02.契約しました
「よし。決まりだ」
頷いた私を確認すると、男は素早く左手を腰に回してきた。
「え……っ、なんですか!?」
そのまま抱き寄せられたかと思った次の瞬間には、私の身体は宙に浮いていた。
「な……っ、なにこれ!!」
「暴れんな! 死ぬぞ!」
「ひっ……」
あっという間にビルの高さくらいまで上がったと思ったら、男は右手を掲げて指を鳴らした。
途端、世界は動き出す。
急ブレーキをかけて止まるトラック。そこに私はいないけど、いたら確実に轢かれていた。
そして私が消えたことに人々は騒然としている。
それだけ確認できると、もう見えなくなっていく。というか、見ていられない。
落ちたら死ぬ……! その恐怖で目を閉じ、見ず知らずの男にしがみつくことしかできない。
「……そうだ、それでいい」
大人しくなったことに満足したのか、男は落ち着きのある声で言うと「急ぐぞ」そう呟いて私をキツく抱いた。
*
「さぁ、着いたぜ」
足が地に着いた。
そこで恐る恐る目を開ける。
――ここ、どこ……?
薄暗い森の中。最初に受けた印象はそれ。けれど私たちが降り立った場所は少し開けている。
「さぁ、じゃあ早速始めるか」
「ちょっと待って、ここは何処ですか!? 貴方は一体、誰なんですか……?」
時が止まった。空を飛んだ。契約する約束をした。もう、訳が分からない。頭の中が混乱する。一旦整理させてほしい。
「ちゃんと説明してください……」
何かを始めようとした男を制して騒ぐ私に、彼は気怠そうにしながらも口を開いた。
「俺の名前はビイト・クロツヴァート」
「ビート……? 何者ですか。まさか、死神……とかじゃないですよね? あ、もしかして疫病神とか? だから私は今日一日ついてなかったのね……」
半分冗談。この状況に、半分は本気で言ってみたら、男――ビートは嗤った。
「神? 笑わせるな、俺がそんなものなわけねーだろ」
そして言う。
「堕天使……いや、悪魔。そういった方がわかりやすいか」
「……悪魔?」
口の端をつり上げ、うっすらと笑みを浮かべるビートの顔をもう一度まじまじと見つめる。
こんな綺麗な人が、悪魔? 黒い翼も角も尻尾も生えていないし、槍も持っていない。
「悪魔がいるってことは、ここは地獄とか?」
半信半疑で聞きながら、もし本当にそうなのだとしたら、ここは思っていた地獄のイメージとは違う。
もっとおどろおどろしい所だと思っていたけれど、ここには木が生えている。植物があるし、空気もちゃんとある。苦しくも暑くもない。
……って、私天国じゃなくて地獄行きなの? そこは少し不満。
「地獄? 違うな」
とか考えていたら、それもあっさりと否定される。
「貴方の目的はなんですか? 契約って……私、殺されるの? 食べられちゃうとか?」
「殺すかよ。せっかく助けたんだ」
「私、家に帰れる……?」
次から次に質問してみるも、そこが一番重要である。なんだかよく分からないけれど、契約でも何でもさっさと終わらせて帰してほしい。
「家って、お前が住んでいた世界のか? それは無理だ」
「そんな……っ」
けれどビートはそれすらも簡単に否定してしまった。
「どうせお前はあの時死んでたんだ。別にどうなったっていいだろ?」
どうなってもいいということはないけれど、確かにもしあのまま死んでいたら、私は今頃本当に地獄にいたのかもしれない。
……いや、きっと天国だろうけど!
つまり、死と等しい代償がある可能性は十分に考えられるということ。そう覚悟して、もう一度尋ねる。
「……それで、私はどうなるんですか?」
「魂の契約。今からそれを行う」
混乱し、取り乱していた私がようやく真剣な顔を向けたからか、ビートもそれに合わせて表情を引き締める。
「魂の契約……? それをすると、どうなるの……?」
「お前は俺のモノになるってことだよ」
とても曖昧な言い方だ。結局どうなるのか、よくわからない。悪魔との契約とは、魂を取られて死んでしまうイメージがあった。
「待って、そもそも貴方が悪魔って、本当に……? 一体ここはどこなんですか?」
「質問の多い女だな」
納得のいかない私に、ビートは面倒くさそうにため息をついた。イケメンだけど、感じ悪い……。
「まぁいい。ここはお前たち人間の住む世界じゃない。悪魔や魔物が住む、魔界だ」
「……は?」
何言ってんの、この人。人間の世界じゃない? 魔界?
自分が悪魔だと名乗る時点でかなりヤバいとは思っていたけれど、彼曰くここは異世界というものらしい。とても信じられない、信じたくない。
けれど、私はこの身でこの有り得ない現実を体験してしまっているのが事実でもある。
「俺は魔王になる」
魔王……って、ゲームとかに出てくるラスボス的なあれのこと? 思いっきり悪者じゃん。
そんなものになりたいだなんて、捻くれた小学生じゃあるまいし。
どうせなら勇者を目指した方が健全ではないだろうか。
でもここは魔界で、彼は悪魔だから、仕方がないのか。
「お前にはその協力を頼むということだ」
「私が協力してなれるものなの?」
心の中でそんなことを思いつつ、とりあえずビートの話を最後まで聞いてあげることにする。これが夢なのだとしたら、かなりリアリティがある。
「……俺が拾った命だ。お前は俺のモノ。どう使おうが俺の勝手だろ?」
何その自己中心的な考え。やっぱりこの人本当に悪魔かも。
整った顔で怪しく笑いながら発せられたその言葉が、その雰囲気によく似合ってる。
「それで、具体的に何をすればいいの?」
「まずは契約を結ぶ。そうすることで俺の魂は強化され、昇級できる」
「昇級……」
「昇級を繰り返して上級悪魔になれば、いずれ魔王にだってなれるんだ。その為には魂だ。人間と契約して魂を強化し、より多くの魂を狩っていく。それが俺の目的だ」
愉快そうに言いながら、ビートはその金色に輝く瞳で私を見据えた。
途端、ドキリと心臓が跳ねる。
言っていることは理解し難いけれど、彼が嘘や出鱈目を並べているようにも見えない。
「……どうして、私なの?」
受け入れたわけではない……。
けれど、人間と契約したかったのなら、別に私じゃなくても良かったはず。
ビートが私を選んだ理由。それを恐る恐る尋ねてみる。
「お前が一番綺麗だったから」
「え?」
その問いに、ビートはさも当然のように答えた。照れる様子もなく、真っ直ぐに。
改めてビートを見つめる。
ハッキリとした顔立ちの中で、その瞳がまるで宝石のように輝きを放っていた。
そこだけ見ると、とても悪魔には見えない。
どちらかと言うと、天使と言われた方がイメージに合っている。
艶のある黒紫の髪は所々跳ねていて、完璧なルックスなのにどこか親しみを感じさせた。
「急に、何よ……」
頬が熱くなるのを感じた。恐怖とは別の感情で鼓動が速まり、ビートの顔を直視していられなくなる。
「お前も花を摘んだだろ?」
けれど続けられた言葉に、私の頭の中ではここに来る直前に摘み取ったマーガレットが思い出された。
「あの花に罪があったのか? 何か特別な理由があって、摘んだのか?」
「……」
そう言われ、考えてみる。確かに、特に理由なんてない。もしあるとすれば、その一輪がその中で一番綺麗に映ったから。たまたま私の目に留まり、直感で選んだだけ。
「俺も同じだよ。たまたま、死にそうだったヤツの中で、お前が俺の目を引いた」
つまり、手頃な人間だったということか。
私が何気なく花を摘んだような、そんな感覚だったのか。
そういえば、あの花はどこへ行ったのだろう。転んだ拍子に落としたっきり、忘れていた。
所詮、その程度なのだ。
用済みになったら、私もいつか捨てられる……?
そう考えると突然ゾクリと身体を悪寒が突き抜けた。
怖い……。
「もういいな。それじゃ、さっさと始めるぞ」
始めるって、何をするの? 痛い?
浮かんだ疑問を口にする前に、ビートは何かよく聞き取れない言葉を呟き始めた。
呪文のような、不思議な言葉。でも、とても綺麗。
途端、ビートを囲うように光が放たれた。
「……お前、名前は?」
「花奏……水城花奏」
「カナデ、ね」
そこで初めて自分の名すら名乗っていなかったことに気がついた。
けれどそんなことどうでもいいくらい、ビートが美しく、なぜだか目が離せなくなった。
「今からお前の名はカナデ・クロツヴァートだ」
「え?」
「繰り返せ。そしてその名を魂に刻め」
「……カナデ、クロツヴァート?」
言われるがまま、導かれるように名前を呟く。
その瞬間、ビートを囲んでいた光が私にも広がり、二人を包んだ。
思わず眩む目を閉じる。
体内に何かが流れ込んでくるような感覚がある。
身体が熱いけど、不思議と嫌な感じはしない。
どこか心地良さすら覚える。安心する温かみだ。
「……へぇ、コイツは凄いな」
呟くようなビートの声に、そっと目を開けた。
光は消え、目の前には握り締めた右手を見つめている彼の姿。
私の身体にも、何か変化があったような感覚は特にない。
「契約完了。やっぱり俺の目に狂いはなかったな」
満足そうに言いながら、ビートは私を真っ直ぐ見つめた。