第八章:君といた夏の日の残像
一緒に過ごす時間は、ときに未来を軽やかに塗り替えてしまう。
誰かと並んで暮らすことの些細な営みが、いつの間にか心の中の空白を満たしていった日々を綴ります。
真っ白な予備校の壁に残る誠一郎の参考作品を見つけるたび、心がチクリと痛んだ。
それでも、前に進まなければならない。僕は美術系専門学校に入り、卒業後、デザイン会社に就職した。
専門学校に通い出した頃からだろうか、僕は週末になると新宿二丁目へ足を運ぶようになっていた。
狭いビルの中、薄暗い灯りと派手な笑い声、ボトルやグラスに映る誰かの寂し気な視線。
そこは、正直な欲望と、たくさんの嘘と、優しさが同居する場所だった。
誰かになりたかった僕は、いつしか“誰にもなれなかった自分”を、そのまま抱えて歩くようになった。
若かったせいか、僕はそれなりに声をかけられた。自分では地味だと思っていたけれど、大人しい感じが逆に目立ったのかも知れない。
2丁目で出会った人と何人かと付き合って、別れて、また誰かと付き合ってを何度か繰り返していた。
付き合った相手は年上の人ばかりだったけれど、ある日、9つ下の男の子に声をかけられた。
彼の名前は、竜也。
きっかけは、行きつけのバーだった。お互い顔は知っていたけど、話したことは一度もなかった。
その日、ちょっと酔っぱらった竜也が唐突に僕の隣に座って来て
「前から好きだったんです」と話しかけてきた。
最初は冗談かと思った。でも彼は本気だった。
「今日は一緒に帰りたいです」とまて言ってきた。
そして、なぜかこの年下のその甘えた言葉が、妙にまっすぐ僕の胸に響いてしまった。
竜也には当時、恋人がいた。
でもその彼が家族と海外旅行に行っていて、竜也はたまたまひとりの週末を過ごしていたらしい。
やがて竜也はその彼氏とは別れ、僕らは正式に付き合い始め、一緒に暮らすことになった。
僕らは二人で暮らすために少しだけ広めの部屋に引っ越した。二人で部屋を探して、家具を買い揃え、そしてさらに大型犬のラブラドールレトリバーを飼うことになった。
生後3ヶ月の仔犬をペットショップで見かけて、そのまま抱いて帰った。
ラブラドールのマークを迎えた日。抱きかかえた竜也の腕の中で、マークはくるんと丸くなった。竜也は
「こいつ、俺たちの子供だな」と言って笑った。
それがあまりにも自然で、とても愛おしかった。竜也の瞳の奥に、かつての夏の光を見た気がした。
僕が竜也を好きになったのは、彼の可愛さでも、年下だったからでもない。
一緒に笑うと、身体の奥のほうがふわっとほどけていくような──そんな感覚を、初めて彼に教えてもらったからだ。
あの頃の僕は、何にでも臆病だった。誰かと深く関わるのが怖かった。でも竜也は違った。不意打ちのように始まった僕らの関係性が、僕の心を揺るぎない安心感へと変えてくれた。
竜也と暮らした7年間は、その瞬間全てをワクワク生きていたように思える。ごはんを作って洗濯して、テレビを観て笑って、犬を抱いて眠って、そんな何でもない普通の日々が、僕の細胞一つ一つにまで温かく染みついていた。
あの頃の僕は、知らず知らずのうちに、綺麗なココロと身体に生まれ変わっていたのかもしれない。
日々の細かな幸福は、特別な瞬間だけでできているわけではない。
洗濯物の匂い、食卓の音、犬の寝息──それらが積み重なって、心の奥に静かな光を残した。
その光が、後の別れを受け止める力にもなっていたのだと気づくのは、ほんの少し先のことだった。




