第七章:願いごとの夜
人は誰しも、心の奥に「人に言えない願い」を抱えている。
それを表に出すか、胸の中にしまい込むか──ほんの一瞬の選択で、その人の未来は少しずつ変わっていくのかもしれない。
それからしばらくは、誰にも心を動かされることなく、予備校での毎日を過ごしていた。描くことだけが自分をつなぎとめる術だった。
予備校での日々は、決して楽なものではなかったけれど、不思議と孤独ではなかった。僕には大好きな誠一郎がいたから。
東京で出会った彼は、小動物のような顔立ちで、話し方も身振りも愛くるしい幼さを残していた。
東京にはこんな男が普通にいるのか、と衝撃を受けた。初めて、何の無理もせず、ただ自然に惹かれてしまった。
彼といる時間は、どこか安心できて、楽しくて、気づけば僕たちは大の仲良しになっていた。
学校帰りに喫茶店でおしゃべりしたり、美術館へ出かけたりした。誠一郎といるとき、自分を無理に作らなくていい、今までで一番の本来の自分でいられた。
でも、ある日、誠一郎の隣に真美という女の子が現れた。
細くて、髪の長い、やわらかい雰囲気の子だった。 誠一郎の隣に立つと、不思議なくらいしっくりきた。 まるで僕らが出会う前から、そこにいたように。
僕は笑って、いつものように接した。 でも、心の奥のどこかが、静かにざわざわしはじめた。
真美は、予想以上に優しい子だった。 嫉妬や敵意なんて一度も感じたことがなかった。 誠一郎の隣にいるのが、あの子でよかったと思えたくらい、自然で、愛おしいかった。
僕たちはよく3人で過ごした。 居酒屋で長居したり、彼女の部屋で映画を観たり、誰かの誕生日にはケーキを買って集まった。
あの夏の夜も、3人で銀座にいた。たしか、小さな中華料理屋でご飯を食べて、外に出たときだった。歩道の片隅に、七夕の笹が立てられていた。
色とりどりの短冊と、吊るされた願い事たち。 子どもの字、大人の字、誰のものかわからないような願いが風に揺れていた。
隣に小さなテーブルがあって、ペンと短冊が用意されていた。 「書こうよ」と彼女が笑い、僕たちもそれぞれに手を伸ばした。
僕が書いたのは、たしか――
『人に感動を植え付けるような人になれますように』
そしてもうひとつ、
『同じ遺伝子を持った、自分の子どもが欲しい』 ……そんなようなことだったと思う。
何を考えていたのか、今となっては正直わからない。 ただ、そのときの僕は、彼らのように未来を信じられる人間でありたかったのかもしれない。
そして、その短冊は、笹の中に紛れて、静かに風に揺れていた。
それからしばらくして、ふたりは揃って第一志望の美大に合格した。
僕は──落ちた。
通知を受け取った日、なぜか涙は出なかった。自分の努力不足だと分かっていたし、結果はある程度、予想できていた。
でも誠一郎が笑顔で合格を伝えてくれたとき、真美が嬉しそうにその隣で頷いていたとき、僕はもう、二人の世界に入り込めないことを悟った。
落ちたのは、大学じゃなかった。僕は、あの温かな時間そのものから、こぼれ落ちてしまったのだ。
短冊に書いた言葉は、夜風に揺れながら誰にも読まれることなく流れていった。
けれど、願い事は消えてはいなかった。
それはやがて、心の奥に澱のように積もり、次の選択のたびに顔を出すことになる。




