第五話 竜巻みたいな女の子
結局、きっちり――もとい不破がダークサイドに堕ちた理由はわからなかった。はぐらかされたというか、彼女の話はその後もあっちこっちへとひたすらにふらふらしていた。
昔よりもかなりお喋りになっていた。小学生の時は、聞き上手というか、彼女はほかの同級生よりも大人びていたから、基本的には静かに周りを見守っていた気がする。
しかし、求められれば、あるいは注意する必要があれば、烈火のごとく口を動かす。そんな感じ。物静かな優等生だったわけだ、彼女は。
とにかく、そのうちに昼休みも終わってしまい、気が付けば五時間目に突入している。数学の授業だ。二次関数の中ほどのところ。
ほとんどの科目において、進度は前の学校と同じだったから今のところ明確に苦労はしていない。それでも、しんどいものを強いてあげるとすれば、教科書から違うコミュニケーション英語と時代が全く違う世界史くらいか。
まあそれも誤差の範囲。前者はしょせん長文を扱っているという点では変わりない。後者は、暗記科目は得意のため、覚え直せばいいだけの話。
月末にあるという前期中間テストも、まあたぶん大丈夫だろう。この約一週間ほどで、そう結論付けた。
教壇では若い女の教師が、宿題の問題を几帳面な感じで黒板に記している。そして書き終わると「さあ、当番の人は書きに来てね」と告げた。振りむいた時に肩口で切りそろえたダークブラウンの髪が揺れる。
それで、ばらばらと俺の隣の列の一番前から数人が動き出す。そして、みんな揚々と黒板に答えを記し始めた。当たるところは前もって予告されている。だから、みんな自分の番の時はしっかりと準備してくるわけだが――
「……ちょっと、不破さん? あなた、解答を書いていないじゃない」
一か所だけ、誰も回答を書いていない場所がある。
なんとも間の悪いことに、今日は彼女が当たる日だった。当然、昨日まで短いバカンスをとっていた彼女は、問題の答えはもとよりその範囲すら知らないわけで。
俺はちょっと横目にその姿を覗き見た。それで、思わず自分の目を疑った。
不破は早くも机に突っ伏していた。授業開始から、まだ五分くらいしか経っていないのに。
「聞いてるの!」
ややヒステリックな悲鳴を上げる教師。しかし、効果はなかった。
不良娘は全く反応しない。身じろぎ一つしないそれは、もはやある種のオブジェのよう。
とうとう痺れを切らしたのか、先生は教壇から降りて、ずんずんと彼女の下に迫る。その顔は怒りで満ちていた。わなわなと震えている。
「なあ、不破。起きた方が」
見てられなくて、俺はそーっと彼女に声をかけた。
少しだけその身体が動いた気がした。しかし、それでもなお顔を上げるには至らない。
とうとう教師がその真ん前まで来てしまった。むすっとした顔で、腕を組み、冷たい目で反抗的な生徒を見下ろしている。
「ふ・わ・さ・んっ!」
「……さくらちゃん、あんまりがみがみしてると老けるよ? カレシにフられちゃうよ?」
「なっ――! 誰のせいだと思ってるんですか、誰のせいだと! そもそも、先生をちゃん付けで呼ばない」
「でもみんな陰でそう言ってるし。童顔だから、中学生くらいにしか見えないねって」
のんびりとして口調で、ひるまず彼女は言い返した。
すると、またしてもプルプルと松代先生の顔が震える。今度はぐるりと教室中を見渡した。
さっと顔を背ける同級生たち。無論、俺もなんとなくそうする。
さっき不破が口走ったことはどうやらクラスの総意らしい。それが証拠に、周りの生徒は気の毒そうな顔をして俯いてはいるものの、どこか笑いを堪えている感じだった。
それをそっと覗き見たのがいけなかったらしい。教師の顔がさっとこちらを見るのがわかった。
「転校してきたばかりのあなたも同じことを……! はい、じゃあ代わりに問題を解きなさい!」
とんだとばっちりだ。そして、クラスメイトのダムが決壊して笑いが教室中に反響する。
なんとなく恥ずかしい思いを感じながらも、俺は不破が担当するはずだった問題を解きに席を立つのだった。
*
そして、放課後が来た。待ちに待った……というのは、さすがに大げさだけど。それでもずっと感じていた心理的窮屈さは一気に無くなった。
今日は特に精神的に疲弊した気がする。昼休みの前までのことが遥か昔に感じられるくらいに、それ以降のイベントが濃厚すぎた。
変わり果てた昔の同級生との再会、そしてとばっちりを食らった五時間目、さらにその子がいかに変わったかをよく目の当たりにさせられた六時間目。
数学は冒頭こそ躓いたものの、あまり特異な行動は見せなかった。……教科書忘れたとかで、机をくっつける羽目になったけど。
しかし、その後の世界史は問題だった。彼女はずっとうとうとしていた。見てられなくて、何度も声掛けをしたが効果はなかった。……担当がおじいちゃん先生でのんびりとした話し方で眠くなるのはわかるけれどちょっとやりすぎだと思う。
「ねえ、大翔くん。どこ住んでんの?」
帰り支度をしていたところ、不破が急に話しかけてきた。
予期せぬ位置に彼女の顔があって、俺はちょっとドキッとしてしまう。近くで見ると、よりキラキラしているというか……その大きな瞳でじっくりと見つめられると気恥ずかしさでいっぱいになる。
平静を装いつつ家の場所を伝えるが、河崎と同じ中学ということなら、方角はおそらく反対だろう。
「あ、そっちの方か~」
彼女は少し残念そうな顔をした。もしかしたら、一緒に帰ろうと誘ってくれようとしたのかもしれない。
気まずくて、俺は曖昧に「なんかごめん」と頭を下げる。
「どうして大翔くんが謝るの? そだ、これから遊びに行かない?」
「あ、遊び?」
予期せぬ言葉に俺は素っ頓狂な声が出た。
「なんだ、お前らどっかいくのか? じゃあ俺も――」
「河崎には用ないから、あたし。いいでしょ、それとも何か用事ある?」
視界の端で、除け者にされた河崎が悲しそうな表情をするのが見えた。
「いや、それはないけどさ……」
「じゃあ決まり、決定!」
「おい、待てよ。俺を仲間外れにしないでくれよ」
「えー。だって、どうする大翔くん?」
「いやいや、誰も行くとは――」
「えー、積もる話はいっぱいあるのに、断るの? あたしたち、せっかくまた会えたんだよ?」
そう言われると、弱いというか……。今の彼女のことがもっと気になるのは事実だ。
どぎまぎしながら、俺はふと時計に目をやった。三時半を過ぎた頃、少しならいいか。家で待ってるであろう、ユウのことを思い浮かべながら最終的に二つ返事で同意した。
「そうこなくっちゃ。じゃね~、か・わ・さ・き・くん」
「いや、別に河崎も一緒でいいと思うんだけど」
「え、そう? やさしいな~、大翔くんは。よかったね、河崎。感謝すんだよ」
「おう、ありがとな、真柴! ……って、もとはと言えばお前が邪険に扱っただけじゃねえか」
「だってねえ」
そう言うと、彼女は少し残念そうな顔をした。さらに、どこか憐れむような視線を、同じ中学出身の同級生に向ける。
そんな不当な扱いを受けた彼は、洋画の俳優がやるように大げさな感じで肩を竦めた。そしてとてもひょうきんそうに、唇を尖らせて目を大げさに開いて見せる。
なんとなく二人の動作からは、付き合いの長さが滲み出ていて、俺はちょっと複雑な気持ちになった。その正体はよくわからない。
「で、どこ行く?」
「お話ししたいからファミレスでいいでしょ」
こうして、ひょんなことから、俺は高校生活初めての寄り道をすることになりましたとさ――