鼠と小舟
ある3匹の鼠は、気がつくと大きな水槽の中に囚われておりました。
当然と言うべきか水槽には水が張ってありました。暗い水面に浮かぶ3匹は何とか逃れようと泳ぎますが、鼠の爪は金魚鉢のガラスの前にはいかにも無力でした。
「ジョシュ坊のしわざに違いない」元気な鼠はこう言いました。近所でも残酷で有名なジョシュ坊は、かねてから鼠たちに恐れられておりました。鼠取りにかかった哀れな犠牲者の尻尾を千切るなんて朝飯前。何匹もの鼠を捉えた時には互いの尾を結び合わせたこともありました。水に溺れさすなんて、いかにもやりそうなことではあったので、少なくとも彼はそう信じているようでした。
「いや、それならば覗き込まれていないのはおかしい」賢しらな鼠は言いました。確かにこのまま放っておいたら鼠は溺れ死んでしまいます。でもそれではジョシュ坊の嗜虐心は満たせません。もがき苦しむ姿を見るでもなく、ただ殺すためならほかにもやりようはありそうです。賢しらな鼠は一生懸命考えましたが、誰のしわざか答えは一向に見つかりませんでした。
「そんなことよりも今は休める場所を探さないと。本当に溺れてしまう」痩せた鼠はそう言いました。もとから体力のない痩せた鼠は、既に藁にも縋りたい気持ちでした。今の苦境の理由を考えるよりも、彼には休息が必要でした。
3匹がそうこうしていると、なにやら黒い影が見えてきます。それはどうやらおもちゃの船でした。船といっても小さな鼠の身からすればタンカーのような大きさで、なんとか上ることさえできれば3匹は身を休めることができそうでした。
しかしあまりの大きさな上に看板へ上がる足掛かりもなく、3匹は船底へガリガリと爪を立てては水面へと引き戻されるのでした。そんな時、船の上から声がしました。
「こんな夜更けに何かと思えば遭難者かね」それは太った鼠の声でした。
助けてくれ。3匹は口々に言いました。それに対して太った鼠の答えは冷淡でした。
「まずはそのガリガリやるのをやめたまえ。船に穴が開いてしまうではないか。」
元気な鼠は言いました。「ロープか何かおろしてくれ。自力では上がれそうにないんだ」
太った鼠は答えます。「それはできんな。まずロープがない」
それは真っ赤な嘘でした。確かにロープはありませんが、縄梯子はありました。おもちゃの船は精巧な模型だったのです。太った鼠はあまりに丸々としていたので、皆が乗って転覆することを恐れたのでした。
「しかしわしも鬼ではない。こんな船があるくらいだ、周りに端材か何かはあるだろう。持ってきたならそれを手掛かりにして引き上げてやらんことはない。この部屋は猫がうろついておる。持ってくるなら急ぐがいい」太った鼠は鷹揚に言って見せると、それきり奥へ引っ込んでしまいました。
「船に乗るのはよいが、そのために端材を探し回ったのでは体力がもたない。そもそも船へ乗ったって水槽の外へはでられないじゃないか。ならばまずは猫に捕まってでも外へ出るべきではないのか」賢しらな鼠は瘦せた鼠に言いました。
「体が冷えてきて、今にも溺れてしまいそうなんだ。猫に捕まってしまったら外へ出たって逃げられない」痩せた鼠は元気な鼠に端材探しを頼みます。任された元気な鼠は必死になって泳いでゆきました。
目先の救いに囚われてばかな奴らだ。賢しらな鼠は心の中でそう思いました。
船の中へ引きこもったって猫の気まぐれの前には絶対安全なんてありえません。もちろん水面を泳ぐ鼠へ真っ先に手を伸ばす可能性が高そうですが、揺れる水の上で動く船にいったん夢中になれば、転覆するまでやめないでしょう。そうなれば一巻の終わりです。太った鼠は泳げないのです。
「取ってきたぞ!船へ揚げてくれ!」しばらくすると元気な鼠は端切れを持って帰ってきました。
息も絶え絶え、手足も震える元気な鼠にのっそりと現れた太った鼠が答えます。
「よしわかった。ただし乗せてやれるのは端切れを持ってきた1匹だけだ。急がねばいつ猫が来るとも知れないし、何よりこの船はわしが見つけたわしのものだ。わしのものをどうしようが、わしの勝手ではないか」
これも真っ赤な嘘でした。太った鼠も気がつけば水槽の中に、それも船の上で目を覚ましたのでした。
「それならこいつを乗せてやってくれ。今にも溺れてしまいそうなんだ。」元気な鼠は瘦せた鼠を庇います。
「それはダメだ。お前が努力して見つけたものだろう。わしもこの船には苦労して乗ったのだ。労せずして助かろうなどと、虫が良すぎるわい」とにかく2匹以上を乗せたくない太った鼠はでたらめを並べます。言い争ううちに、瘦せた鼠は力尽き水底へ沈もうとしていました。
他の3匹にそんな余裕はありませんでしたが、事態を眺める賢しらな鼠にはそれが見えていました。待ち望んだ猫が水槽でうごめく鼠たちに気がつき寄ってくる様子がガラス越しにうっすらと。賢しらな鼠は自分の正しさを確信しました。
痩せた鼠はもうろうとする意識の中で猫の接近に気がつきました。猫に弄ばれるならいっそ。そう思って一思いに泳ぐのをやめたまさにそのときでした。
大きな揺れが水槽を襲い、4匹の鼠は大きなうねりに投げ出されました。
痩せた鼠が気がつくとそこは床の上でした。どうやら地震で水槽が横倒しになって外へ出られたようです。その拍子に驚いて逃げだしたのか、猫の姿は見えません。見ると他の3匹も起きだすところでした。
「この部屋にまだ猫がいるはずだ。こんなところからはさっさと逃げ出そう」元気な鼠は皆を鼓舞して壁の隙間から脱出しました。しばらく進むとかすかな風が感ぜられました。がむしゃらに進んだ道でしたが、出口があったのです。この時の鼠たちの安堵と喜びきたら、それはもう言葉にならないものでした。
そこは開けた場所でした。なにやら生暖かい風が鼠たちの間を通り抜けていきます。そして潮の香と波の音が、そこが住み慣れた町でないことを告げているのでした。
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洋上を進む小船は先ほどまでの嵐を抜け、穏やかな海を航行しています。
そして、3人の遭難者を見つけるのでした。