4.愛猫はあんただれ?とは言わない
「ただいま」と言って家に入る。
誰もいないのはわかっているが、愛猫のぽわんがいるはずだ。1週間ぶりの部屋をキョロキョロ見回す。こんなに男臭かったのか。
今まで4日以上家を空けたことがないのに飢え死にでもしてたらどうしよう。予感でもあったか、餌を多めに、ペットボトルにいっぱい水を入れておいた(逆さまに立てておくと、減った分だけ給水される)けど、当然のことながらどっちも空っぽだ。
生まれたばかりの子猫で引き取った当初は冷蔵庫の裏や洗濯機の下にすぐに隠れて困らせたものだが、そういうところを覗いてもいない。着替えより先に猫用トイレにたまったうんちを片付け、餌や水を補充していたら、ふと背後に視線を感じた。
「おー、元気だったか!」
「何あんた?」という顔をしている。
彼女(ぽわんは雌猫だ)の後ろに見える布団がほら穴のようになっている。寒いし、空腹だから布団にじっとくるまっていたのか。動物はじたばたしない。食料や水が断たれ、限界が来れば従容として死ぬんだろう。
「よく頑張ったな。えらいぞ、えらいぞ」
半泣きで抱きしめるが、うるさそうに身をひるがえして餌をカリカリ食べ、水を飲み始める。その量が半端ない。
「ぼくのこと、わからない?」
手を出すとぺろっと舐めてくれる。百万言費やしてもこんな親愛の情は人間には示せないだろう。全く違う意味合いかもしれないが。
でも、姿形が変わってもぼくだとわかっているのだろう。顔なじみのコンビニの中国人の子も、ほか弁のおばちゃんも全然わからなかったのに。それを確かめようとちょっと言葉も交わしてみたのに。
さすがは3年間一緒に暮らしてただけのことはあるわけで、ぽわんの「何あんた?」は「さんざんあたしをほったらかして、帰って来たと思ったらふざけた格好になって、どういうつもりなのよ?」といった意味なのだろう。
どうにも説明に窮する。窮するが、窮鼠猫と会話できないのは幸いだ。だから、人間と暮らすより猫と暮らすのがいい。
別の人間としてやって行くには考えなければならないことが山ほどあるけど、とりあえず風呂に入ろう。お湯を張っている間に紙袋から梯さんがくれた服や下着を出す。ブラはアンダーが70のDカップだそうだ。
「いつの間に測ったの?」
何気に訊いてしまった。もう女性同士なんだからいいだろうという気もあった。
「そんなこと気にしなくていいんです! それよりサイズの感覚をつかんで自分で買いに行ってください」
「どれくらい必要かな」
「お洗濯の間隔を目安にして」
「おじさんよりは多めがいいかな」
「そんなこと知りません!」
この手の話題になると顔を赤らめていてかわいかった。なんだかんだ理由付けて、今度の非番の日にでも買い物に付き合ってもらおう。
タグをライターで切ったり、ついでにタバコを吸ったりしてるうちに「勘弁してくれよ」とか「変態じゃ変態じゃ」と知らないうちにつぶやいてしまう。これがまたかわいい声だからよけい困る。ドナーの子に罪悪感がある。
せめて墓参りしたい。イメージするとアニメの一場面みたいでイケてると思うけど、大人の事情が邪魔するだろうなぁ。
何か着れるのないかなとクローゼットを漁ってみた。パーカーやブルゾンはだぼだぼでかわいいかもしれないし、Tシャツやワイシャツの類もマニアには需要があるかもしれないけど、ボトムスがどうにもならない。梯さんがくれたのと並べてみると親子みたいだ。仕事の当てもないのに出費が増えそうだ。
そうこうしているうちに『お風呂が沸きました』という声が聞こえた。不意打ちを食らってドキッとする。居心地が悪くなってるんだ、この部屋は。
順に、できるだけ淡々と服を脱いでいって、寒い浴室に入る。一人だからかけ湯もしないで、ざぶんと湯舟に入る。滑らかなすべすべした二の腕を触りながら、目をつぶると彼女の身体感覚が脳みそに染み込んでいくみたいだ。…
「あなたはその子になって生きていくしかないのよ」
真坂さんは診察室で手鏡を突きつけながら言った。
「そうは言っても収入とか激減だろうし。今のマンションって20代の子には住めないと思います」
「だったらあたしの所に来る? 2人くらい大丈夫よ」
一瞬、ラッキーと思ったが、何をされるのかわからないと思って口を噤む。女の子って自己防衛しなきゃいけない。
「それとあなた、19歳よ。どうでもいいかもしれないけど」
「どうでもよくないですよ。個人情報に係わらない範囲でこの子のこともっと教えてくださいよ」
「…既往症なし、手術歴なし、視力両目とも1.5、聴力異常なし、至って健康よ」
昨日受けた健康診断じゃないか。
「そういうのだけじゃなくて、せめて履歴書書けるくらいは」
「あなたの19歳時点で書けば無理する必要なくていいんじゃない?」
「そうは言っても…能力とか」
「優秀な頭脳と美貌を兼ね備えて、まだ能力が欲しいの?」
バーナード・ショウのエピソードをもじってお世辞を言ってるのかな。
「能力は適切な言い方じゃなかったです。…えっと、内面、そう内面が問題です」
「内面? 患者の内面なんてあたしだってわかんない。プロだから注意深く話を傾聴してるけどね」
何も言えなくなってしまう。
ぼくがなおもすがるような目で見てたからなのか、真坂先生はついでのように言った。
「あ、そうそう、あなた処女よ」
「はああぁ?!」
「だのにさ…」
くすくすと笑う。悪い予感しかしない。
「アフターピル持ってたの。これってどういうことなのかしらねぇ」
19にしてなかなかの人生経験の持ち主?
「1つだけ心がけておいて」
「なんですか?」
「鏡をよく見るように。鏡を見ない女の子は終わりよ」
なるほどね。ぼくはほとんど鏡見なかったもんなぁ。
お湯をぱちゃぱちゃさせながら、
「ねえ、あたしは誰なの? これからどうすればいいの?」と曇った鏡に向かってでたらめに唄ってみる。
これがサビの部分? 歌にするには手がかりがないんだよね。
「知らない間に死んでしまって、別の人に生まれ変わったみたい」
いや、みたいじゃないし、たぶんこの子の両親は死亡届をもう出しちゃってるし。歌にしてはホラーっぽいし。現実でも十分ホラーか。
「こんな世界で一人ぽっち、どうやって生きていけばいいの? 免許証もマイナンバーカードもないのに」
ポエムらしくないけど、話のポイントはそこだ。ぼくのはあるけど、おっさんのでOKって言ってくれるところはない。
自分が自分であることを証明するのは写真付きのIDカードしかない。他人が確認するものでしか自分を確認できない。ないない尽くしだ。
シャンプーがこんなに手間がかかるものとは思わなかった。そんなに長くない髪だけど、ぼくの元の髪に比べると10倍くらいボリュームがありそうだ。それにしても次は身体を洗わないといけない。
「身体は清潔にしておいてください」
梯さんが目を伏せて言った意味が今にしてわかる。どこかでムフフと思っていたけど、女の子で生きていくのには学ぶべきことが山ほどある。
「頑張る! あたし!」と言ってみた。まだ泡が残っているのに腕を挙げたら、
「くしゅん」とくしゃみが出た。