第四話 暗黒面に堕ちし少女
教室内の様子は、この大遅刻者が現れても全く変わらなかった。相変わらず、楽しそうな雰囲気が室内には充満しっ放し。
昼休みはあと十分ほどすれば終わってしまう。それでも、喧騒が止む気配は全くなかった。
「……やっぱり覚えてない、かな?」
目の前の少女はちょこんと首を傾げた。その仕草は小悪魔っぽいというか、悪戯っぽいというか、どことなくこちらをからかうようでもある。
そしてその姿がようやく、記憶の中のきっちりの姿と一致した。昔、彼女もそういう仕草をすることが多々あった。
勉強を教える時とか、悪ふざけしている男子を諫める時とか、女子の相談に乗っている時とか。
とてもよく印象に残っている。
それでも――
俺は未だにこの女子が、きっちり――吉津智里だとは信じられないでいた。いや、受け入れられないというべきかもしれない。
だって、きっちりはこの女子とは正反対の女の子。
遅刻したところなんて見たことない。ましてや、学校を休んだことも。宿題を出さないで、先生に怒られている姿も記憶にないし、小学校のテストとはいえ、彼女はいつも満点だった。
髪の毛は黒くて、艶があってまっすぐで……長さだけは同じだ。でもいつもそれをポニーテールにしていた。
よくよくその顔を見れば、確かにきっちりの面影がないでもない。優しそうなたれ目、ちょっと低い鼻――輪郭はちょっぴりシュッとしているけれど。そして極めつけは――
「もう、あんまりじろじろ見ないで。恥ずかしいよ~」
キャッとわざとらしく小さな悲鳴を上げると、そのまま腕で顔を覆ってしまった。照れている振りか、ちょと身じろぎしている。
右目の目尻の端にとても小さな黒子があった。髪の毛に隠れて見えずらかったけど、しっかり確認できた。それは、きっちりの特徴でもある。
「もしかして、あんまりにもあたしが変わりすぎちゃって、惚れ直した?」
「な、な、な、なにいって……」
確かにだいぶ可愛くなったことは認めるが、しかし――
「惚れ直したとか、そもそも俺は……」
「アハハ、ジョーダンだってジョーダン! でも、その感じだと、ようやく思い出してくれたみたいね~。よかった、よかった。一安心だ! あたしだけ、一方的に覚えてるなんて、やだもんね」
なおも彼女はからからと陽気に笑う。昔はもうちょっと大人なし目な笑い方だったと思うが。
外見だけでなく、その性格もがらりと変わったらしい。まだその変貌をまともに受け止められていなかった。
数年ぶりの再会だというのに、こんなフランクで。おまけに、香水のようないい匂いもするわで、もう俺はひたすらにどぎまぎするしかない。
「おいおい、お前ら、知り合いなのか?」
「そうよ~。小学校の時の同級生! 四年生から、三年間学級委員で同じだったこともあったね。覚えてる?」
口元に優しい微笑を湛えながら、彼女は大きな瞳をこちらに向けてきた。
俺はやや気圧されながらもこくりと頷く。覚えてる、というか、忘れたことはない。それこそ、彼女と仲良くなったきっかけだから。
委員会の合間の時間や帰り道、彼女と一緒だった。よくそれをクラスのやつに見つかって、ああだこうだと茶化されたけど
「お前が~? ないない、冗談か何かだろ」
「むっ、河崎。あんた、ほんとに失礼ね! だから、彼女いないんだよ。モテそうな顔してる割りに」
「彼女いないんじゃなくて、作らないんだ! ていうか、ほっとけよ。……しかし、やっぱり信じられん。そういうのとは対極な存在じゃないか、中学の時から」
彼は口を尖らせて抗議の弁を述べながらも、訝る様子を崩さない。
「河崎は、その……同じ中学なんだ?」
「ああ。中二の時かな、転校してきて。その頃から、ずっとこんな感じだった。今でもこうして、同じ高校にいるのが信じられないぜ」
「その辺はちゃんと計算してますから~」
のほほんと、彼女は笑う。気の抜ける笑い方だった。
俺はそれを複雑な気持ちで聞いていた。彼女もまた転校していただなんて。そんなこと、全く考えもしなかった。
でもありえないことじゃない。現に自分もそうだし。転校なんて、珍しいことじゃあないんだ、と改めて意識づけられる。
すると――
「どうしたの、大翔くん? あっ! もしかして、あたしと河崎の仲を疑ってるとか」
覗き込むようにして、ぐっと顔を近づけてくるきっちり。ずいぶんとまあ、距離感が近いというか……。
仮にも三年ぶりなわけで、これだけ期間が空けば多少ぎくしゃくしてもよさそうなものなのに。少なくとも、俺はそうだった。
「いや、そんなんじゃ……」
「またまたムキになっちゃって~。でもだいじょーぶ! こいつは、あたしの好みじゃない」
「俺だってそうだよ! こんながさつでいつもやる気のないダウナー女なんて」
とはいうものの、なんとなく息があってるように見えるのは気のせいだろうか。互いに、とても気心が知れている感じが伝わってくる。
さすが、イケメン。仲良しの同じ中学の女子がいるなんて。俺としては、とてもじゃないが考えられなかった。前の高校の時も、そういう存在はいたが、こんなに仲良くはなかった。というか、事務的な会話くらいしかした覚えはない。
「うるさいなぁ。学生生活なんてテキトーでいいのよ、テキトーで」
「だからって、ずっと休み続けるのもどうかと思うぞ」
「どうしても学校に行く気が起きなかったからね~。でも、大翔くんが転校してきたって知ってれば違ったかも」
「……あの、きっち――よし……不破さんは、どうしてそんな生活を?」
彼女のことをどう呼ぶべきか、俺は決めかねていた。この変わり切った彼女を昔のように呼ぶのは違う様に思われた。
かといって、名前を呼ぶのも躊躇われたし。向こうは昔のように――いや、昔以上に砕けた感じで接してくるけど、俺はこの期に及んで引き気味だった。
彼女がきっちりなことは納得した。しかし、その姿が記憶の中のそれとは違い過ぎて、もはや親しくない一クラスメイトにしか思えないのだ。
ということで、苗字で呼ぶことにしたわけである。さん付けまでして。本人の容姿内面同様、変わってしまったそれに違和感を少し覚えながら。
勇気をもって気まずい話題に切り込んでいったのだが――
「えー、別に昔みたいに呼んでくれればいいのに。ほら、きっちり。男との子はみんなそう呼んでたでしょ?」
「いや、でも……」
「なあ、さっきからその『きっちり』って何なんだ?」
「ああ、それはね。あたしの昔の苗字って、吉津って言うんだけど」
彼女は口頭でその漢字を河崎に伝えた。
「ね、無理矢理すれば『きっちり』って読めるでしょ。これ、あたしのあだ名ね」
「へー、全然きっちりしてないのにな!」
「昔は真面目だったんですー、これでもね! ね、大翔くん?」
「まあ、そうだな」
それでもまだ疑わしい目を、川崎はきっちりに向けている。
俺もまだ、そんな変わり果ててしまった少女のことを、複雑な気持ちで眺めることしかできないのだった――