第12話
「……最下段の左隅の棚ですと、普段使わない予備のフライパンやボウルが入っている位置ですね。滅多に開かない場所なので、人目に付かないと思ったのかもしれません」
「だからといって、何の工夫もせずにそのまま入れておくのは如何なものかと思います。確率は低くとも不特定多数の人の目に触れる可能性が常にある場所は、見つかることを前提としておかねばなりません。それに共用キッチンに入るタイミングや回数、そして個人の食べ物の嗜好を加味すれば、すぐに誰の物かわかってしまうというのに」
林檎はスカートを広げて踵を返し、デスクの奥へと戻っていった。桜もその後ろをついていき、デスクの正面で足を止めた。辺りにはカカオの風味豊かな香りが漂っていた。
「こちらは朱宮さまが見つけたのですか?」
仕切りの中の空白になっている箇所を心の中で数えながら、桜はデスク越しに尋ねた。全部で八粒無くなっている。三分の一程は既に食べられているようだった。
「はい、梅の共用キッチンへの出入りが以前より増えていましたから、何かを隠していると思ったのです。直接確かめに行ったところ、こちらの箱を見つけたという次第です」
何百人もいる組織員の一人一人の行動を完全に把握し、一部屋あたりの出入りの回数の変化に気付けるのは恐らくこの国でも林檎くらいだろう。彼女は常に組織員を『見ている』。能力、行動、思考。全てはその駒を最大限に有効活用するため、そして裏切りの兆候を見逃さないためだ。
「家に持ち帰っておけば良かったのに……」
林檎の前で隠し事をしてバレないと思っていたのなら、あまりにも愚かだ。桜は呆れたように並ぶチョコレートを見下ろした。
「恐らく灯と分け合って食べていたのでしょう。梅の家へ持ち帰った場合、灯が食べたい時に食べられませんから」
林檎はそう見解を述べると、箱の中から丸い塊を一つ摘まみ上げた。
「まあそうだとしても、他にいくらでもやりようがあっただろうとは思います。隠すにしても、例えば地下牢に隠すとか、近くの空き家に隠すとか。理由をでっち上げ、そもそも隠す必要を無くすことも一つの手だったでしょう。他の組織との接待に必要だったとか、発見した不審物の毒見だとか……」
林檎は白い指に挟まれたチョコレートの粒を、ため息を零しながら見つめた。
「『レッド』の人間として、自覚が足りませんね」
桜は憤慨したように、前のめりになって林檎の言葉に同調した。『レッド』は情報と頭脳を武器に戦う組織である。組織員には常に頭を使うことが求められているというのに、人目のつかない場所にただ放置するだけで隠した気になるとは一体どういう料簡なのだろう。抗争とは無縁のただの甘味とはいえ、もう少し『レッド』のメンバー足る行動をして欲しい。
「ふふ。……そう思うでしょう?」
林檎はその顔に悪戯っぽい笑みを咲かせた。まるで桜の言葉を待っていたかのようだった。細められた瞳は、真っ直ぐに桜へと向けられている。……またその顔。桜は自身の胸が刹那的に締め付けられるのを感じた。普段林檎は物腰柔らかに、常に上品に振舞っている。しかし今の表情の方が、なんだか生き生きとして見えた。
「だから少し減っていても、仕方ないわよね」
林檎の指に摘ままれた塊は、桜の口へと伸ばされた。唇に押し付けられ、思わず口を開く。カカオの良い香りと共に口の中にチョコレートが落ちてきて、濃厚な甘さが広がった。唇に指先が掠め、柔らかな感触を残して去っていく。それを少し残念に思いながらも、憧れの長の手によって口に入れられたチョコレートを、桜は大事に大事に舌の上で転がした。
「それにしても……大変美味ですね」
体温が上昇しているのか、チョコレートはすぐに溶けて消えてしまった。甘さの余韻に浸りながら、桜はそう零した。林檎はその言葉に、柔らかな笑みを浮かべた。
「梅も灯も甘いものが好きですから。チョコレートにも、並々ならぬこだわりがあるのでしょう」
林檎は蓋を持ち上げ、そっと箱に被せた。並んだ艶やかな塊が、視界から消える。チョコレートの箱は、ブランドの名前が印字されたショッパーへと入れられた。もともとこうして隠されていたのだろう。
「さて。……桜には、梅への指摘を任せます」
「え?」
自身へと差し出されたショッパーを見下ろし、桜は狼狽えた。
「朱宮さまがご指摘なさらないのですか?」
「長直々に指摘しては、梅も畏縮するでしょう。チョコレートを隠れて食べるような些事を、とやかく言うつもりもありません。必要以上に大ごとに受け取られて、関係に支障をきたしても困りますから」
おずおずとショッパーを受け取ると、カカオの香りがふわりと広がった。
「指摘する相手としては、桜が適任と判断致しました。立場が上で注意する義務がある一方、梅とは親しく同期のような間柄ですから、桜に見つかっても梅もさして大ごとには思わないでしょう」
林檎はデスクの奥からティッシュペーパーを一枚手に取り、指を拭いながら続けた。
「指摘する内容としましては、あの場所にチョコレートを置かないこと。これでお願いいたします。誰の手にも触れられるような場所に置いておくと、毒を仕込まれる可能性がありますから……」
そこで林檎ははたと気が付いたように顔をあげ、桜へと顔を向けた。
「……今の時点で毒が仕込まれていないことは確認済みですから、ご安心を。わたしも頂きましたし」
……だから『共犯』と言ったのか、と桜は林檎の言葉を思い起こした。どうやらつまみ食い仲間に仕立て上げられたらしい。彼女は道連れというニュアンスで言ったのだろうが、桜にとっては二人だけの秘密はなんだか魅惑的な響きに感じた。
「……承知致しました。こちら、梅へ指摘致します」
桜はショッパーの中身を見下ろしながら、指示された任務を承諾した。確かに梅は人に怯えやすい傾向があるため、桜の口から指摘した方が丸く収まりそうだ。
「はい。よろしくお願いいたします」
林檎は桜の返事に満足したように、上品に微笑んだ。そして、話はまとまったとばかりに椅子へと腰を下ろした。桜の定例報告を聞くためだろう。
「……任務報酬として、もう少し味見してもいいわよ」
彼女はくすくすと笑って、囁くようにそう付け足した。普段のお淑やかな物言いからは想像もつかない、茶目っ気に富んだ悪魔的な言い方だった。なんだか楽し気な彼女を見て、もしかしたらこれが本来の彼女なのだろうか、と桜は漠然と思った。桜は林檎のことを何も知らない。常に組織のリーダー足る振舞いをする彼女が、本来どのような性格で、どのような物言いをするのか、想像すら出来ない。彼女が完璧であるが故に、本来の彼女はおくびにも出ずに抑え籠められている。だがもし、桜には素を見せても構わないと思ってくれたのだとしたら。桜の前でだけ、そっと長の仮面を外してくれたのだとしたら。桜は思わず緩んでしまいそうになった口元を、慌てて引き締めた。堪え切れない嬉しさをその表情に滲ませながら、弾んだ声をあげる。
「……その時は、ぜひ朱宮さまと」
なぜか嬉しそうにしている桜の返事に、林檎は僅かにきょとんとしたような顔を向けた。
「……真面目ね」
彼女はそう零した後、背筋を伸ばした。「定例報告をお願いします」と告げ、桜を見上げる。その顔は、いつもの『レッド』の長の顔だった。
桜は自身の長へ、定例報告を始めた。両手でショッパーを提げたまま、一日の出来事、他組織への接触の進捗、確認出来た抗争の予兆、明日の予定などを長へと伝えた。しかし業務連絡をするその顔は、上がる口角を抑えきれていないのだった。




