第二十四話 成績向上作戦 そのなな
「ふぅ。今日もこんなもんかな」
「だねー。お疲れ、大翔くん。いつもありがとー」
顔をくしゃっとして、無邪気な笑みを浮かべる不破。さすがに人の家だからか、机に突っ伏すような真似は無礼だと弁えているらしい。その辺り、闇堕ちしたとはいえ、かつてきっちりと呼ばれただけのことはある。
十八時時前……真柴家の晩飯の時間まであと一時間。今朝の母親の言葉を信じるのなら、そろそろ夫妻が帰ってきてもおかしくない。
妹には目撃されてしまったものの、それをあえて話すような子じゃない。俺が避けるべきは、目撃される事態。さっさと返すのが吉だ。
「化学基礎は問題なさそうだな」
「そうかな~?」
「おいおい、不安にさせるような反応しないでくれます?」
「アハハ、ごめんごめん。でも、大翔くんが言うなら大丈夫でしょ~、きっと」
「どことなく他人事なのが気になるんだけど……」
とにかく残りは物理と英語と数学Aか。ずいぶんと重たいものを残してしまったものだ。……古文については、活用表と和訳を覚えてもらうよう伝えた。本人は自信満々に頷いていたが、大丈夫だろうか。
「じゃあほら帰る準備を――」
「えー、もう少しいいじゃん! それとも、大翔くんはあたしなんかには早く帰って欲しいのかなー?」
悪戯っぽく微笑えみかけてくる不破。その瞳はキラキラと輝いている。……不純な感じに。
「いや、そろそろ親が帰ってくるから……」
「それならなおさら待たせてもらおう! ただでさえ、毎日お世話になってるんだから、ご挨拶しなければ!」
「……本当に心からそう思ってる?」
「えへへ」
かわいらしく笑ってごまかそうとするのが透けて見えた。俺は眉間に皺を寄せる。お前の考えてなんてお見通しだぞ、と目線で主張する。
「はいはいわかりましたよー。帰ればいいんでしょー」
「そういう態度を取られると、なんだか悪い気が……」
「じゃあのこ――」
「お帰り頂いて結構でございますお客様」
早口で捲し立てた。最大限の敬意を込めながら。伝われば幸いなのだが。
不破は口をへの字に曲げると、ふん、とひとつ鼻を鳴らした。そのまま不機嫌そうにのろのろと片づけを始めていく。
「そんなにあたしの存在をひた隠しにしたいんなら仕方ないなー。まあ、気持ちはわかるよ。親のいない家に、クラスメイトの女の子を連れ込むなんて、背徳感でいっぱいだもんねー」
流し目でくすりと笑うその姿は魅惑的。いうなれば、これが小悪魔風というやつなのかもしれない。事実、ドキッとして俺は思わず言葉を失った。
リビングに静寂が訪れる。テレビからは、国民的アニメの音声が流れている。チャンネルを変えるの忘れてた。今のこの雰囲気にはひどく不釣り合い。
「どう? ちょっとはあたしのこと、意識した?」
長い沈黙の後、彼女は挑発するように首を傾げた。
「い、意識って……」
意味深な言葉をかけられて、俺は再び言葉に詰まる。せいぜいできたのは、彼女の言葉の真意を探るように繰り返すことだけ。
結局はまたしても沈黙を打ち破るのは不破の方だった。アハハと、少し大きな笑い声をあげて彼女は顔を強張らせた。そのまま、にやついた笑顔が残る。
すっかり彼女のペースに乗せられてる気がした。さっきまで、少しは対応できるようになったかなと思ってたのは大きな間違いだったと気づかされる。
「イジワルし過ぎたね。だって、大翔くん、あんまりにもあたしを早く帰そうとするから」
「いや、それは悪かったとは思ってるけどさ。やっぱり、その気まずいというか……」
「そうなのかな。うちの親はなんともないけど」
「……それは、人それぞれってやつじゃないかな」
「そっかぁ、人それぞれか~。ふふっ、いい言葉だね」
彼女は完全に荷物を纏め終わると、立ち上がった。そのまま俺のことを見下ろしてくる。
やや虚を突かれながら、俺も席を立った。
無言のまま、まず先に彼女が動き出した。俺もその後に続く。リビングを出て玄関へ。そして、彼女がくるりと振り向いた。
「ここまででいいよ」
「いや、下まで――」
「いいの!」
最後ににっこりとほほ笑むと、彼女は素早く靴を履いた。そのまま扉を押し開ける。顔だけこちらに回して――
「また明日の朝ね、大翔くん」
俺が返事をする暇もなく、不破は去っていった。ぽつんと一人取り残された俺は、ぼんやりと鉄の扉をしばらく眺めていた。
*
食後ベッドの上でゴロゴロしていると、誰かがドアをノックした。
「にい、ちょっといい?」
「ああ」
短く返事をすると、ユウは躊躇いがちに扉を開いて中に入ってきた。日頃テンションが高いとは、とてもいえない妹だが、今はそれに輪をかけて元気がないみたいだった。
俺は携帯ゲームを閉じると、ゆっくりと身体を起こした。そのままベッドの縁に腰かける。
「何か用か?」
「うん」
妹はもじもじとしながら答えた。しかし、そのまま黙り込んでしまう。
「どうした?」
「あのね、ともりおねえちゃんのことなんだけど……」
「ああ。とりあえず、座ったらどうだ?」
俺は学習机の椅子をちらりと見た。それ使えよ、という風に顎をしゃくる。
ユウはのろのろと動き出した。椅子を引くとちょこんと腰を下ろす。
妹がこの部屋に来るのは珍しい。一緒にゲームをするときは、決まってそっちの部屋だった。俺たちがそれぞれ据え置き機を有しているわけでなく、彼女のところにまとめてあるからだ。
「ユウのこと話した?」
「なんで?」
「いや、その……」
「話すわけないだろ。その必要もないし」
「そっか」
彼女はちょっとだけ安堵したような表情を浮かべた。夕食の時も、どこか元気がないな、と思ったがなるほどこれを気にしていたのか。ようやく納得がいった。
仮に、妹は学校不登校気味で部屋に籠って小説ばっか書いてる。という事実を伝えたところで、不破が嫌悪したりはしないと思うが。ちょっとびっくりはするだろうけど。
「ともりおねえちゃん、だいぶ変わったよね。最初、わかんなかった」
「俺もさ。智里さ、昼休みにいきなり来てさ――」
そのまま、俺は不破との衝撃の出会いを面白おかしく話した。ユウは時には笑いながらしっかり聞いてくれた。
なんだか不思議な気分だった。妹とこうして共通の知り合いの話で盛り上がるなんて。だいたい、話題といえば、ゲームとか漫画とかアニメとか、そういう趣味関連の話が多い。
「ふーん、あのともりおねえちゃんが……」
「そんなに仲良かったのか、お前ら?」
「うん。たまに一緒に帰ってもらったりしたから。なんだか、ほんとのおねえちゃんみたいで」
彼女は嬉しそうにはにかんで笑った。
「それ、本人に直接言ってやれよ。きっと喜ぶぞ」
一瞬びくりとすると、そのまま固まってしまうユウ。激しくまばたきを繰り返す。その後、暗い表情をして俯いてしまった。
「……無理だよ。今のユウのこと知ったら幻滅する」
「そんな奴じゃないと思うけどな。見た目は、いや中身もか。だいぶ変わったと思うけど、芯の部分で昔のきっちりは残ってる」
「きっちり?」
「……なんでもない。とにかく、智里は別にお前のこと嫌ったりしないってことは確かだ」
つい昔のあだ名を口にしてしまい、ぶっきらぼうな口調になってしまった。
「……次はいつ来るかな?」
「それはわからん」
俺は頬を緩めて、おどけた感じに肩を竦めた。テストまでに、一応週末はあと二回ほどあるが。どうなるのかは、不破次第。
ユウは残念そうに微笑した。でもちょっと元気は出たみたい。部屋に入ってきた時の、暗い雰囲気はもうどこにもない。
「あれだったら、今から連絡しようか?」
「ううん。次の機会でいい」
彼女は素早く首を左右に振った。そのままポンと立ち上がると、部屋を出て行こうとする。
「――にいとともりおねえちゃんって、付き合ってるの?」
悪戯っぽく笑うと、そのままあいつは扉の奥に消えた。
「おい待て、ユウ!」
その後、慌てて追いかけて丁寧に今の関係を説明したことは言うまでもない。ただ、わかってくれたかはあんまり自信ないけれど。
あいつ、いきなりとんでもないことをぶっこんできやがって……俺と不破が付き合ってる? ただの友達だ。そりゃ、昔はちょっといいかなと思ったり、思わなかったり――その後部屋に戻って、ベッドでのたうち回る羽目になるのだった。




