第三十三話 不思議な看病
俺は不破家のリビングで一人、罪悪感に押しつぶされそうになっていた。とんでもないことをしてしまった、と時間が経つにつれて後悔が膨れ上がってくる。おかげで、こうして読んでいる本の内容は全く頭に入ってこない。
『……欠席連絡って、生徒本人からしていいの?』
『だいじょーぶ、だいじょーぶ。あたし、いつも自分でしてるから』
それはたぶん彼女の場合は、無断欠席が多いからだと思うんだが。しかし、それ以外に欠席を伝える手段があるというわけでもないので、大人しく自分のスマートフォンから電話をかけた。
担任は俺の病欠と言う説明を、全く疑うことなく信じてくれた。普段、真面目なのが功を奏したか。あるいは、教師側が適当だったか。……転校してきて一カ月しか経たないから、前者はあんまりあり得なさそうだけど。とにかく、休むことには成功した。いずれ、この所業もバレると思うが。その時に考えよう。
学校をサボるなんて、生まれて初めての経験だった。それをおれに唆した少女は、ベッドでぐっすり眠っている。最後に交わした言葉は『背中拭いてくれない?』だった。もちろん、断りましたとも。智里のやつ、この状況を心の底から楽しんでやがる。
ふと時刻を確認すると、そろそろ昼休みに突入しそうな頃合いだった。ちょっとお腹が減っている。考えないようにしていたが、生理現象だから仕方ないか。
弁当、食べようかなぁ……。そう思った時に、脳裏に過るは母の顔。あの人は、息子のこんな不正行為を一体どう思うだろうか。大激怒――いや、ユウのこともあるから、あんまり咎められないような気も。なんにせよ、申し訳なさは加速していく。
そんな意味のない逡巡を繰り返していると、扉が開く音がした。そちらの方にゆっくりと顔を向ける。
「どうそれ、面白い?」
いくらか顔色がよくなった智里がソファのすぐ近くまでやってくる。俺が読んでいる本の表紙を指さした。
暇潰しにと彼女に借りたものだった。古い海外の推理小説……有名な作者の作品で何度か映像化もされているが、俺はまだ触れたことがなかった。
「いや、実はまだ序盤だから何とも。誰も死んでないし」
「大翔くん、そんなに読むの遅かったっけ? もしかして、最近あんまり読書しないとか」
「そんなことないんだけどさ……」
サボったという事実が気になりすぎて集中できない。なんて、素敵な実情を口にする気にはならなかった。まあ彼女はそんなこと気にしないだろうけど。
「で、具合はどう?」
本を閉じて目の前のテーブルに置いた。
「ううん、だいぶ良くなったかな? とりあえず、お腹減っちゃった」
ペロリと無邪気そうに彼女は舌を出す。
「それは奇遇だな。俺もちょうど、弁当食べようかなって思ってたとこだから」
「そうなの? ……あれ、あたしのお弁当は?」
彼女はテーブルの上に視線を向けると、すぐに不思議そうな顔をして首を傾げた。眉間にちょっと皺が寄っている。口元を手で覆って、これを見た大抵の人がこの少女は何かに悩んでいるとわかるだろう。
「おばさんが持って出たよ。『これは、あたしのお昼ね』って言って。ちょっと楽しそうに」
「えぇ~、マジで!?」
げんなりした顔をして、智里はがっかりした姿を隠そうともしない。そして、ちょっとだけ頬を膨らませてみせた。
ちなみにおばさんは八時には家を出る。いつも二人で彼女を見送るので、別に俺が長居していることは怪しまれなかった。『智里、心配してくれてありがとうね』とのんきそうな感じだった。
「まあまあ。ほら、鍋の中、見てみ」
「へ?」
素っ頓狂な声を上げながらも、キッチンへ。そして、コンロにかかっている唯一の調理具の蓋を取った。「わあっ」と、ちょっと驚いた声が聞こえてくる。
「もしかして、大翔くん作ってくれたの?」
「ああ、そうだ。って、言いたいところだけど、おばさんが作ってったみたいだぞ。俺が家を出る前に伝えてくれって言われた」
「ママが? って、家を出る前に……もしかして、もう帰っちゃうの? あたしが少しは元気になったから」
「いや、そういう意味じゃないけどさ」
「あからさまな動揺、揶揄い甲斐がありますな~」
なぜか嬉しそうに言うと、彼女はくるりと身を翻した。コンロに火を点けて、軽やかに食器棚の前へ移動する。
その姿を確認して、俺は正面に視線を戻した。今のところ、体調は問題なさそう。
「大翔くんも食べる?」
「……いや、俺は弁当あるから」
「はーい」
朗らかな返事がやってきた。
どうやら智里はすっかり元気を取り戻したらしい。そして、一つ思う。俺がここにいた意味はないのでは?
やったことといえば、彼女が眠るまでの話し相手。その手を握りながら。しかし、それは決して医療行為と呼べるものではないだろう。
悪戯好きの少女の誘惑にまんまとかかってしまった。そんな自虐的発想は、昼食時のあの満面の笑みによって吹き飛ばされた。
*
穏やかな午後の昼下がり。リビングにて、俺は智里と勉強をしていた。すっかり体調は元通り、とのことらしい。『このまま二人でどこか遊びに行っちゃおっか』――サボりの先輩である彼女はそんな魅力的な誘いをしてきたけれど、そこは流石に乗るわけにはいかなかった。
「あーあ、ほんと大翔くんは真面目だねー。こんなせっかくのいい天気、家に籠もってるなんてもったいないよ?」
「じゃあ登校しますか? 六時間目には間に合いそうだけど」
「ううん。それもまたいいかも。あたしたちが一緒に来たら、みんなどう思うだろうね?」
彼女は目を細めて、わずかに口角を上げた。文字を書く手を止めて、からかうような眼差しをこちらに向けてくる。
「どうもすみませんでした」
俺は素直にぺこりと頭を下げた。
「ふふっ、残念。これで、大翔くんも不良の仲間入りだと思っていたのに」
「今日だけだぞ。俺はもう二度と学校をサボったりなんかするもんか!」
「あはは、楽しみにしているわ」
それは悪役じみた笑い方だった。恐るべし不破智里……彼女の誘いに負けないように、心を強く保たなければ、と改めて決意を固める。
その後も談笑しながらも、いよいよ来週に迫ったテストに向けて仕上げにかかる。彼女の方も順調ではあるようだった。
「智里、そこ間違ってる」
「どこどこ」
「今書いたところの一行上。符号が逆」
俺はペンの尻でその箇所を叩いた。
「あっ、ホントだ! ありがとね、大翔くん」
えへへ、とはにかんだような笑みを見せる智里。それは普段から見慣れているはずなのに、なぜか今日はとびきり素敵に見えてしまった。
実はさっきからどことなく気分が落ち着かない。こうして一緒に勉強なんて、いつもやっていることなのに。
彼女がパジャマ姿、という日常丸出しの格好をしているからか。病み上がりだからか、どこかしおらしくて儚げな雰囲気。
そして、いつも胸元の緩めな彼女だが、今の衣服で、さらにこうして正面に座っていると――
「どこ、見てるのかな、大翔くん?」
「ひゃ、ひゃい! なんでございましょう?」
「あからさまに狼狽えてるし。二人きりだからって、意識しすぎじゃない?」
どこか薄い笑みを浮かべながら、彼女は胸元のボタンをしっかり閉めた。俺の方を見つめたまま。
その言葉に、ようやくこの謎の緊張が生じた原因がわかった。二人きりという事実が、とても重くのしかかっているんだ。
俺は逃げるようにして、スマホを確認する。……えげつないほどに、通知が来ていた。俺の数少ない友人の河崎くんから。




