第81話 豚人王
グランドアース大陸南西海岸、平原人国家、候担国沼南県
月の出ない新月の闇夜。
黒い影が音も立てずに海からやって来る。
その陰、異形の軍船は、静かに闇の海を滑るように航行し、やがて砂浜へ乗り上げた。
軍船の扉がゆっくりと開き、その中から毛むくじゃらの腕が覗く。
次いで太く短い足、分厚い胸と腹、更には牙をむき出しにした醜悪な顔が現れる。
軍船から下りてきたのは、分厚い鉄や青銅で出来たこれまた異形の鎧兜に身を固め、戦槌や戦斧、棍棒を手にした、豚人の兵士達。
猪に似た肉厚な顔を早くも喜悦に歪め、そして周囲の臭いを嗅ぐようにして探る。
巨大な身体を揺らし、人には聞き取れない言語で合図や号令を交わし合い、整列を始める豚人兵士達。
そして整列が終わると、豚人兵士達は異形の軍船から一緒に下ろした薪へ火を掛ける。
砂浜にみるみるうちに巨大な火が焚かれ、豚人兵士達は周囲の警戒を行いつつも次々に薪を投げ入れていく。
しばらくして、火が大きく燃えさかり始めた頃、沖合に異形の軍船が海面を埋め尽くさんばかりにして集結している光景があった。
そして豚人兵士達が焚き上げた巨大な焚火を目印として、異形の軍船は次々に砂浜へと押し寄せる。
その船から下りてくるのは、もちろん豚人兵士達。
一部の者達は周囲に壕を掘り、柵を組み立てて簡易の陣地を構築し始める。
またある者達は、食料を得るべく少数で闇夜の中へと消えていく。
夜が白々と明ける頃、すっかり揚陸の終わった豚人兵士達が軍団を組み上げる。
陣地は船舶の停泊と守備に十分な物へと変貌し、そこには周辺の村から食料と慰みものを兼ねて掠われてきた平原人の女達が鎖に繋がれ、檻の中に入れられていた。
男や子供はとうに彼らの胃袋の中にあり、彼女達は目の前で家族や知り合いが殺され、食われ、そして自分は犯された上での連行。
全てに絶望し、されるがままとなっている。
少数の人族の兵士など、豚人兵士にはものの数ではなく、既に村人と一緒に食い物となって彼らの腹を満たし終えていた。
この地にやって来た豚人兵士達は、その数実に2万。
あまりにも巨大な、そして邪悪な兵団がグランドアース大陸の一端に橋頭堡を築き上げてしまったのだった。
そして、昼になるといよいよ大船団が沖合に姿を現す。
乗っているのは豚人兵に緑小鬼兵の大兵団。
人族においては重装歩兵に相当する豚人兵と、軽装歩兵に相当する緑小鬼兵。
その兵団には投石機や機械弓も積み込まれており、この兵団の目的が単なる劫掠や盗賊めいた焼働きの類いではない事がそれだけで分かる。
彼らはこの地に住まう者達を攻め滅ぼし、そして自分達の根拠を造り上げる事こそが目的なのだ。
それを指揮するのは、豚人王バルバローセン。
人族は家畜に過ぎず、その勢力を認める必要すら無いと考えている彼の目に、平原人国家などは映っていない。
新たな大船団に満載された、邪悪な兵団の兵数は8万余。
橋頭堡を作った連中と合わせれば、実に10万もの大軍が集結した。
西方の大島に住まう、かつてグランドアース大陸から駆逐された勢力。
その一端が大陸に闇の世をもたらすべく、舞い戻ってきたのだった。
その頃、カレントゥ城の望楼にサラリエル族の族長であるトリフィリシンを迎え、昌長はフィリーシアやレアンティア、獣人族のユエンとキミン、大河水族のヘンリッカにユハニ、更には参謀役の義昌、坑道人のリンデンとバイデン、青竜王アスライルスと共に会合を持っていた。
トリフィリシンは豪奢な白色の絹服に銀の冠を付け、サラリエル族の特徴でもある水色の肩布を着用している。
一方の昌長はこの地で仕立てた、青色の直垂姿である。
「助かるわ族王殿、感謝の言葉もない」
「いや、こちらこそ助かっているのだ。礼を言わなければならないのは私の方だマサナガ殿」
昌長の台詞にトリフィリシンは上機嫌で答える。
今日は月霜銃士爵とサラリエル族の間における軍事協力と交易、商業協定の締結が成されたのである。
サラリエル族の地から良質の木炭や木材、樹木作物が輸入され、月霜銃士爵領からは刀剣や武具防具、穀物が輸出される事になった。
その少し前にハーオンシア地方を傘下に収め、リンヴェティを降した昌長は、これでしばらくは領内の整備と名も無き平原の開拓に専念する事が出来る。
マーラバントは岡吉次の攻勢を受け止めきれずに滅亡した。
その北にあるコーランドとシンランドのリザードマン国家は、姉弟国家とも言ってよいマーラバントが滅びたにも関わらず動きはない。
一応、マーラバントと山脈と大河を通じて隣接していたコーランドは、新たに月霜銃士爵領となった旧マーラバント領との国境付近に警備の兵を集めているが、積極的な行動は見受けられていないと、中央湖畔に根を張り始めた湊高秀から報告が来ていた。
一方の平原人国家では、豪藩国と候担国が不穏な動きを見せており、周辺国家への圧力や小勢力に対する威圧を盛んに行い、あからさまに隙あらば攻め込もうという意思を見せ、今までにない程緊張が高まっている。
また大陸の中央南部では、坑道人王国ゴルデリアが、今まで各鉱山ごとにバラバラだった坑道人の鉱山都市を攻め落として回っており、ついにその手が南岸の交易都市にまで及んでいるのは、シントニアの例に漏れていない。
それまで独立割拠が信条であったドワーフたちが纏まり始めたのである。
独立派の7都市が攻め落とされ、その内の1つシントニアは都市ごと北の月霜銃士爵領へと逃れる事態となり、ゴルデリアは念願の海港を手に入れている。
タゥエンドリン王とその取り巻き貴族達の昌長に対する態度は今までどおりよそよそしいものだが、南の森林人国家、カランドリン=エルフィンク王国の使者が先頃カレントゥ城を訪れている。
主目的は中央湖を介した交易の申し入れだが、その実はおそらくタゥエンドリンを牽制しうる勢力となるか否かの見極めであろうと昌長は考えていた。
また、その他の平原人国家の動きも活発で、昌長の下へは宗真国や候担国、弘昌国の使者が訪れては交易協定や通信条約を結ぶべく交渉を開始していたが、互いに牽制し合ってしまって捗っていないのが現状である。
「……聖教の連中が言う事聞いてへんで、どないすんのよ」
トリフィリシンが去った後、義昌が昌長に話しかける。
聖教のエウセヴィウスは昌長との交渉で布教の道を閉ざされたものの、実際はサリカの町の外れに構えた居館において堂々と布教活動を行っていた。
ただあからさまに人を集めたり辻説法をしているわけではなく、交易の為に道中手形を申請に行った商人達や、周辺の住人に施しを行っては聖教の教義を説く形で布教を行っているらしい。
「うむ、我が領の坊主共も出て行く気配は無いな」
義昌に次いでアスライルスが口を開く。
実際青竜王領に入り込んだ聖教の神官達も立ち去る気配がない。
昌長達があからさまな排除や弾圧に乗り出せば宗教の排撃と訴えて、未だ影響力の残る大陸中部から南西部の平原人国家を煽動する恐れもある。
聖教の女神官は、それが意図してのものかどうか分からないが非常に美形揃いであり、男共の中にはそれを目当てに聖教に近付いている馬鹿者もいる。
流石に教義を理解している森林人や坑道人で近付く者はいないが、教義を知らない獣人や教義の中で最高位に位置づけられている平原人は聖教に対して忌避感が無いことから、彼らの中に水が布へ浸透するように聖教は広まり始めていた。
しかしながら、聖教も自分達に都合の悪い内容は特に獣人達には伝えていないようで、それも含めて義昌は元より昌長も快く思っていない。
「主要な者で靡いてるもんはおるんかえ?」
「いっこもいてへん」
昌長の問いに即答する義昌。
雑賀武者達は宗教からは少し距離を置いている者達しかいないので、女神官に鼻の下を伸ばしている鈴木重之以外に聖教へ近付いている者はいない。
それにそもそも重之は宗教に関しては非常に冷淡である。
「まあ心配ないやろ」
「……おう」
思い切り苦い顔で事情を知る昌長に対して、言葉少なく応じる義昌。
2人とも然程心配していないのが表情から読み取れる。
「鉄砲はどうや?」
「ああ、鉄砲も大分揃うたで。ようよう2000丁ちゅう所かえ」
「焔硝も順調です。木炭と硫黄も滞りないですんで、2000丁の鉄砲でも数回は大戦が出来るくらいは玉薬もありますわ」
昌長の問いに今度は宗右衛門が答えた。
坑道人の職人達は腕を上げ、現在は相当数の鉄砲の製造と修理、調整が出来るようになった。
加えてかつてアスライルスに向けられた威力、貫通力共に高い円錐形のオリハルコン製の弾や通常の鉛弾、それに貫通力の高い鋼弾が製造されている。
防具も昌長達の持ち込んだ日の本は紀伊国雑賀製の武者鎧や当世具足、更には雑賀鉢と呼ばれる、防弾製の高い兜が作られ、月霜銃士爵の兵士達に支給されていた。
緑色と黒色を主体とする小札を重ね合わせた鎧はグランドアースにおいてはあまり見られない形態である事から、それだけで月霜銃士爵の兵である事を示す物となっている。
加えて軍の規模が大きくなった事から、旗印や紋章が定められた。
紋章は雑賀衆の象徴たる三本足の烏、八咫烏を基調にしたものが用いられ、旗印は三日月の円の切れ目に霜の結晶をあしらった物が使われている。
「……兵の調練も……順調、や」
ぶっきらぼうに答えたのは、津田照算だ。
昌長が整備した兵は津田照算らの元で順調に育っている。
後は実戦をどうやって経験させるかということだけであろう。
「ほな、そろそろ始めよか」
昌長が不敵な笑みと共に発した言葉で、その場にいる全員が顔を引き締める。
その言葉の意味する所は、的場昌長の国獲り。
いよいよ火縄銃を主要兵装とした、雑賀武者の率いる軍がタゥエンドリンを切り取りに掛かるのだ。
まずは王都北のウェンデルア地方を制圧、次いで王都進駐を果たし、フィリーシアを女王に立ててタゥエンドリンを昌長が支配するのだ。
「マサナガ殿、失礼する」
昌長が正に号令を掛けようとしたその時、先程出て行ったはずのトリフィリシンが別の森林人の男を従えて戻ってきた。
その男はサラリエルの族王であるトリフィリシンと同程度の身なりをしており、一目見て貴族である事が知れる。
その場にいた全員が怪訝な表情をする中、トリフィリシンの顔色は先程交渉時に見せていた物とは正反対。
文字通りの真っ青であった。
「マサナガ殿、緊急事態だっ」
緊急事態を告げ、傍らの森林人の男に道を譲るトリフィリシン。
その姿を見て訝る昌長らを余所に、トリフィリシンと同じように青い顔をしたその男は頭を下げ、徐に切り出す。
「……お目にかかれまして光栄でございます、月霜銃士爵様。私はタゥエンドリン王の側に仕えます、シーリーンと申します」
タゥエンドリン王の側近、シーリーンはまずそう昌長に挨拶すると、すぐに言葉を継いだ。
「王命でございます。直ちに軍を率いて王都へ参集して下さい」
「軍やて?一体何があったんや?」
いきなりの王命に、さすがの昌長も驚いて問い返す。
その質問にシーリーンは顔を歪める。
彼、いやタゥエンドリン王にとっても予想外の事態が発生したに違いない。
昌長がそう思考を巡らせていると、シーリーンは溜息を吐きつつ言った。
「豚人王バルバローセン率いるの豚人、小緑鬼の混成軍が候担国の沿岸に上陸しました。現在は候担国の王都を包囲しており、その候担国から大陸諸国に救援軍の要請がありました。我が国もこれに応じ、既に王は王軍を召集しております。諸侯や諸氏族に対しても同様の召集命令が下されております」




