第二十九話 雨の慕情
翌朝。目覚めは今までの人生で一番と言っていいぐらい酷かった。睡眠が浅かったせいか、瞼が重く、頭がボーっとする。
昨日はあの後、真直ぐには家に帰らず不破の家に向かった。ちゃんと今の気持ちを伝えようと、そう思って。しかし、その扉が開くことはなかった。何度呼び鈴を押しても、何度扉を叩いても。そのうちに暗くなってしまったので、忸怩たる思いで帰宅した。
もちろんその間も含めて、繰り返しメッセージを送ってみたものの、ブロックされたらしく既読はつかず。電話番号も知らないので、完全に彼女に連絡をする手段は断たれたことに。
顔を洗い終えて洗面所を出る。そのままリビングで朝食を取った。母さんとの会話は上の空でこなしつつ。こんなに味のしない食事は久しぶりだった。
食べ終えると、そのまま母お手製の弁当を持って廊下へ。……正直かなり気が重かった。『大丈夫?』という言葉を昨晩から何度かけられたことか。
「にい、今日もともおねえちゃんのとこ?」
いつものように、妹の部屋のドアが開いた。眠そうな顔を突き出してくる。こうして俺の朝が早くなってからも、しっかり俺が家を出る時間には目が覚めるらしい。素直にすごいと思う
「……ああ、まあな」
一瞥してすぐに視線を前に戻す。こういう時紐靴はめんどくさい。
「元気ないね。どうかしたの?」
「よくわかるな。色々とあるんだよ、俺にも――行ってきます」
「いってらっしゃーい」
間延びはしているけれど、優しい声色だった。
背中でそれを受け止めながら、扉を後ろ手で閉めた。マンションの通路の窓から見える空模様は最悪。土砂降り。大粒の雨が、天から地へこれでもかと言わんばかりに流れ落ちている。
スマホでバスの時刻を確認した。丁度いい時間のバスを一本見つけた。それに乗ろう。とりあえず、再び玄関を開けて、さっと傘を一本手に取る。
そのままエレベーターで下に降りた。重厚な駆動音が酷く煩わしい。エントランスを抜けて、屋根の下から外の様子をちょっと窺う。
(本当にすごい降り方だな、この世の終わりみたいだ)
そんな益体もないことを考えて、傘をさして歩き出す。黒い少し大きめの傘。滴り落ちてくる雫に気を付けながらバス停へ。ポツポツと雨粒がぶつかる音が耳障りで、その度に気が滅入ってくる。
まもなくバスはやって来た。終点は近くの駅。それなりの込み具合。座る場所がないので、仕方なく適当なところに立つ。つり革を掴みながら、バスの揺れに身を任せる。目の前のガラスには水滴がびっしりだ。時折、酷くしんどそうな顔をした誰かが映る。
ようやく、目的のバス停についた。降りたのは俺一人。入れ替わるようにして数人が乗り込む。それが住宅街たる証左でもあった。
雨にけぶるそのアパートはいつもよりも不気味に見えた。近寄りがたい雰囲気が漂っている。そう感じるのは、偏に俺のせいなんだろう。
それでも、鉄でできた少しさびの目立つ階段をゆっくり上っていく。真直ぐに彼女の家を目指す。扉の前に来た時、俺は流石に躊躇を覚えた。
ここまで、ほぼ流れるように来てしまったが、果たしてそれは良かったのだろうか。ただの迷惑、鬱陶しいだけの行為。ただの自己満足で、欺瞞で、偽善。
いっそのこと、やめてしまえばいい。不破はただの不真面目なクラスメイト。きっちりとは再会しなかった。そう考えればいつも通りだ。何もない、中学時代と変わらない学生生活が待っている。淡い恋心はまた霧箱の中にでも入れとけばいいさ。
しかし――
「はーい」
ガチャ。インターホンを鳴らしたら、扉は開いた。その声の主は俺の求める人ではなかったけれど。
彼女は怪訝そうな目を俺に向けた。まるで、初めてここに来た日に戻った気分だ。あの時と違うのは、俺を認識しても、その顔が晴れないこと。眉がへの字になり、困った表情になった。
「……おはよう、大翔くん」
「おはようございます、おばさん。あの、智里は――」
「しっ! 静かに。あの子に、『もし真柴君が来ても通さなくていいから、お母さん』ってきつく言われてるのよ」
慌てた様子で、おばさんは自分の唇に人差し指を当てた。さっきよりもちょっと声が大きい。そんなんじゃ、不破に聞こえるんじゃないだろうか。
「は、はあ。そうなんですか。でも、俺、彼女に用事があるんですけど」
「うーん、そうでしょうね。……ねえ、何があったの?」
「彼女からは何も聞いてないんですか?」
「ええ。いきなり前みたいな、冷めた――って、大翔くんにはわかんないか」
一瞬、はっとした顔をしたものの、すぐにまた思案する表情に戻る。何かを必死に考えているらしい。そして、やがてため息をついた。
「上がっていいわ。ただし、智里のことはそっとしておいてあげて。たぶん、今はダメな時だから」
そう言うと、おばさんは扉を大きく開けてくれた。お邪魔します、小声で言って俺は部屋の中に入った。
*
リビングの中でも、はっきりと外の雨音は聞こえていた。きっと、物音が一つもないからだろう。完全に静寂。いつものように、テレビすらつけていない。
寒かったでしょう、とおばさんはコーヒーを淹れてくれた。そして、そのままソファに並んで座った。低いテーブルの上では、カップが湯気を上げている。
「あの子がああいう風になったのはね、私たち親の――私のせいなのよ」
唐突に叔母さんが話し始めた。
「中学二年生になった頃かしら、いきなり髪を染めてきてね。それから、学校も遅刻したり、サボったり。それに前後して、私たち夫婦も揉めていてね、色々とストレスがかかっていたのかもしれない」
元々、不破は中学受験をするつもりだったという。そんなこと、今の今まで知らなかったが。おばさんは、彼女を医者にしたかったらしい。そうでなくても、なるべくいい大学に行ってもらいたかった。
しかし、彼女が進学したのは地元の中学。成績を落とさない、塾に通う、その二つの約束を守ることが条件だった。
一年間はうまくいっていたらしい。不破もずっと学年一位を死守して、実力テストも文句なし。少なくとも、おばさんには何一つ問題なくうまくいっているように見えた。
「私はたぶんずっと幻想を見ていたのよ。そんなの母親として失格だけどね。着実に家庭が壊れて行ってることに気が付かなかった」
不破のお父さんは、自分の妻が娘に厳しくし過ぎじゃないか、と前から思ってたらしい。それで度々言い争いに。娘の変貌をきっかけに大喧嘩。それで、彼女が中二の六月、愛想をつかして出て行った。
「今でもね、わからないのよ。智里が私と一緒にいてくれる理由。あの人が、本当は引き取るはずだったのに。それ以来、私はちゃんと娘に向き合おうとした。でも遅かった。だから、傍で見守ることにした。どうしようもなくなった時以外は、あの子の意思を尊重しようと、そう思った」
そして、今の不破智里になった。
隣から、かたりとカップを持ち上げる音が聞こえてくる。
「……でもどうしてそんな話を俺に?」
何か言わなきゃと思って、ようやく捻り出せたのはそんなありきたりな疑問だった。
「なんでかしら? きっとあなたが智里と真面目に付き合ってくれてるかしらね。それは私ができなかったこと。それに、あの子本当にあなたのことを大事に思ってるから。久しぶりにね、あの子が嬉しそうに私に教えてくれた。『明日、大翔くんが迎えに来てくれるから』って、小学校の時のアルバムまで持ってきて、この子だよ、って」
横目に見るその顔は本当に嬉しがっているようだった。目をぐっと細めて、口角を少し緩めて。視線はただじっと前に向けられている。
「あなたがずっとあの子の側にいたらってそう思うわ。中一の初めの頃とか、本当に凹んでいたからあの子」
どうだろう……たぶん、俺には何もできなかったと思う。むしろ、変貌を目の当たりにして引いていたかも。あるいは多くの男子中学生がするように、同じ小学校の女子から離れていったかもしれない。
だから、そんな仮定は無意味だ。俺も散々、そんなことを昨日考えた。過去は変えられないが、未来は変えられる。いい言葉と思う。そのために俺は来た。
おばさんの話は色々と衝撃的だった。たぶん実際に経験した彼らは、俺が感じているのとは比べ物にならない程の感情を抱いたのだろうけど。俺はそれをごくわずかにしか想像できない。
俺が見ていたきっちりも、不破も、智里という女の子の一部分だって、ようやく思い知った。戸惑うことは何一つなかった。俺がやるべきだったことは『おっ、きっちりじゃん、久しぶり!』って、昔のように明るく声をかけることだったんだ。
「あの、一応不破に声をかけても?」
「……ええ。むしろお願いするわ」
リビングを出て、彼女の部屋の前で立ち止まる。
「きっちり、大翔だけど、話しできないか?」
しかし返ってくる言葉ない。物音もしない。寝ているのかもしれない。普段なら、強引に起こすところだが、今日はそんなことできない。
「智里! せっかく大翔くんが――」
「いいんです、おばさん。……また来るからな」
扉に駆け寄ろうとする彼女を俺は手で制した。わからないことだらけだけれど、力づくが一番ふさわしくない、ってことだけはわかる。
不破のお母さんにしっかりとお辞儀をして、俺は彼女の家を出発した。雨が心なしか弱くなった気がする。とぼとぼと、俺はバス停に向けて歩き出すのだった――




