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遠藤翔太 念願の鋸岳山頂に立つ

 静まり返った深い森の中。

 聞こえるのは、私の荒い息ずかい。

 口笛を真似たような、ウソの鳴き声も聞こえる。

 そして、時折、谷から風が群をなしてやってきて、あおられた老木が堪らず、カナキリ声を上げている。


 私は、広大な南アルプスの北端で、ポツンと一人歩いていた。

 テープが道を示してくれていたが、心細さは変わりなかった。

 いよいよ登山道は、傾斜を増した。


「どこまで坂は続くのか」 

 そう思うと、急に登るのが嫌になり、自然に脚は止まった。

 当分呼吸を整えていたが、吐く息は、ため息も混ざっていた。


 ストックにもたれながら、坂を見上げる。

 すると、すぐ先で景色が変化していた。

 薄暗い樹林帯はここまで。

 樹々は背丈を低くし、道の先に、初夏の青い空がのん気そうに現れたのだ。


 その景色を見て、鋸岳の前衛である三角点峰まで、間もないことを確信した。

 人とは、げんきんなものだ。

 きつい登りはいったん終わると思うと、足取りが軽くなった。

 先を目指す。

 辺りは、ハイマツが現れ、岩領帯になった。

 そして一気に、視界が開けた。


 

 岩ばかりの、クールな山肌。

 尖った山頂から、鋭角に裾を落とす山容。

 滑稽なほど頭一つ突き出した頂。

 俊英で勇壮で……。

 

 目前に鋸岳が、初めて顔を表した。



 凄まじく尖った岩の集積は、幼い頃夢で見た恐ろしい怪獣を思わせた。

 今から私は、正義のヒーローになり、その妖怪に立ち向かう。

 退治する赤外線ビームやスペシャル光線は無いけれど、代わりにザックのベルトを締め付けた。


 しかし、ここまでは、ほんのプロローグ。

 ここまで来るのに、ずいぶん苦労をした。


 苦労といっても、釜無川沿いの長い林道歩きや、さっきまでの、急で長い登り坂だけではない。

 ちょっとした、ハプニングもあった。

 



 閉店のBGMが流れ始めた、都心にある有名百貨店の店内……。

「いらっしゃいませ」

 1年後輩の、山内君の声が、4階フロアに響いた。

「い、いらっしゃいませ」

 私は、つい、普段言い慣れた挨拶が、どもってしまった。


 予定では、この後すぐにレジ締めをしてから終礼をし、急いで帰宅。

 そして、シャワーを浴びて、長野県富士見町にある登山口まで車を飛ばし、途中どこかのファストフードで食事をすませ、それから、適当な駐車場を見つけて車中泊。

そうしてようやく、鋸岳登山が始まる。

 その予定が、これで大きく変わってしまう。


「ロレックス、どんなのあるかしら」

 見るからに、高級時計がお似合いになりそうなご婦人。

「ごめんなさい、こんな時間に」

「いえいえ、どうぞこちらにございます」

 私はそうは言ったものの、笑顔を作るため、無理やり上げた口角は、引きつり震えているのが自分で分かる。


 それを見ていた、山内君が、私にこっそりと近づき耳元で、

「遠藤先輩、いいですよ、明日、登山に行きますよね。だから、早く帰らなくちゃなりませんよね。私が接客します」

「そんな、仕事優先。大丈夫」

「いいですよ、無理しないでください。あの、お客様にお買いいただければ、私の個人予算も達成しますし……」

「そう、それじゃ、言葉に甘えようかな」

「そうしてください。だけど、その代わり……」

 山内は、突然少し神妙になって、頭をかきながら、顔を真っ赤にさせて、

「遠藤先輩の同期で総務部の金沢さんと、何とか会えるように、セッティングお願いできませんか。一生のお願いです」

 頭を、下げた。

「それは……同期だけれど、ほとんど話したことはないし、それに彼女は……」

 

 その後の言葉は、誰でもだいたいわかる。

 職場にキレイな女性は、たくさんいるけど、男性陣からすると、彼女だけは別格。

 

 あの優しい笑顔は、天使のほほえみ。

 あの後ろで髪を束ねた清々しい姿は、まるで妖精。

 あの制服ごしに見る、健康的な彼女のシルエットは、ビーナスそのもの。

 平たく言えば、男性なら誰でも、彼女と、今すぐにでも、結婚したい。

 

 山内君は、私の返事を聞く前に、お客様に呼ばれ接客が始まった。

 その山内君に後ろ姿に、小さく、

「それじゃお願いします。頑張ってね」

 と、言い、私は職場を後にした。




 三角点峰から、悪名高

 小さなコルに着くと、僅かに登りまたき角兵衛沢のコルまで大きく下げる。

 急な斜面を、ハイマツと岩と潅木を頼りに下りていく。

 

 いつの間に強くなった風は、稜線ではいっそう勢いを増していた。

 か細い岩だらけ尾根は、腰をかがめ両手を広げ、バランスを取りながら歩いた。

 大きく下る。

 これを、幾度も繰り返す。

 その名の如く、鋸の歯のような小さなピークが、幾つもあるのだ。

 

 ピークに立つたび鋸岳を眺めた。

 山体は近づくにつれ、グロテスクなまでに鋭角さを増していった。

 あの切り立った岩領帯の、何処を登るのだろうかと目を凝らす。

 すると岩と、まばらな樹木の狭間に、四色のカラフルな点が揺らめいていた。

 先行する四名の、ヘルメットの色だった。

 

 それは鋸岳の山体に比べ、あまりにチッポケ。

 まるで大樹に停まるテントウムシのようだ。

 かすかな踏み後がついた、角兵衛沢のコルにたどり着いた。

 これから私も、テントウムシになる。

 

 核心部の切り立った岩領帯は、手足の置き場が豊富にあった。

 時たま右手に切れ落ちた崖を見て、ゾッとするものの、案外容易に登っていた。

 程よい緊張感が、むしろ楽しい。

 

 山頂直下、滑稽に見えていた頭一つ突き出した岩場を一登りして、「さて頂上かな」と、ヒョイと岩から顔を出した。

 鋸岳第一高点の標柱と、六名の意外にも多くの登山者の姿。

 

 頂上!

 登頂した。


 皆は岩から顔を出した私に気づくと、手を叩いて祝福してくれた。

 そんなことは、今まで経験した事がない。

 皆、同様に苦労してここまでやってきた仲間。

 共感しあえるのだ。

 そして、やっぱり鋸岳は特別。

 登頂もさることながら、そんな出来事がうれしくて、身震いがでた。

 

 遮るものが何も無い頂上では、一段と風が勢いを増していた。

 けれどそれも、肌を撫ぜるそよ風にしか、感じていなかった。

 感じるもの全てが、心地よかった。

 

 かわるがわる、写真を撮り合う。

 その間も皆、良い笑顔。

 誰にとっても鋸岳は、特別な存在であることが感じられる。

 

 壁に張り付いていた、テントウムシは、四名はガイドツアーだった。

 皆私よりも一回り、歳を重ねている。

 聞くと、三時前から登り始めていたという。

 

 若い男性の二人は角兵衛沢から、日帰りする健脚。

 それとなく聞こえてくる会話は、角兵衛沢を安全に下りる為の、打ち合わせのようだ。

 

 皆およそ登頂したばかりで、昼食が一斉に始まった。

 私はいつものジャムパン。

 けれど食欲がなく、半分残した。

 若い二人は湯を沸かし、インスタント麺に生卵を落とした豪勢な昼食。

 しかも食欲旺盛。

 若さが羨ましくもある。

 四人パーティーは私と同様、あまり食欲が沸かないようで、高カロリーのゼリーで済ませていた。

 

 食欲が無いなど、初めてのことだった。

 自分ではあまり感じていない、疲労の蓄積が心配になる。

 少しばかり第二高点まで見に行くつもりだったが、早々に下山することにした。

 標柱を最後に抱きしめてから、下り始めた。


 山頂直下の岩領帯は下りでも案外高度感を覚えずにいたが、緊張感の持続を意識し丁寧に下りていく。

 

 角兵衛沢のコルまで戻ると、当然ながら登りに転じる。

 ここから三角点峰までの登り返しが、脚にこたえた。

 

 この日のために、毎週地元の里山に登って脚を鍛えていた。

 けれど脚がつり始めた。

 これは、まずい。

 ふくらはぎなら、たまにある。

 けれど、今回は太もも。

 初めてのことだった。

 まして、一番大切な筋肉が吊ったのだから、不安にもなる。

 何にしても、無事に山から下りなくてはならない。

 脚の様子をみながら、騙し騙し登っていく。

 

 それでも、ようやく三角点峰にたどり着いた。

 ここからは、ほとんど下りしかない。

 太ももの痙攣は、大事に至らなそうだ。


 眼下にはハイマツと、白い肌を晒した立ち枯れの木。

 その先には、針葉樹の豊かな森が広がっている。

 振り返れば、尖った頂を鈍く光らせる鋸岳。

 その横に南アルプスの女王、仙丈ケ岳が裾を広げている。

 ここでこの壮大な眺望とも、お別れである。

 目に焼き付けようと、もう一度目眺めてから歩き出す。

 徐々に木々は背丈を増していき、いつの間に鬱蒼とした樹林帯を歩いていた。


 ここからは、長い林道歩き。

 山のリスクは、ほとんどなくなり一安心。

 ホッとしたついでに、富士見川源流で汲んできた水を飲み一休み。

 歩いた時間を指で数えてみると、十時間経っていた。

 ずいぶん歩いたものだ。

 

 水をもう一飲みして、この重い腰を上げ歩き出そうか。

 そうすれば、ああと僅かでこの山行も終わりを告げる。

 

 けれど、鋸岳の刺激は強すぎて、次々と鮮明に蘇る記憶達が、立たせまいと邪魔をする。

 



 あさぼらけの、張り詰めた空気。

 いさぎよい、急登。

 薙から間近に見る、峻険たるその頂。

 山頂で溢れた、皆の笑顔。

 抱いた標柱の、ぬくもり。

 

 鋸岳は焦がれるに、ふさわしい山だった。





「そう言えば、山内君に、お土産買わなくちゃ。信玄餅で、いいかなぁ。それから、時計お買い上げ頂いただろうか?」

 そう、考えていると、ふと、同期の金沢さんのやさしい笑顔が、頭に浮かんだ。



第2話書いてみました。

今回は、南アの鋸岳を目指すことに。

鋸岳といえば、長い林道歩き、長い急登、そして、岩の壁。

なので、難易度が高いとされていいる。

けれども、無事登頂を果たす。


登る前日、急いで退勤しようとしていると、ちょっとしたハプニング。

後輩から、無理なお願いをされる。


さて、金沢さんとはどんな関りが、これから待っているのか。


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