第二十五話 成績向上作戦 そのはち
「ごめんねぇ、ほんと毎朝、毎朝」
激動の週末が終わって三日後の水曜日の朝。幸いにも、天候は曇り。それでも自転車には乗れたので、快適に不破宅にはやってこれた。
ここに来るのは、もう毎朝の日課になっていた。まだまだ独り立ちには早い、毎朝寝起きのぼんやりとした姿を見ていたら不安になって仕方がなかった。
今朝もまた、彼女を目覚めさせるのには苦労した。まあしかし、一度意識が覚醒してしまえば後はこっちのもの。例のガムを食べさせて、眠気をぶっ壊した……いずれ効かなくなるかもしれないと思うと、こればっかりにも頼っていられないけど。
今は、彼女の母親と二人リビングにて着替え終わるのを待っていた。ちょっと、いやかなり気まずい。俺はソファでぼんやりとテレビを眺め、おばさんは台所で何やら作業中。
「勉強の面倒も見てもらってるとかで。本当にありがとう、助かるわぁ」
「いえ、気にしないでください。好きでやってることなんで」
「あら、やっぱり二人はそういう関係なのね!」
背後から聞こえていた作業音がぴたっとやんだ。続けざまに、おばさんの顔がすぐ真横に現れる。彼女はソファの背もたれから身を乗り出していた。その瞳は好奇の色で満ちている。
いったいなんだというんだろう。俺たちがそういう関係って――
「はい?」
理解が追い付かずに、素っ頓狂な声を上げた。
「だって、今、好きだって――」
「そ、それは、こうして世話を焼くことがって意味ですよ!」
ようやくこの人の言わんとすることがわかって、慌てて火消しにかかった。
全くあの子にして親ありってやつだな。本来は逆だけど、俺がよく知っているのは、娘さんの方なのでシチュエーション的には問題ないだろう。
とにかく、こういう人を揶揄うようなところはそっくりというか……。いや、おばさんの場合、本気で俺たちが恋人同士とか思ってるのかもしれないが。
「あら、そういうこと。じゃあ、二人は付き合ってないんだ」
「ただの友達です!」
「実際のところ、娘のことどう思っているのかしら、大翔くん?」
「い、いや、それは、その……」
「うふふ、照れちゃって、可愛いわねぇ」
とても微笑まし気にほおを緩めると、おばさんはソファから離れた。その姿が台所に向かう。
どうやら、揶揄われたらしい。やっぱり、あの子にしてこの親あり、じゃないか。親子揃って、人の心を弄ばないでいただきたい。とは思ったものの、それを口に出すことが憚られ、とりあえず視線をテレビの方に戻した。
「本当はね、母親のわたしが何とかしないといけないんだけど。あの子、わたしの言うことなんて聞かないから。反抗期ってやつね。きっと」
何と言っていいかわからず、黙って俺はおばさんの話に耳を傾けた。内容に反して、まるで世間話でもしているかのような軽い口調。
「あの子に付き合うの、結構大変でしょ? ずいぶんとひねくれものになっちゃったから」
「……いえ、そんなことは」
「友達の前だと違うのかしら。それとも、相手が大翔くんだからかな」
ぽつりと漏れたその呟きに、俺はまたしても返す言葉が見つからない。それはとても物憂げで、他人の俺がおいそれと足を踏み入れてはいけないと感じてしまったから。
訊きたいことは山ほどあった。デリカシーというものを持ち合わせていなければ、おそらく次々と言葉が口を出て行っただろう。
俺なんかよりも、おばさんの方が彼女の変化には敏感だったろうに。あんなに真面目だったのが、ここまでだらしなく、黒髪は茶色に染まり、中間テスト時点での成績も危うい。
うちだって、ユウが今の生活に落ち着くまでにかなり時間を要した。だからここに至るまでに、不破家には色々なことがあったのだと思う。あいつの一友達でしかない俺に、知る資格はない。
気が付けば、また無言の状態に戻っていた。物音はすれども、会話はない。ひたすらに息苦しい。早く不破が来て欲しい、心から切に願う。
――申し訳なさそうな顔をした彼女がリビングに姿を見せたのは、それから数分後の出来事だった。
*
放課後、テストまで時間が迫ってきたからか。残る生徒の数も増えてきた。俺、不破、河崎と言う窓際後方連合(不破命名)にも新たな仲間が加わった。
河崎の友人である戸田。俺も二言三言話したことがある。軽音部の見た目はチャラそうなやつだったが、中身は明るくていい奴。
「耕太ってそんなに勉強頑張るやつだったっけ?」
「その言葉バットでそっくりそのままお前に打ち返してやる」
「じゃあグローブで捕球するわ……俺はあれだよ、ちょっと成績がやばいんだよ。でも耕太はそうじゃないじゃん」
「俺にだって向上心くらいあるってことさ」
というような流れで、戸田は参戦した。数学がやばいらしい。
そして、もう一人綾川。不破の友人というか、顔見知りというか。綾川は友達だといっていたら、不破はただのクラスメイトと言っていた。不破以上に明るくておちゃらけたタイプの女子。転校初日に、話した記憶が微かにあった。
「いやー、不破ちゃんがこんなせこせこと勉強してるなんてねー」
「そりゃそうよ、高校生だもん。当たり前でしょ?」
「なに、もっともらしいこと言っちゃってんのよ! 咲と不破ちゃんは、このクラスの逆ワンツーコンビじゃん!」
そして、綾川はこんな感じ。楽しそうに話す彼女と、ややけだるげに話を聞く不破の対照的な姿が少し面白かった。今日は英語をやるぞーと、張り切ってた。
俺たちは廊下側の後列に陣取っていた。教える役はもっぱら俺。時には、河崎も手助けしてくれるけど。新参者と不破は教わる方。
「おーい、真柴。ここどうやるんだ?」
「ここはほら、余弦定理を……辺をxと置いて使って」
「ふむふむ、なるほど。このまま式をいじって――」
戸田の疑問に対応していたら、今度は綾川からお呼びがかかる、
「ましばっちー、これなんでこんな訳になるの?」
「このItは形式主語で、主語はこっちの不定詞の方で……」
「ケーシキシュゴ?」
「端的に言えば、訳さなくていいんだ、これは」
「あ、だから、それって部分がないんだねー」
と、まあこんな調子。幸いなのは、河崎からの質問が殆どないことと、不破が黙々と自力でワークを進めていることだろうか。二人とも、ここ数日でかなり仕上がってきた。
「いやー真柴って、勉強できんだな。もっと早く知りたかったぜ」
「お前それ、宿題写させてもらう気だろ?」
「ハハハ、勘の鋭い奴は嫌いだよ」
調子のいい奴だな、戸田は。まあ嫌いじゃない感じのノリだから別にいいんだけど。解き方は問題だが、計算力はあまり問題ない。
「不破ちゃんって、勉強できる子がタイプだったんだねー」
「はい? なんなに、いきなり? 咲、わけわかんないこと言わないでよね!」
「だって、こんな真面目な不破ちゃん見たことないから」
「あきれた、留年が懸かってたらね、あたしだって頑張るよ。咲も一緒でしょ」
相性が悪いのか、いつもの不破の姿はどこにもない。いいように、綾川に揶揄われている。俺に火の粉が降りかからないので、傍観しているけれど。なお、勉強の出来具合は同じくらい。
こうして放課後友達とわいわい勉強するなんて、考えたこともなかった。今まで積極的に人と関わることはしてこなかった。中学の時は、最初で躓いて、前の高校の時はそれを引きずって。それが今、不破に絡むことを始めたら、いつの間にかこんなことになっていた。
まだそわそわしているけれど、結構楽しい。充実した青春とはこういうことを言うのかもしれない。
「悪いな、真柴。手間かけて」
「いや、河崎が謝る様なことじゃ……」
「そうだぞ、耕太。それは俺のセリフだ」
「なんで偉そうなのさ……」
「大翔くん、あたしもごめんね、咲が……」
「ほら、やっぱり! 不破ちゃんが男子を名前で呼ぶなんてめずら――」
「もう! さっきからうるさいわよ、咲!」
不破は怒鳴り声を上げると、乱暴に自分のペットボトルを掴んだ。だが、中身は空。直ぐに気付いたらしい。少しぐっと眉間に皺を寄せると財布を手に立ち上がる。
「あたし、購買行ってくるね」
「ああ。行ってらっしゃい」
そして、不破は一人教室を出て行った。
残された俺たちは、また静かに勉強に戻る。似たような集団がいくつかあるので、いつまでもお喋りをしているわけにはいかない。目的はあくまでも勉強、だ。
しかし――
「ねえ、ましばっちはさ、不破ちゃんのことどう思ってるわけ?」
一心にペンを動かしていると、綾川がとんでもないことを俺に尋ねてきた――




