第二十一話 成績向上作戦 そのよん
「さて、そろそろいい時間かもな」
俺がそう言うと、不破は待ってましたと言わんばかりに満面の笑みを浮かべた。そして手を止めると、勢いよく机に突っ伏す。
最後の問題もあっていたから、俺は特にその行動を咎めるつもりはなかった。とても疲れているのは見ててわかっていたし。
「ふぅ~、やっと終わった~。よく頑張った、あたし!」
彼女は心の底からの叫びをあげると、そのままピクリともしなくなった。その明るい茶髪がテーブルの上に広がって、蛍光灯の下で煌めく。
「こいつがここまで集中力が持つとは知らなかったぜ」
「俺もだよ。学校の授業もこうだったらいいんだけどさ」
俺と河崎はお互いに苦笑しあった。彼はおまけに肩を竦めて、あきれきった眼差しを未だ不動の少女に送る。
占めて四時間くらいだろうか。適度な休憩を挟みつつも、ほぼぶっ通し。不破はよく頑張ったと思う。
そして一つ思うのは、もともとやればできたんじゃないか、ということ。躓くことは多々あれど、実際授業をちゃんと聞いていれば、彼女なら自力で問題を解決できた節がある。
まあそれはあくまでも俺の印象なので、本当のところは彼女しか知らない。高校レベルの勉強についていけなくなって、というのは確かな事実。
それに数学しか教えないから、もしかしたら残る科目の中にヤバい奴がいるかもしれない。楽しみやら、恐ろしいやら、俺は複雑な気持ちになる。
俺はぐーっと身体を伸ばすと、片づけを始めた。長い一日が終わったという解放感と、彼女に数学を教え込むことができたという達成感が同時にやってくる。
窓の外の風景は薄暗くなっていた。ここから、自転車を十分程度漕がなければならないと思うと、少しだけ気分が重たくなる。
「おい、不破。俺たち、帰るぞ!」
河崎が強めに呼びかけると、ようやく彼女は蘇った。ゆっくりと上半身を起こす。そして眠気を払うように、彼女は大きく頭を振った。バサバサと揺れる髪。それを片手で雑にかき上げる。
ゆっくりと俺たちの方に顔を向けた。とても疲れ切ったご様子。少しぽわんとした雰囲気を漂わせて、朧げに俺たちを見ている。
「うん、お疲れ~。大翔くん、本当にありがとうね」
「ああ。復習忘れんなよ?」
「わかってるってば~。もう耳タコだよ」
彼女は少し眉間に皺を寄せると、げんなりしたように首を縦に振った。そして一つ大きく気を吸って吐く。
その言葉や態度に、俺は微妙な笑みを浮かべることしかできなかった。勉強中確かに念を押したのは事実である。今ここでできたことが、次ぎ会う時にできてなかったら悲しいからだ。もちろん、またわからなくなったということなら、何度でも説明するつもりだが。
「あ、そうだ。明日なんだけど」
「ちょっと待て、お前明日もやるつもりなのか?」
「え、違うの? ていうか、河崎は本当なら何の関係もないじゃない」
「……そういや、そうだな。成り行きってやつだよ、成り行き。俺も真柴に教えてもらいたいとこあったしな」
「それ、あたしには関係ないんですけど~」
半目で責めるように不破は友人の顔を睨んだ。その頬は少しだけ、ぷくーっと膨らんでいる。
あからさまな不満をぶつけられた彼はと言えば、まずい、というような顔でそっぽを向くだけ。不自然に頬から顎にかけてのラインを触っている。
「まあまあいいじゃない。俺は三人一緒で楽しかったよ」
「そう、いいこと言う! 俺たち、友達だろ?」
「な~にが、『俺たち、友達だろ?』よ! そんな胡散臭い笑い方までしちゃってさ~」
馬鹿にしたように、途中で彼女は河崎の口調をマネを挟めた。それっぽい感じながらも、誇張表現が面白くて、俺はつい口元を覆ってしまう。
しかし隠しきれず、河崎が勢いよくこちらに顔を向けてきた。目を細めて、唇を尖らせて、かなり不服そうである。
「真柴、笑ったな?」
「い、いや、ごめん……そんなことより、明日がどうかしたのか?」
「そんなことよりって……。あと謝るのは止めてくれ。軽く傷つく」
「河崎は黙ってて! 全くガラスのハートなんだから。そんなんだから、中三の時フラレて――」
「ストップ、ストーップ! 余計なことを言わなくていいから、不破!」
珍しく男の方が動揺していた。その顔はちょっと赤らんで、目を剥いている。さらに、呼吸がちょっと荒い。
中三の時にフラレた、ねえ……なかなか信じがたいものの、どうやら事実らしい。そりゃ、これだけ恥ずかしがるってものか。
「うっふっふ~、頼み方が違うんじゃないかしら? 正座をして、手をついて、その頭を深く床にこすりつける。そして『どうか黙っていてください、不破様!』でしょ?」
「だ、誰が言えるか、そんなこと!」
「そっ、じゃあ来週の月曜日を楽しみにしておくことね」
「てめえ、脅すつもりか?」
「さあ、どうでしょう~」
けらけらと本当に楽しそうに不破は笑ってる。優越感たっぷりの笑い方。目をぐっと細めて。
対して、葛藤を始める河崎。ギリギリと悔しそうに唇をかみしめている。逡巡するように、そのまなざしはせわしなく動いていた。
しばらく見守っていたい気分だけど、暗くなっていく外の様子がそれを許さない。助け舟を出してやるか。未だ、勝ち誇った感じの少女の方に顔を向ける。
「それくらいにしたら、不破?」
「大翔くんが言うならやめて差し上げましょう。あんた、よかったわね」
「どういうことだよ……。そもそもお前が発端なんだが」
「そうだったかしら? ――それでね、明日の話なんだけど、ママ、明日はお仕事お休みだから、うちはダメだよーって。でもま、やるつもりないんだったらいいよ。家でゴロゴ――自分で勉強しますから、オホホ」
取り繕ったような高笑い。その目は泳いでいる。落ち着かないのか、両手をこすり合わせたり手首をいじったり。このまま唇まで吹き出しそうな勢いだ。
どうやら勉強会をしないなら、明日は家でのんびりする算段だったらしい。テスト期間も含めれば、まだ二度週末があるんだから、一日くらいいいと思うけど。しかし、実際の企みがわかったとなると、話は別で――
「じゃあ、図書館とかでやる?」
「明日もやってくれるの?」
「まあね。やらなきゃ勉強しないだろ?」
「……うっ、そ、そんなことは。でもよかったぁ~。理科は心配だったんだよ~」
理科だけだろうか、とは突っ込めなかった。
「よくやるね~、真柴も」
「心配だからね、不破のことが」
「ううむ、それは喜ぶべきか、それとも悲しむべきか、あるいは怒るべきか……」
「なに馬鹿なこと言ってんだよ……」
「でもさ、図書館だとあんまりお喋りできなくない?」
確かにそれもそうか。教える時に不都合がありそうだな。流石に筆談ってわけにはいかないし。
かといって、俺にはそれ以外の場所の案は浮かばない。そもそも友達と勉強会だなんて、今日が初めての経験だった。図書館、という例は身近な創作物から引っ張ってきたものだ。
ううん……今度は俺が唸り声を上げる番だった。つくづく、自分が普通の学生生活を送ってこなかったんだな、と実感する。
「あっ! 大翔くんの家はどう? あたしだけ一方的に家庭訪問されたら、ふこーへーじゃない?」
「いや、家庭訪問って……全部不破から誘ってきたことだろ」
「そんな、誘うだなんて。あたしが、ふしだらな女みたいに言わないでよ~」
責めるような言葉を使ったくせに、その口調はひょうきんなもの。どちらかと言えば、俺を揶揄いたいのかも。
しかし、そんな態度は河崎とのやり取りを眺めた結果、少しは耐性がついた。そもそも誘ったという言葉のどこに問題があるかもわからない。
「無反応とは退屈~。まあ、いいわ。で、どうなの、大翔くん家は? とっても興味あるのだけれど~?」
「俺はいいけど。親に聞いてみないと。また、連絡するよ」
「は~い」
「俺はパスな。あとは、自分でなんとかできそう」
「わかった」
それで、俺たちは解散。外に出ると、少しだけ秋風が冷たく感じるのだった。
一人、薄暗い帰り道を自転車で走っていくことを思うと、少しだけ憂鬱になる。不破はちゃんと復習するかな。別れたばかりなのに、彼女のことが頭の片隅にずっと残っていた――




