第三十一話 告白
ファミレスの中は、すっかり賑やかになっていた。時間帯が時間帯。夕食を取りに来た家族連れの姿もちらほらと。
席に座って、改めて彼女と向かい合っていた。白いトップス、下はテーブルの陰に隠れてよく見えない。とにかく、いつもとは違った清楚な感じが漂っている。
それはあたかも昔の彼女の姿に近いと言えた。流石に髪の色は黒ではなく、ポニーテールでもなかったけど。
こちらを見つめるその眼差しは力づよい。その瞳はしっかりとした光を湛えている。用意していた言葉は、そんな彼女を前にして一つ残らず掻き消えた。
「あなたがそこまで頭が悪いって知らなかった。わたしが来ないとは思わなかったの?」
「……少しは思ったけど、今の俺にできることはこれくらいしかないから。それに、あのメールならもしかしてって、期待してた」
俺は真直ぐに彼女の瞳を見つめ返す。少しでも俺の気持ちが伝わるように。嘘じゃないって示すように。
「ふん、何を今さら……。それで何の用なの?」
「まずはこの間のことを謝らせてくれ。本当にごめん。本当は、俺はきっちりのことがあの頃からずっと好きだった」
「いいわよ。そんな、今さら取り繕わなくて。信じられると思う? あなたはずっとわたしのことを無視してきたのに」
「……メールアドレスの件はついこの間気づいたんだ。お前と再会した夜に、初めて卒業アルバムに目を通した」
「結局、あなたの中でわたしの存在は――思い出は、その程度ってことでしょう? よくわかったわ。それじゃ――」
「待ってくれ!」
伝票を持って立ち上がった彼女の手を咄嗟に掴む。白くて細い手首は少しだけひんやりとしていた。その強情さからは信じられないくらいに。
「またこれ? 手首フェチなの?」
不破は鼻を鳴らして半目で睨んでくる。
「本当なんだ。信じてもらえないかもしれないけど、俺はお前のことが好きだ」
「今さら何よ!」
彼女は大きな声で叫んだ。いつもローテンションな彼女にしては珍しい姿。肩を震わせて、きつく下唇を噛んでこちらを睨んでくる。
あまりの剣幕に周りの人間の目がこちらに集まった。ちょっと周りが騒然とする。迷惑そうな視線、好奇心に満ちた視線、色々な感情が俺たちにぶつけられる。
それで彼女もクールダウンしたらしく、ちょっとはっとした表情になると腰を下ろした。俺も、その手首から手を離す。
「わたし、ずっと待ってたんだよ、あなたからメールが届くのを。毎日、毎日。馬鹿みたいに、チェックしてた。……でも、返事は来なかった」
それは先ほどとは違って、とても小さな声だった。切なげにその顔は歪み、一つ一つの言葉には、彼女の真なる感情が乗っていて、俺の心に鋭く突き刺さっていく。
「気付かなかったのかと思った。回りくどいのはわかってたから。どうせ、中学で会えるからその時に言えばいいかなって、そう思ったら――あなたはそこにいなかった。年賀状の住所を辿って、あなたの家に行ったわ。わたしの知らない人が出た。それで全て悟った。あの人は、わたしに何も言わずに去っていったんだって」
彼女の表情が全てを物語っていた。見ていて胸がつまりそうになるほどに、必死な表情。瞳孔は開き、その唇は微かに震えている。ともすれば、そのまま泣き出してしまいそうなくらいに。
改めて、自分のしてしまったことの重大さに気付かされる。二度と開くことはないと思ってた、あのアルバム。つまらない意地を張らずに卒業式の日に、いやどこかのタイミングで眺めていれば……。俺は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。しかし、それを言葉にしてはいけないことはわかっている。
「朝、お母さんに聞いたでしょ? 地元の中学に進む条件は二つ。成績を落とさないことと、塾に通うこと。その生活は思っていた以上にしんどかった。来る日も来る日も勉強、勉強。放課後、いえ、休みの日も友達とどこかに行くなんてことはなかった。……というか、そういう人はいなかったし」
「でも、小学校の時の同級生が――」
「いたけど、違うクラスだったしね。部活や委員会でもやってれば、違ったんだろうけど。とにかく、わたしはそんな生活に疲れちゃった。その頃からかな、お父さんたちの言い争いが激しくなって。正直家に帰りたくなかった。塾がない日は地獄だった」
彼女は遠い目をして昔を振り返っている。とても懐かしんでいる風ではない。能面のように、どこまでも感情がない。
「中学二年生になってすぐ、クラスの子に遊びに誘われてね。その日、塾があったんだけど、思い切ってついていったの。そしたら、お母さんにめちゃくちゃ怒られてさ。でも、なんかそれが凄い快感だった。同じようなことを何度か繰り返した。つるんでた子の影響で髪を染めたし、一回補導されたこともあったなぁ。で、その日は来た」
彼女はまたカップに口を付けた。そのか細い喉が小さく上下する。
「離婚するんだって、朝、お父さんに言われた。それで、智里はどっちについていくって聞かれた。わたしはお母さんを選んだ。あの時のあの人の姿がとても可哀そうに見えた。で、引っ越すことになって、中学も変わったんだけど、わたしはすぐに元の生活に戻らなかった。そうするのは、なんかお母さんを許したことになるような気がしたんだ。変だよね、自分でついていくこと選んだのに」
口元に微かな笑みが宿る。それは寂しげだった。自らを蔑むような感じ。言葉の節々に、自己嫌悪が滲んでいる。
「とめてほしかった。叱ってほしかった。でも、お母さんは何も言わずに見守るだけ。そのうちに段々とそれが本物になっていった。真面目に学校に行くのができなくなってしまった。勉強の方も、中学の時は貯金があったからよかったけど、最近は本当についていけなくなっちゃった」
淡々と語っているが、それは彼女の心の底からの嘆きだと、俺は感じた。歯止めが利かなくなってずるずると、ありそうな話だ。最初は軽はずみな気持ちだったんだろう。親への些細な抵抗。しかし、俺はそれを決して分かち合うことはできない。つくづく自分は平坦な道を辿ってきたんだと、気づかされる。
「あなたに出会ったのは、そんな時だった。一目でわかった、あの人だって。見た目は結構変わってたけど、身に纏ってる雰囲気っていうの? そういうのは変わってなかったから。でもあなたと仲良くなるにつれて、どこか遠慮のようなものを感じた。昔のように戻れるって思ったんだけど……」
「それは……正直すまなかった。どうやって、付き合っていけばいいか、わかってなかったんだ。お前の変化に戸惑ってたんだと思う」
最低なことについこの間まで、きっちりと不破智里のギャップを受け止めきれていなかったのは事実だ。無意識の内に、比べていた。あの頃の彼女を探していた。
「ううん、あなたは悪くない。自分に引け目を感じていたのは、他でもないわたしだった。もし、昔の方がいいって思われたらって考えると、実はかなり不安だったの。まあ、あの言葉で全部ぶち壊されたけど」
「あれは――」
「わかってる。咲の前で恥ずかしかったんでしょ。本当はわかってたけど、でもとまれなかった。あなたのことをずっと想っていたわたしがなんだか惨めに思えてきた。何だったんだろうって、今までのことは。そして同時に、自分の浅ましさに気が付いた。全部が本当にやり直せると思ってた、そんな愚かしさに」
彼女の目の端から、ぽろぽろと涙が零れていた。しかし、彼女は拭おうともしない。それで呆気に取られてしまった。だから、次の行動に咄嗟に反応できなかった。
「さようなら、大翔くん。また明日ね、真柴くん」
彼女は勢いよく立ち上がると、そのまま駆け出して行ってしまった。寂しげにほほ笑んで。そのまま狭い店内を、一目散に出口に向かって行く。
俺も慌てて、彼女の後を追った。伝票を掴んで、財布から千円札を取り出しながら。
「釣りはいらないんで!」
「お、お客様!」
ウエイトレスの静止の声も聞かず、店を飛び出した。すぐに彼女は見つかった。雨はまた強くなっていた。窓際の席じゃなかったから気が付かなかった。土砂降りの中、その背中が、どんどんどんどん遠くなっていく――
「待ってくれ!」
大声を出して、雨なんか構わず俺も走り出した。ただただ、彼女のことを追う。なぜそうしたのかは自分にもわからない。でも、そうしなきゃいけないって思った。
「来ないで!」
彼女はぴたりと足を止める。そのまま振り返らずに叫んだ。
その剣幕に、俺も少し手前で立ち止まる。大粒の雨が空から俺たちに襲い掛かっていた。
「どうしたんだよ、いきなり」
「好きって言ってくれたの、嬉しかった。でも無理だよ。わたしは、もう昔みたいにはなれない」
そこで俺は気が付いた。彼女は、俺が昔の彼女――きっちりが好きなんだって誤解していることに。
だけど、違う。今の彼女だって好きだ。あの人懐っこい笑顔、意味深な言動、意外と一生懸命なところ、時折見せる真剣な仕草。彼女の想いを知ってなお愛しくなった。
「そんなことどうでもいいよ。智里は智里だろ? だったら、それでいい」
二人きりの時に、彼女の名前を口にしたのは初めてだと思う。誰かの前でするような形式的な使い方じゃない。それは、愛しい想いを込めた真摯な呼びかけだった。
こちらの想いが伝わったのか、彼女はゆっくりとこちらを向いた。その顔がぐしゃぐしゃになっているのは、きっと雨のせいだけではないだろう。
俺は傘を差した。少し大きめの傘は、二人が寄り添えば完全に雨を遮断してくれた。
胸元に抱き寄せる彼女のほのかな体温を感じる。ぴたりと彼女が耳を俺の首元にくっつける。
「俺は別にお前の真面目さが好きになったんじゃない。智里、っていう一個人全てが好きなんだ。見た目も性格も、全部」
「い、言ってて恥ずかしくない……?」
「全然。それとも一つずつ挙げていこうか?」
「ごめんなさい、わたしの方が恥ずかしくなるから」
彼女の顔は真っ赤になっていた。
直ぐ近くを車が何台も通過していく。さすが、巨大な幹線道路。もう真っ暗だというのに、車通りは絶えない。
そんな益体もないことを考える程に、俺たちの間には静謐な時間が流れていた。抱き合ったまま、どちらも言葉を発さない。
「――こんなわたしでもいいですか?」
「ああ、もちろんだ。ただ、無断欠席と遅刻は止めような」
「大翔くんが迎えに来てくれれば、しないよ」
その笑顔はどこまでも無邪気なものだった。
どちらともなく、唇を重ねた。その柔らかな感触を、俺は決して忘れはしないだろう――
他にやりようがあった気もしますが、満足していただければ……!
次話以降はちょっと未定な部分が多いですね……。
明日、投稿する予定ではいますが。




