりがなくて。見つかったら見つかったで、別に大きな問題はなかったから……」
そこで梅ははたと気が付いたように真面目な顔を作った。
「あ、でも朱宮さまに見つかってたら一大事だったかも。見つかったのが桜で良かったよ」
「……」
「えっと、鍵付きの場所、だったっけ? 別にここに置いておいて、誰かが食べちゃっても気にしないけど……」
のんびりとした言い様に、桜は厳めしい顔を作った。
「毒が混ぜられる危険性もありますから」
「え、同じ組織の仲間に? 確かに可能性としてはあるけど、それはちょっと警戒し過ぎじゃないかなあ……」
(それは……、……同意見だ)
例え共用キッチンに置いておいて人に見つかったとして、その人物が仲間の食べるものに毒を仕込む可能性は限りなく低いだろう。『レッド』のメンバーにとって、仲間を毒殺してもメリットがない。もし他組織のスパイや侵入者が紛れていたとしても、毒物を仕込むならより不特定多数の口に入るものを選ぶはずだ。林檎の心配は、少々過剰であるように感じられた。
(……やはり朱宮さまは、誰も信用していないのだろうな)
仲間が毒を仕込むはずがない、裏切り者が出るはずがない、スパイがいれば誰かが気付いて告発しないはずがない。それらの思考は、全て組織員への信頼から成り立っている。しかし林檎は、そのような根拠のない感情論を思考から一切排除して物事を判断する。自分の組織のメンバーを、誰一人として信じてはいない。彼女の命や行動からその孤高ぶりが伝わってくる度に、桜の心には悲しみと、僅かな痛みが走るのだ。
「……警戒し過ぎるくらいが丁度いいのですよ」
内心では梅に同意しつつ、桜は戒めるようにそう主張した。
「梅と灯が毒に倒れたら困りますからね。狙撃の要と優秀な後方支援を失っては、作戦に影響が出ます」
「やさしー、ね」
梅はふふ、と忍び笑いを漏らした。……優しいのは、朱宮さまだ。桜は心の内だけで密かにそう返事をした。




