第二十三話 成績向上作戦 そのろく
二人だけのリビングにはゆったりとした時間が流れていた。ペンがルーズリーフを撫でる音はテレビのスピーカーからの音にかき消される。視界の端では、ライトブラウンの髪の毛がさらさらと揺れている。
とりあえず化学を進めてもらっていた。正直今やっている部分は数学……というか、算数か。やたら滅多ら計算が多いだけ。公式と割合の話が理解できていれば、わりかし理解しやすい。
だからだろうか。非常にすらすらと、不破のシャーペンは動いていた。小六の時、彼女がいの一番に割合の授業を理解していたことを思い出す。それどころか、クラスメイトに教え回っていたりもしたっけ。俺もその口だ。
「あー計算ってめんどうねー」
「でもミスもないし、速さも十分だ。昔からそうだったよな」
「そうだっけ? 忘れちゃった」
あはは、それはいつもの彼女の笑い方そのもの。もちろん、その時々の文脈によりその意味は変わるけども。でも大体は照れ隠しか、誤魔化しか。楽しいとか言って、そもそもの笑い自体の意味もある。
けれど、今はそのどれとも違った。どこか寂しそうな……空虚な感じがした。一瞬冷めた目をしたような……思い違いかもしれない。今は、いつものどこかけだるげな感じだし。
時々、彼女のことがよくわからなくなる。吉津智里と不破智里は違う。正反対と言ってもいいくらいに。それでも同一人物ではあるのだから、その残滓は所々に見て取れた。今の計算能力のように。
あの頃の真面目で淑やかという言葉がよく似合う彼女と、今のちょっとちょっとだらしなくて人をよく揶揄うお茶目な彼女。そのギャップとリンクする部分。そのせいで、本当の彼女の姿がいまいち見えてこない。
「なに? あたしに見惚れちゃった?」
「……ちょっと考え事を。ほら、文句言ってないで、次進めて」
「大翔くんって、意外とナポリタンだよねー」
あまりにもつまらなすぎるボケだったのでスルー。数学の問題に、全ての意識を向ける。
「ナ・ポ・リ・タ・ン! だよね?」
「うるさいなぁ、そんな耳元で大声で叫ばなくても聞こえてるって」
「あーあ、あんなに純粋無垢な大翔くんもすっかりスレちゃった。時の流れは残酷ですね~」
「その言葉そっくりそのまま君に返すよ」
「いらないから受け取って!」
「はいはい、ありがとうございますー」
「どういたしまして!」
なんだこのやり取り。どうして、スパルタンとナポリタンの取り違いボケがここまで進化したんだ。何とかモンもびっくりの邪悪進化だ。
またしても、リビングに平穏が戻ってくる。これもまた、不破智里の人となりをわからなくする原因でもある。四六時中ぐーたらしてるわけじゃなく、しっかりとスイッチの切り替えはできている……学校の授業でのことは置いておこう。
やり始めれば、基本的にはスムーズにいくのだ、この子は。俺がやっているのは、わからない所の手助け。それも数学の時と比べれば、その量は格段に少ないので、かなり楽である。
とまあ、そんなことを考えながら、機械的に数学の問題を処理していると――
バタン。リビングの扉が開け閉めされる音が聞こえてきた。母さんたちではない。もしそうであれば、玄関のところで騒がしくなるからわかる。
となれば――
「あっ」
その主はユウだった。その姿は現れた途端に、通路に引っ込んだ。とても素早い身のこなしだった。リビングに俺たちがいるとは思わなかったらしい。
「優佳ちゃん?」
俺が妹に呼びかけるよりも先に、不破が声を出した。彼女もまた俺と同じ方向を見ていた。その瞳にばっちりと、リビングへの侵入者の姿が映ったらしい。
一気に静まり返る室内。ユウの出て行く音はしてないから、まだ扉の辺りにいるのかもしれない。
「あたし、ええと智里――吉津智里。覚えてないかな?」
「ともおねえちゃん?」
恐る恐ると言った感じで、ユウは首だけリビングに突き出してきた。しっかりと、こちらに顔を向けている。不安そうな眼差しで、不破のことを見ている。
「そう。ともおねえちゃん!」
えへん、と胸を張ってみせる不破。なぜに自慢げなんだ。そもそも、『ともおねえちゃん』とは。
「……ほんと?」
「ユウ。気持ちはわかるが、本当だ」
「ちょっとそれ、どういう意味かな、大翔くん?」
彼女は俺には引き攣った笑顔を向けた。目が笑っていない。そのまま、ぐーっと顔を近づけてくる。
俺はぶんぶんと小刻みに首を左右に振った。ちょっとだけ恐怖を感じた。
やがて、ユウはリビングに姿を現した。水玉模様の紺色のワンピースを身に着けている。お気に入りの格好らしい。彼女は似たようなものをいくつか持っている。
その顔には、まだ微妙に緊張の色が残っていた。リビングに入ってすぐのところで、静かに立ち尽くしている。
「久しぶりね、優佳ちゃん。当たり前だけど、大きくなったね~」
「う、うん……」
「もしかして緊張してる? うふふ、そうだよね。久しぶりだものね」
優しく笑いかけるその姿は、いつものどこかふざけた感じとは違っていた。小学生の時みたいな、大人びた雰囲気を醸し出している。
「にいの今日来る友達って……」
「ああ、不破――智里のことだよ」
その名前をはっきりと口にするのはいつ以来だろう。少なくとも、それは三年以上前まで遡る。よほどのことがない限り、彼女のことはきっちりと呼んでいた。男連中はみんなそうしていたし、仲良くなってからも直すきっかけはなかった。
しかし、そのよほどの一つが、ユウの前だ。何かの時に一緒になって、なんかそのまま名前で呼ぶことになった。彼女のあだ名のバックボーンを共有していないこともあったからかも。
「そうだったんだ。じゃあもしかして、前言ってた小学校の時の友達って」
「そう、それも智里」
「なあに、大翔くん、おうちでわたしのこと話してるんだ」
とても柔らかい話し方。目を丸くして、揶揄っているのではなくて、少し驚いているよう。そして、どこか嬉しそう。
「ユウにはな。あのガムも、ユウのやつ」
「そうだったのね。ありがとう、助かってるよ」
「ううん。でも、朝弱いんだ、ともおねえちゃん。あんまり信じられないんだけど……」
「ちょっと色々あってねー」
軽い口調。本人はあまり気にしていないみたい。むしろ、俺の方がドキリとしてしまった。
「そんなことより、ユウ。何の用だ?」
「飲み物取りに来た」
「そっちの入口からはいればよかったのに」
「お気に入りのマグ、そっちに出しっぱ」
すると、妹は食卓の上を指さした。確かに、そこには持ち主がいなくなって久しいマグカップが置いてある。勉強の邪魔だから、こわきに避けていたが。
そのままこちらの方に近づいてくる。少しは緊張が緩んだらしい。
「こっちでやってたんだ」
「昼飯の時、勉強道具持ってきてただろ?」
「待ってるだけかと思ってたから」
「帰ってきた時気づかなかったのか……」
「ヘッドホンしてるから、物音にも気づかないし」
俺と話しながら、マグカップを持って冷蔵庫の前へ。その扉を開けると、中に入っていた紅茶のペットボトルを取り出した。コポコポと液体を注ぐ音が聞こえてくる。
「じゃあ、あの、ともおねえちゃんごゆっくり」
今度は台所の方を通って、リビングを出て行こうとする。
「はーい。またね、優佳ちゃん」
バタン。返事の代わりに扉の閉まる音がした。
「……なにか悪いことしたかな。怒ってなかった?」
「いや、あいつはいつもあんな感じだぞ?」
「昔はもっと明るくて元気いっぱいだったじゃない」
それは不破だってそうだろ、その言葉は心の中で吐き捨てることにした。
「というかさ、なんだ、ともおねえちゃんって? そんな呼ばれ方してたっけ?」
「ふっふっふ、教育したからね~」
「人の妹に変なことをしないでくれ。全くいつの間にそんなことを……」
「たまーに、帰り道一緒になったんだよ。委員会のないとき」
それは初耳だった。確かに、家の方面は同じだからそういうこともあるかもしれない。登校の時は、妹と大体一緒だったが、さすがに下校はそうではなかった。男連中と遊んで帰ることの方が多かった。
「昔もよく懐いていて可愛かったけど、今のちょっとダウナーな感じもいいな~。ほら、あたし、兄妹いないから、ほんとの妹みたいに思ってたんだよ」
ふふ、と懐かしそうに笑みをこぼすきっちり。
俺はその姿に、少し見入ってしまっていた。そこには確かに、きっちりがいた。黒髪ポニーテルの少女がそこにはいたんだ。
「あ、大翔くんは弟ね?」
「待て、同い年だろ、俺たち!」
彼女の悪戯っぽい笑い声が、二人きりのリビングによく響いた――




