8.食べ物と乗り継ぎばかりの旅行記
「おやすみ」
ぶっきらぼうに言って、壁を向いて横になる。黒百合ももそもそ言ってベッドに入ってくる。ひいって初夜の花嫁もさもありなん。いつもより身体を大きく曲げてる気がする。黒百合もそうかな。2つの四分休符になって寝る。
時々あるんだけど、4時過ぎに目が覚めてしまった。すーすーってかわいい寝息と、いいにおい。寝てられるかよって起き上がって乗り換え検索する。
「起きて。出かけるよ」
「ふえ?寝ぼけてるんですか?」
「違うって。始発に乗るの」
「始発?何時すか?」
スマホを引き寄せながら訊いてくる。
「5時ジャスト!」
なんか高揚してる。
「あと40分寝ます」
相棒は乗って来ない。
20分後に着替えて、ホテルをチェックアウトする。空が白んできてる。天気がよさそうだ。
朝ご飯を買おうとコンビニに入る。仕入れ前なのかサンドイッチやおにぎりが少ない。ハムカツサンドとフルーツサンドを選び、おかかおにぎりと緑茶ペットボトルを2つずつ買う。
「あたしはいいです」
「だめだよ。これから長いんだから」
「どれくらい?」
「365キロだったかな。もちろん普通電車」
「ふええ。お尻割れちゃうよぉ」
5時の掛川行に乗る。
「早出は旅の基本なの」
まるで内田百閒がヒマラヤ山系君にお説教するように言う。
「はあ、旅って大変っすね」
戦闘意欲失ってる。
「貴君は知らないかもしれないけど、山登りだともっと大事だよ。お昼に近づくとどんどん雲が出て、雷が鳴るから死活問題」
「山に連れてくの?」
「いや、そこまでは鬼畜じゃない」
ヤンデレ、山に登るっていいかも。幽谷圏谷とか。
掛川には40分くらいで着いて、10分待ち合わせで豊橋行に乗り換える。約1時間の乗車のほとんどを黒百合は寝ていた。まだ7時前だからしょうがない。
「お客さん、着きましたよ」と言って豊橋で起こす。
豊橋で15分ほど待って米原行に乗り換える。
「やっと目が覚めてきた」
「おはよ」
「ホントですよ。…こんな時間に電車に乗ってるとはね」
ぼくが掛川の前に食べた朝食を今頃食べてる。
「昔さ…」
ちょっと迷ったけど、やっぱり言いたくなった。
「なあに? 前世の話?」
「そうそう。昔、やっぱりこの切符で旅行したことがあって。あ、もちろん一人旅だよ」
「この辺り?」
「うん、ここで降りて、どうしようかなって思って駅員さんに相談したの」
「相談?」
「この切符持ってるんですけど、なんかおもしろいところありませんか?って」
「そんな漠然とした相談の相手してくるの?おじさんの姿でしょ?」
偏見だけど、真理だろう。
「それがしてくれたんだなぁ。『飯田線で辰野まで行くのどうですか?』って」
「飯田線?辰野?」
「簡単に言うと、北へ北へと伊那谷をくねくね上って行くの。それが10時半頃に出発して辰野に着くのが17時半頃!」
「うわぁ!乗り換えなし?」
「なし。200キロなし」
「息が詰まりそうだぁ」
「いや、すれ違いとかあって長めに停車することもあるから、プラットホームに降りて自販機で飲み物買うくらいはできる。スマホで写真いっぱい撮れたし」
天竜峡駅だっけ、『降りて撮影してもらってだいじょうぶですよ』と言ってた車掌さんが交代して、快く思わない人になった。しきりに時計を気にしていた。慣れてない人だったんだろう、悪いことをした。
「楽しいの?」
「乗るの好きだしね。その親切な駅員さんが『時間あるから豊川稲荷どうですか?』って、ちょうどお正月だったの」
あれ?ぼくって女言葉になってない?
あの駅員さんはとても楽しそうだった。『乗ったことあるんですか?』って訊いたら、『ないんです』と言っていた。自分の小さな夢をお客に託せるっていい仕事だ。
「初詣?」
「うん、駅からとっても混んでたけど、有名なのにこじんまりした感じがよかった。狐塚があって、かわいくてちょっと怖い感じの子狐が彫ってあった」
「子狐の悲しい物語があるんでしょうか」
ごんぎつねでも想像してるのかな。
「さあ」
「一人旅でも楽しそうです。あたしお邪魔してる?」
「ううん。旅は道連れ世は情け」
「あ、それ聞いたことある。やなこともあるけど、信じたいです」
昨日、絡まれたことを言ってるんだろう。
「人の情け?」
「うん。知り合いじゃない、これっきりの付き合いの人に親切にするのが本当の情け、善意じゃないですか」
ぼくは窓の外を見た。飯田線から見える、小さな水力発電所、強い圧力のせいか深い皴が刻まれた低山、夕陽に輝く白根三山。東海道線に伊那谷を重ね合わせてみる。
米原に着いた。20分ちょっとの待ち合わせ。まだ9時過ぎだけど、朝食は5時過ぎだったから、もうお腹が空いている。今日はどこまで行くか。敦賀か、福井か、そろそろ考えた方がいいけど、着いてすぐにお昼を食べる必要もない。
「あのさ」
「何?」
「駅弁買わない?」
「また食べるの?」
「そう言わないで付き合ってよ」
「はいはい」
駅裏で写真を撮ってから連絡通路に戻る。
「なんかお肉系が多いですね」
「近江牛が名物だからでしょ」
「おーみぎゅー?おいしいの?」
「おいしいんじゃない?土地の名前の付いたのは大抵おいしい」
飛騨牛や米沢牛くらいしか知らないけど。
「大船牛ってあるかな?」
「細かいね。湘南牛とか」
「おいしそう」と言いながら選んだのは山菜ご飯と鴨のローストのお弁当。ぼくは牛肉がいっぱい載ったお弁当にした。
「転生前じゃん」と言われてしまった。
進行方向の左向きに座る。この車両には誰も乗っていない。琵琶湖が見え隠れし、静かな湖面が美しい。黒百合はぼくの視線の先を追って、振り返ったりしながら同じものを見てる。
「進行方向と逆の方が風景がよく見えたるします?」
「うん、景色が飛び込んで来ないから楽なんだよ」
お弁当の包みをガサガサ開けながら言う。
「あたしのお弁当、夜まで保ちますか?」
「だいじょうぶだよ。お昼に食べてもいいし」
お昼はお昼で食べたいけど、黒百合の胃袋にも配慮する。
やがて長いトンネルに入る。たぶん在来線最高速度。太平洋側と日本海側は大抵険しい山脈で隔てられている。そのいちばん通りやすいところを鉄道は通しているけど、それでも明治の昔から長大なトンネルを掘って来た。
福井県側に出ると車内なのに湿気が上がった気がする。空は重苦しく曇ってる。
「天気悪いね」
「ううん、雨にはあんまりならないし、湿り気があっていいんだ」
「でも、雪降るでしょ?」
「そうだね。でも、東北ほどじゃないよ」
「東北も旅行してるんだ」
「うん、前世では東北が中心だった」
あきれて黙ってしまった。
敦賀、武生、鯖江と駅名を見るだけで降りたくなる街があるけど、福井まで乗る。