殺しの代金
いくつか会社を経営する、とある金持ちの男。ある夜、帰宅して玄関のドアに鍵を差し込んだそのときだった。
「動くな」
低く、抑えた声が背後から突き刺さった。同時に、背中に硬い感触が伝わる。男は即座にそれが何かを察知し、全身が凍りついた。
「そのまま鍵を開けて、中に入れ……」
有無を言わさぬ圧があった。男は声も出せず、震える手で鍵を回し、ドアを開けた。馴染みある室内の空気と匂いが鼻をくすぐり、ほんのわずかに神経が和らいだ男は、口を開く程度の余裕を取り戻した。
「や、やるな……家のセキュリティは万全だが、入る前を狙われたらどうしようもない」
「いいから、靴を履いたまま奥へ行け」
男のこめかみに汗が一筋流れたが、身体の芯は氷のように冷えていた。殺される。今夜、自分はここで殺されるのだ――。
足をもつれさせながら、リビングへと進む。命じられるまま、男はソファに腰を下ろした。視線が無意識に棚のウイスキーボトルへ、そしてその下の引き出しへと動いた。
男は鼻から大きく息を吐き出し、震えを抑えながら問いかけた。
「殺し屋……だな?」
「そうだ」
殺し屋は短く答えた。窓から差し込む街灯の明かりに照らされて、その全貌がうっすらと浮かび上がる。黒い覆面に黒いジャージ。右手に構えられた拳銃が、真っすぐこちらを向いていた。
男は内心で舌打ちした。素直にソファに座ったのは、明らかな判断ミスだった。飛びかかるには距離がありすぎるし、立ち上がった瞬間に撃たれるだろう。
いったい、誰に雇われたのか。尋ねたところで答えてはくれないだろう。思い当たる節は多い。これまで金のために多少の無茶もやってきた。憎まれることもあっただろう。そのツケが、とうとう回ってきたのだ。
とはいえ、まさか殺し屋を雇うほどの恨みを買っていたとは思わなかった。
会社の評判を考えれば、警察沙汰にはしたくない。できれば穏便に済ませたいところだが――いや、今はそんな悠長なことを考えている余裕はない。
「い、いくらで雇われた……?」
口を突いて出たその言葉に、男は笑いそうになった。こんなの殺されるやつのセリフじゃないか、と。だが、他に何を言えばいいのかわからなかった。
そこの引き出しには、いくらか現金が入っている。寝室と書斎にも。かき集めればそれなりの額にはなるが、殺し屋の報酬には到底及ばないだろう。そもそも、プロの殺し屋相手にいくら金を積んだところで――
「五万」
「そうか……ん?」
「じゃあ動くなよ。今、撃つからな」
「いや、ちょっと待ってくれ。今、なんて? 五万?」
「そう、五万円」
「五万円!? たったそれだけで、人を殺すっていうのか!?」
「おい、五万はデカいぞ」
「いや、それはまあ、そうかもしれんが……でも、五万って……」
「あー、もともとはもっと多かったらしい。先輩が愚痴ってた」
「もっと多かった?」
「そう、先輩は三十万で頼まれたんだって。で、おれが五万で引き受けた」
「中抜き!? いや、先輩って……?」
「同中の先輩。マジ世話になってて、リスペクトしてる」
「でも、そいつ二十五万も抜いたんだな……。それで、その先輩は誰に依頼されたんだ? まあ、知らないか……。いや、もしかすると、その依頼主も誰かに……さらに、もっと上にも……」
男は額を押さえた。まさか殺しまで多重下請け構造とは――。
「じゃあ、殺すね」
「いや、待て待て! 五万の十倍出そうじゃないか。だから、大人しく出ていってくれ!」
「十倍……?」
「そう、十倍だ」
「いくらだ……」
「……五十万だ。大金だろ? 先輩がもらった額よりも多いぞ」
「でも、先輩に頼まれたしな」
「なんでそこは誠実なんだよ」
「先輩、マジリスペクトしてっから」
「それはもう、よくわかった。でも、たった五万で殺される身にもなってくれ」
「いや、だから五万はでけーよ」
「五十万はもっとでかいだろ! ほら、そこの引き出しの中に入ってる。それ全部やるから、とにかく出てってくれ。それでキャンセルだ。先輩とやらにもそう言っておいてくれ!」
「あー、まあ、わかった」
殺し屋は引き出しを開け、中の札束を確認すると、それを無造作にポケットにねじ込み、部屋を出ていった。遠ざかる足音と玄関のドアが閉まる音を聞いた男は大きく息を吐き、ソファに深く身を沈めたのだった。
しかし、それから数日後の夜――。
「おい、動くな」
自宅のドアに鍵を差そうとした瞬間、背後から低い声が響いた。そして背中に蘇る、硬い感触。
「な、なんでまた……ん? いや、声が違う……まさか、あんたが“先輩”か?」
「そうだ。キャンセルだと? なめやがって……」
「ち、ちゃんと払っただろ!」
「たった五千円でキャンセルできるかよ! おら、家の中に入れ!」
――あいつ、中抜きを……。
言われるままに家の中に入る男。
果たしてこの先、あと何人の下請けが現れるのか――そう思い、深くため息をついたのだった。