第三十六話 テスト当日
「ねえ、大翔くん」
今までずっと無言だった智里はいきなり口を開いた。高校の駐輪場に自転車を置いて、校舎目掛けて歩いているところだった。
道行く生徒の数は恐ろしいほどに疎らだ。いつもなら、もう少し多くの人間でごった返しているはずなのに。
しかし、それもそのはずで――
八時五分――現在時刻だ。これは決して俺の時計が間違っているとかではない。今身に着けているのは電波時計だから、タイムゾーンを間違えない限り正しい日本時間が表示されることになっている。
さて、ではそのカラクリはといえば。それは昨日の朝まで遡ることに――
『おはよう、大翔くん!』
『……お、おはよう、智里』
『なあにその顔。朝から、愛しの彼女が出迎えたっていうのに、失礼じゃない?』
智里はとても不愉快そうに鼻を鳴らした。
呼び鈴を鳴らすと出てきたのは智里母――ではなく、本人だった。あれは流石にびっくりした。なんとちゃんと朝起きて、俺が来るのに合わせて準備を済ませたらしい。
『冷静に考えると、寝起きの姿を人に――彼氏に見られるって相当ヤバいよね』
げっそりとした顔を彼女は見せた。
どうしていきなり変わったのか、そう尋ねると時の答えがそれだった……今にして思うんだ、と感じたわけだけど。しかし、それを話すわけにもいかず。俺は『偉いね、智里は』と言って無理矢理に褒めた。そしたらとても嬉しそうな顔をしたもんだから、可愛いと思うと同時に少し罪悪感を抱いたわけで。
そうした事情で、今朝もまた智里は俺が行く頃にはすでに準備万端だった。そのまま家を出てのんびり自転車を漕いでいたらこんな時間になった、ということである。
……朝起きれるようになったにもかかわらず、俺が彼女の家を訪れることには若干思うところもあるけれど。『あたしは大翔くんと毎日学校に行きたいな~』とか言われた日には、俺には首肯することしかできないのである。
「どうかした、智里?」
「今日からテストでしょ。いい結果が出たら、当然ご褒美、あるよねぇ?」
わざとらしく彼女は語尾を上げた。
「……いや、あの、勉強とは自分のために頑張るものでして」
「うわ~、やっぱりどこまでいっても真面目だねー。最近少しは柔らかくなってきたと思ったのに」
「いつ俺が柔らかくなったのか、一応聞いておこうかな」
「こうして手を繋いでいても怒らない、とか?」
彼女はこれ見よがしに自分と俺の手を少し掲げて見せた。ばっちりと指を組み合うように握られている。所謂恋人繋ぎ、というものだ。昨日初めて知った。
早く来ると生徒が少ない、というのはいつものことらしい。昨日の朝も同じように、生徒が殆どいなかったから、向こうからこれを提案してきた。
「あれは、お前がダダこねるから仕方なく……」
「へー、そう。そういう風に言うんだ。ふうん。嬉しそうに鼻の下伸ばしてたのは、どこの誰だったかなぁ?」
「なっ、だ、誰が鼻の下なんか――」
「そういえば今までもさ、結構じろじろ見てきたよね。大翔くん、意外とむっつりなんだなぁって」
ニヤニヤしながら、智里は俺の顔を見上げてきた。
俺は思わず顔を逸らす。返す言葉はなにも持ち合わせていなかった。ただひたすらに恥ずかしい……なぜ朝からこんなに揶揄われなければならないんだろうか。
「アハハ、やっぱり大翔くんは面白いなぁ。――でね、さっきの続きなんだけど」
「ご褒美のこと? ……一応、何が欲しいかくらい聞いておくよ」
「デート! デートしましょ!」
彼女の顔に満面の笑みが広がった。その姿に、俺はたじたじになりながらも、思わず頷いてしまう。
*
チャイムの音が鳴るのと同時に、監督の先生が腕時計から顔を上げた。
「はい終わり。動くなよー。動いたら撃つぞー」
物騒なことを告げたのは数学の教師だった。三十代半ばくらいのユーモラスな男性。授業中も面白い小話をするので、結構生徒からの人気はあるみたい。
「それじゃ答案集めるから。後ろから前に送って」
その声でガタガタと教室に雑音が生じる。テストの時の静寂さが嘘みたいなようだった。
俺も後ろから回ってきた答案の上に自分のものを重ねて前に送る。本日最後の科目はコミュニケーション英語だった。よくできた気がする。
その後、教師は答案の確認を済ませると、満足したように去っていった。入れ替わるようにして担任の先生が入ってくる。
――その後の帰りのホームルームも特にトラブルなく終わった。強いて言えば、あんまり寄り道をするな、と注意されたくらい。あと、明日のテストも頑張れよ、と。まあ、どちらも形式通りのものだろうけど。
号令係が最後の挨拶をして、俺たちはようやく長いテストの時間から解放された。三時間授業だから、まだ十二時前。それでも、テストと言うだけでそれなりに疲労感は覚えるんだけれど。
「大翔くん、帰ろ~」
のろのろと帰宅準備をしていると、智里がこちらにやってきた。座席はテスト用のものになっているから、俺と彼女の席はそれなりに離れていた。
「はいはい」
「むっ、なにその反応? 嬉しくないの」
「いえいえ、至上の喜びでございます、智里さま」
「なんだか、馬鹿にされてる気がする……」
俺の慇懃無礼な言い方に智里は顔を曇らせたまま。眉間に皺を寄せて、怪訝そうな視線をこちらに寄越してくる。
まあ馬鹿にしてるわけではないけど、適当にあしらってるのは事実なわけで……。俺は肩を竦めてちょっとおどけてみせた。
「そうだ、この後どうする?」
気を取り直したように、彼女は明るい声を出した。
「どうするって? 放課後、残れないんだよね」
「うん。だから、どっちの家で勉強を――」
「はー、不破もずいぶん真面目になったもんだなぁ」
俺たちの会話に割り込んできたのは河崎だった。腰に片手を当てて、あきれ顔で思い切りため息をついた。
「むっ、何の用よ!」
なぜか智里は腕を組んでくる。
「なぜ敵意を向けられてるんだ、俺は……」
「二人の時間を邪魔するからよ」
「ここ教室だぜ? 周りにも人いっぱい」
河崎はかぶりを振って、ぐるりと教室に視線を巡らせた。
下校時刻になったからとはいえ、同級生たちが一気に消える、ということはなくて。まだかなりの数の生徒が残っていた。
友人たちと談笑している姿が目に入ってくる。おそらく終わったばかりのテストの出来栄えか、明日のことについて話しているのかも。あるいは、俺たちみたいにこの後の予定とか。
「で、どうしたの、河崎?」
「いや勉強するんなら混ぜてもらおうと思ってな」
ちらりと彼は後ろを見た。戸田と綾川がそこにはいた。
「よろしくー、不破ちゃん!」
「頼むぜ、真柴!」
とまあ、二人ともすでにやる気満々である。
「えぇー、あたし大翔くんとの甘い時間を過ごそうと――」
「まあまあいいじゃない、智里。で、どこでやるの? さすがにうちは狭いよ」
「……あたしのとこもだめー」
まだちょっと智里は膨れていた。
「そしたら俺の家に来いよ」
そう言いだしたのは河崎だった。きらりと爽やかな笑みがその顔に浮かんでいる。
「確かに耕太の家、結構広いよな」
「へー、そうなの? かわさんの家かぁ、どこにあるの?」
「学校からはそれなりに近いぜ」
「じゃあいいんじゃない、それで!」
「智里、そんなに怒るなよ……」
まだぷんぷんと憤っている彼女を、俺は何とかなだめにかかる。そんなに二人きりがよかったんだろうか……俺としてはこうして大勢で勉強するのも好きなんだけど。
「決まりな。それじゃあ行こうぜ!」
「さんせーい!」
鞄を持って、意気揚々と先に三人が出て行く。俺と智里は一つ顔を見合わせると、やれやれと思いながら彼らの後に続くのだった。




