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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

堕ちてクピド

作者: 星町憩

[起]


 あるところに悪魔の三兄弟がいて、さらに天使の三姉妹がいました。悪魔はとかく綺麗なものを蹂躙して、地獄に落とすのが趣味なのです。それで悪魔は、この美しい三姉妹を欲しがりました。そもそもなぜ出会ってしまったのかといえば、三姉妹の末っ子がちょっとした粗相をやらかし、姉もろとも地上に降りることになったせいでした。ちょうどそこで、三兄弟の末っ子が遊んでいたのです。赤いアネモネが咲いている泉のほとりでした。

 三兄弟の末っ子は、三姉妹の末っ子にどうやら一目惚れしてしまったようでした。それもそのはずと長女は鼻息荒く頷きます。だって末っ子は、天使の中でも特に美人さんなのです。美しい青の目に曇のない金のヴェールのような髪。唇も目鼻立ちも整っていて、ああ、なんて可愛らしい! 悪魔の末っ子は天使の末っ子を追いかけ回しました。まだ翼が十分に成長していない天使の末っ子はうまくかわせず、時々転んでしまいます。その赤くなった膝頭でさえ可愛いのですから、これはもう可愛いの暴力と言っても良いでしょう。事実、悪魔の末っ子は悶絶していました。天使の長女は今だけは彼の気持ちに共感しました。

 さて、この悪魔の末っ子はまだ幼いせいか、天使の末っ子を欲しい欲しいとは言ってもそれはおもちゃを欲しがるような無邪気さだったり、あるいは好きな子を苛めたいような可愛らしい程度の悪戯心でしょう。ですが、それでも悪魔。長女は彼から妹を引き離そうとしました。すると悪魔の子供はわんわん声を上げて泣くのです。全く困ったものです。いったい躾はどうなっているのでしょうか。長女の陰に隠れて、少し引っ込み思案な次女はその様子を窺っていました。悪魔の次男は、なんでもない様子を装いながら、その細めた目でしっかりと次女を値踏みして、薄ら笑いを浮かべていました。こちらは随分と成熟しつつあるようです。まだ無垢な妹が汚されては溜まったものではありません。天使には空に星屑を撒くという大事な仕事があります。無垢な天使は星屑に触れても肌が綺麗になるだけでなんともありません。ですが、少しでも穢されてしまうと星屑の熱で火傷をしてしまうのです。

 とにかく、どうにかすがりつく三男の腕を振り払い、三女と次女を抱き抱え、はあはあ、と肩で荒い息をしていた時でした。バサリと音がして、辺りに陰がさしました。ああ、しまったと思ってももう遅い。ぐずぐずしていたせいで、悪魔の長男がついに現れてしまったのです。しかし長男は随分と不思議な格好をしていました。まるで聖職者のような黒いローブに身を包み、こめかみからは鋭い角を生やし、烏のような黒い翼を大きく広げ、天使達と弟を見下ろしてにたあと笑いました。

「やあやあ、こんなところで何しているの? 珍しいね。天使様がこんなところに」

「妹たちが足を滑らせてこちらへ落ちてしまっただけです。早急に帰らせていただきます」

「ねえねえ、それはないよお。地上の掟くらい知ってんだろお? 堕ちた天使は悪魔のもの。現にほら、うちの弟もおたくの妹を気に入ってるみたいだよ?」

「堕ち……私達は堕天したわけではありません! これは不慮の事故です! それとも、大天使である私に焼き焦がされたいですか。いやな罪が増えますが、妹を守るためなら私はやりますよ」

「うーん、それは嫌だなあ」

 悪魔は顎に指を当てて、うーんと考え込みました。

「ああ、でも天使さん。もうすぐ夜だ。魑魅魍魎の時間だよ。それなら僕らの方に分がある。君たちこそ、今自分が狼の群れに囲まれた兎であることを自覚した方がいい」

 天使の長女は、悪魔の次男の方をキッとにらみつけました。先刻からこの子は、直接的に手は出さないものの、三姉妹が飛んで帰ろうとすると面白そうに邪魔ばかりをしていたのです。これが魂胆かと、それを見抜けなかった自分を長女は恥じました。

「……わかりました。わかりました。ではこうしましょう」

 天使の長女は、翼から純白の羽根を三枚抜きました。それにふうと息をかけると、それらは三姉妹にそっくりな、もっと幼い天使の姿になりました。

「私の眷属のようなものですから、天使としての力はさほどありませんが、これで我慢してくださいませ。大天使の羽根を賜るなんて、感謝することね」

「かわいい」

 悪魔の末っ子は、嬉しそうにそう言うと、幼い天使のひとりをきゅうと抱きしめました。三姉妹はその隙に、慌てて天空に飛び帰りました。悪魔の次男も、それなりに気に入ったようでしたが、悪魔の長男だけが、面白くなさそうに出来上がった小さい天使を見つめていました。

 天使の羽根からできたレプリカの命は短くて、それが土に眠った時、悪魔の弟達はめいめいに悲しみました。末っ子はわんわんと泣いて、レプリカのお墓を作りました。次男は花を摘んで、風に飛ばしました。

 長男は、ステンドグラスが七色の光を透かす教会の中、イエス様の像の前で、お祈りをしていました。そして天使を呼びました。悪魔が懺悔をするだなんてなんと滑稽なことでしょう? ですが生きとし生けるものの懺悔を聞くという使命が、大天使にはあるのでした。そういうわけで、天使三姉妹の長女は再び悪魔に出会わなければなりませんでした。開口一番、「悪魔が聖職者の振りをして教会に紛れ込むだなんて、世も末だわ」と嫌味を言わずにはいられませんでした。悪魔の長男は、まるで牧師のように――いえ、格好こそたしかに牧師そのものですが――柔和な笑みを浮かべて、天使に手を差し出しました。「会いたかった」と言って。

 けれど天使は、その手から慌てて逃げて、悪魔から距離を取りました。

「触らないで」

「どうして?」

「悪魔に触ると穢れが移るわ」

「へえ。でも君は僕の弟に触れた」

 天使は苦々しく顔を歪めました。

「穢れは少しずつ君を蝕んでいるの? 羽の艶が少しなくなったようだね。レプリカが死んで、うちの末っ子と下の弟が悲しんでいるんだよ。だからもう一体ずつ貰いたかったんだが」

「悪魔に施すものなどないわ」

「でも僕は先ほどちゃあんと懺悔をしましたよね? ならば天使様は僕に救いをくださるのではないの」

 僕だって生き物ですよぉ、と悪魔はのんびり言います。

 天使は顔を歪めた後、目を閉じて何度か深呼吸をし、息を整えました。そのまま可憐な仕草で、白い羽根を三本抜き取り、息を吹きかけます。するとやはりあの時と同じ、幼い三姉妹のレプリカが現れました。

「寿命が短いのは、悪魔が触れているからなのよ」

 不機嫌そうに天使はそう言って、大きな翼を一度羽ばたかせ、ぐんと高く浮上し、教会の天井からも見えなくなってしまいました。

 悪魔は三人の小さくて愛らしいレプリカ達を抱き上げて、にこりと笑ったまま呟きました。

「だからこそでしょうに」


[転]


 大天使が羽根を犠牲に残したレプリカは、鈴の鳴るような声で悪魔の兄弟の名前を呼び、慕い、後を鳥の雛のようについてきます。悪魔の末っ子は、このレプリカをまるで本当のガールフレンドのように可愛がりました。ただそのやり方は、トカゲを見せたり、頬をつねったりと、苛めている様な行動でもありました。悪魔の求愛行動というのは、そんなものなのです。けれどレプリカの天使は、それを怖がりながらも一生懸命悪魔の末っ子の後をおいかけ、笑顔を向けるのでした。

 そのうち、末っ子は少しずつレプリカを大事にすることを覚えました。大事にするというのは、【悪魔のやり方】ではありません。そうではなくて、人と人として、大切にするやり方を覚えたのです。たとえば、悪魔が触れてしまえばたちまち枯れてしまうような花をどうにかしてレプリカに渡そうとしてみたり、頬をつねるのもじゃれ合うように優しい手つきだったり、トカゲとの遊び方を教えたり、抱っこして地獄なりに景色のいい場所に連れて行ったり。

 それは、悪魔らしくない行為でした。だから悪魔の末っ子は、次第に力が弱まっていきました。その異変に最初に気付いたのはおそらく長男だったのですが、先に口にしたのは次男でした。悪魔の末っ子の黒い翼が、どんどん小さくなって、穴ほげになっていたのです。

「悪魔らしくないことをするからだよ」

 次男は冷たくそう言って、末っ子を軽く蹴飛ばしました。その言葉に傷ついたように末っ子は目をきゅうと瞑り、もう少しで息絶えそうなレプリカを抱き寄せるのでした。

「レプリカが死ぬ頃、あいつも死ぬかもね」

 長男は笑いました。そう言って長男が笑うのを、次男は怪訝な顔で見つめるのでした。

「弟なのに、兄さんは冷たいね」

「悪魔だからね、そういうもんだろ?」

「そうだけど……」

 長男は、本当はこうなることを予測していました。最初から。末っ子が天使に興味を持ったその時から。

 だって末っ子は、まだ悪魔としては未熟で、生まれたての赤ん坊のようなものだったのです。無邪気で残酷で、良識を覚える前の人の幼子と何ら変わりはありませんでした。なのに末っ子は、たまたま地上に落ちてきた綺麗な純白を持つ天使の幼子に惹かれました。そんなの、生を否定するようなものです。

「あいつが死ぬのが先か、俺がもう一組レプリカ天使をもらってくるのが先か、どっちかなあ」

 そう呟きながら、長男は麻薬の葉巻に火を点け、煙をくゆらせます。その横顔を静かに見つめながら、次男は言いました。

「またもらってくるの」

「当然。だって、お前ら欲しがってるだろ?」

 欲しがることは悪いことじゃないよぉ、と長男は笑います。欲深いことは悪魔の大事な性質です。そうやってケラケラと笑いながら、長男は次男の目の色が不安と困惑で揺れたことを見逃しませんでした。

「……そう。まあ、好きにすれば」

 次男はそう言って、尻尾を優雅に一振りし、崖の上で転び落ちそうになっている自分のレプリカを摘みに行きました。

 悪魔の次男は、もう悪魔としては立派な強欲と狡猾さと薄情さを兼ね備えていたはずでした。ですから体は、人間の青年と変わらないなりをしていました。次男がレプリカのことを可愛がったことは一度もありませんでした。次男のやりかたはこうです。危ない場所に連れて行って、一人きりにして、レプリカの天使が心細さに泣いたり、怪我をしたりするのを林檎の木の枝に座って高みの見物。何をされても、放っておかれてもめげない、後を必死でついてくる小さな天使は、次男にとって面白いおもちゃでしかありませんでした。

 けれど次男は、弱っていく弟を見て、恐怖を覚えてしまったのでした。それは、自分が消えたくないという恐怖でした。次男は、今までわざとほったらかしにしていたレプリカの天使を、手放すことにしました。殺してやろうと思って、川に流しました。けれど天使は、溺れかけても必死で泣きながら陸に上がり、よたよたと走って追いかけてくるのです。次男の体に縋りつくのです。やめてほしいと次男は思いました。消えたくない。怖い。こいつがいなかったらいいのに。なんでこんなに冷たくしているのに、こんなに近づいてくるの。わからない。こいつのことがわからない。わからないことが怖い。

 なんで僕に追いすがるのと尋ねれば、レプリカは天使のお決まりの文句を言うのでした。それは、「だってあなたは私の救うべき存在だから」と、こうです。それを言われる度、次男は心に銀のナイフが刺さって、心の臓が肉のようにさくりさくりと切り分けられていくような、鮮烈な痛みを覚えるのでした。次男は泣きました。末っ子ですら流さなかった涙を流しました。二番目のレプリカが死んだとき、次男は長男がまた祈りに行くのを止められませんでした。また会いたいと思ってしまっている自分に気がつきました。三番目のレプリカが来たとき、次男は顔をくしゃりとこれ以上ないくらいにゆがめて涙をこらえ、自分にあてがわれた小さな天使の小さな躰を、その骨が折れそうなほどに強く抱きしめました。そうして、そのまま地獄の業火に落として、殺しました。次男はそれから三日三晩泣き続けました。赤々と燃えたぎる、火山の火口の傍で。

 三番目の天使に看取られて、末っ子は死に、炭の塊になりました。それを長男は笑いながら蹴り飛ばしました。すると塊はぼろぼろと崩れながら、地底のマグマの中に落ちて、跡形もなくなってしまいました。これが悪魔の葬送でしたが、レプリカの天使はそれにひどく青ざめ、泣きはらしました。そうして、まだ生まれて間もなく、末っ子に出会って間もない小さな天使は、末っ子だったものの落ちたマグマの中に飛び込みました。当然、レプリカは一瞬で消えてなくなりました。燃えるのが先だったのか、蒸発するのが先だったのか、もうわかりません。それは、池に落ちる雨粒のように、あいまいで不確かなものでした。

 ふと、長男は天使の三姉妹の末っ子は、どうしているのだろうと思いました。悪魔の末っ子が一目ぼれしたのはあの末の娘でしたが、あてがわれたのは長女の羽根にすぎません。そんなまがい物で、悪魔の末っ子は悪魔らしくもなく、幸せに逝けたのでした。

 そうして七日目、悪魔の長男は、次男の姿が地下にも地上にも見えないことに気が付きました。けれど気にもしませんでした。だって長男は悪魔だからです。レプリカごときに心を乱されて、何かをするため空へ向かった次男を、気にしてやる必要なんてありません。

 長男は、三番目の小さな天使の頭を時々撫でて、好きに後ろを歩かせ、食事は一緒にとり、隣で眠らせました。悪魔の長男は、最初のレプリカを手に入れた時から、ずっとそうしてきました。それは一見、優しさにも見える行為でした。末っ子も次男も、そんな体でいる長男を――そしてレプリカが死ねば教会に赴き大天使におねだりをする長男を、奇人だと思っていました。

 けれど悪魔の次男も末っ子も、最後まで知ることはありませんでした。それは優しさではないのです。長男は兄弟のうちで誰よりも悪魔らしい悪魔でした。悪魔らしいことを、悪魔らしくやっていただけのことでした。とうとう悪魔の次男は、八日目の日も、それからも帰っては来ませんでした。生き残った悪魔の長男は、三番目のレプリカが死んだあと、末っ子にそうしたようにその亡骸をマグマの中へ蹴り入れました。

 そうして、口を歪め、楽しそうな笑みを浮かべて、教会へと足を向けたのです。


[結]


「天使様、大天使様。いないのぉ?」

 祭壇の前で指を組み祈りを捧げた後、悪魔は歌うようにそう言いました。

「僕、ちゃあんと懺悔しましたよ? 小さな命を殺したこと、弟たちを見殺しにしたこと、それからこの間人間たちを唆して殺し合いをさせたこと。それからそれから――」

 反省の色など一つも見えない笑顔を浮かべながら、悪魔は指折り数えます。やがてステンドグラスから差し込む日の光が膨れ上がり、明るく鮮烈に輝いて、人の形を成しました。それは四つの大きな翼を広げ、祭壇の上に降り立ちました。その神々しい姿を見て、悪魔は優雅に口の端を釣り上げ、それはそれは優しい声音で続けます。

「――大天使様を穢していること、とかね?」

 大天使は、にやにやと笑い続ける悪魔を睨んで、心底忌々しいといった様子で顔を歪めました。

 大天使の翼は、見るも無残。白い骨だけが残り、羽根はほとんど残っていません。まるで落葉樹の様でした。そして彼女の肌は、火傷の痕でいっぱいでした。まるで色の違う布を継ぎ合わせた、みすぼらしい布人形の様でした。

 大天使は、その形のいい唇を開きます。

「懺悔は悔い改める者たちがする行い。あなたには改める気も、悔やむ気もないというのに、どうして私を呼ぶの。ええ、その通り。あなたにまんまとはめられ、私の翼はぼろぼろ。あなたとこうして話すことで、私はこの身にますます穢れを蓄積している。この悪魔。何が目的?」

「そりゃあ、天使を落とすことに決まっているじゃないか」

 何を今さら、と悪魔は笑いました。

「でも僕は、あなたに一言も『羽根を下さい』なんて言いませんでしたよ? 勝手に僕たちに羽を施したのはあなた自身でしょう。その羽根があなたの無垢の象徴なのに、どんどん引っこ抜いて、僕の言うままに施し続けたのはあなた自身だ。僕はなあんにも強いていない。僕は嘘をついていますか?」

「いいえ」

 大天使は、苦々しげに言いました。

「いいえ。けれどあなたのせいで、私はますます穢れを負ったわ。あなたの弟が、天界までやってきたの」

「あれまあ」

 悪魔は目を丸くしました。それがわざとらしく見えて、大天使は更に顔を歪めます。

「よくもそんな風に、知らないふりをできる。全部あなたの差し金でしょう!」

「大天使様ともあろう方が、疑うなんてよくないんじゃあないですか? 僕は本当に知りませんよ。なんなら地獄の冥王にも、あなたの信じる神とやらにだって誓ってもいいね。あいつは、悪魔として未熟だったというだけだし、僕は悪魔なのであいつを救ってやる必要なんてなかった。ただそれだけですよ」

 悪魔は肩をすくめます。

「いやあ、それにしてもあいつ、骨があるなあ。天界まで行くなんて。体がボロボロになっただろうに」

「ええ。ボロボロだったわ。けれど私の妹を探して半狂乱でした。何度も何度も会わせろと懇願してくる。妹は怯えていました。私は彼を処分しなければならなかったのに」

「ならなかったのに、なんです?」

 大天使は、俯き、目を閉じ、その双眸からぽたぽたと涙を零しました。

「……あなたの願いをいつも叶えているのに、あなたの弟の願いは叶えないだなんて、そんなの不公平。あり得ない。彼が会いたいと言うのだから、会わせてあげようと思いました。手を引いて、加護を与え、天界の門を潜り抜けさせてあげようと。けれど彼は光の強さに耐えきれず死んでしまった。妹に会えないまま」

「そうかあ。また悪魔なんかに触れてしまったんですね、大天使様。だからあなたの翼がみすぼらしく、そんなにも薄汚れてしまったんだ。ねえ大天使様。気づきませんでした? 悪の願いを叶えることは正義ではないんですよ。それはね、ただの同情で、いわゆるエゴってやつです」

 悪魔はくつくつと喉を鳴らして笑います。

「僕の弟が望んだそれは、悪魔らしい【欲望】に基づく願い。それを叶えるなら、それは【悪に加担したこと】になりますよねえ? あなたはとっくに、天使の資格を失っている。ああ、かわいそうに。あんなに綺麗だった翼も折れちゃって。もう飛べそうにないのに、どうしてここに降りてきたんです? もう一度地上に降りたら、二度と飛び上がれないって、あなたわかってたでしょうに」

「………それは、それが、私の正義だから」

「正義ねえ。詭弁はもういいですよ、堕ちた天使様。あなたはもはや大天使でも天使ですらなく、ただあなたの欲望《願い》のために、僕に誘われただけの人でしょう? だって、気づいてないの? 俺、今日はちゃんとした祈りの手順なんて踏んでないし、悪魔の角も翼も隠してすらいないのに」

 ね、堕天使様、と悪魔は楽しそうに言います。

 堕ちた天使は、しばらく悪魔を見つめていました。その美しい瞳に悪魔を映していました。やがてその眼は涙の膜で覆われます。天使は、まるで泣き方を知らない幼子のように、顔をぐしゃぐしゃにしました。

「……助けて」

「承りました、俺の堕天使」

 悪魔は艶美に微笑むと、天使を腕に抱きかかえ、そのまま地中に引きずり込みます。日の光が作る祭壇の影からずぶずぶと沈んで。天使はさめざめと泣いたまま、なされるがままでした。やがて天使は、その体が光から消える間際、悪魔の首に白くて華奢な両腕を回しました。悪魔はその一瞬だけ、幸せそうに柔らかく微笑みました。

「守ってあげるよ。俺はあなたに惚れてるからね」

 低く優しいそんな声が、誰もいない静かな教会に残されたのでした。





(了)

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