第二十話 成績向上作戦 そのさん
アパートの敷地内が見えてくると、見覚えのある男が立っているのが目に入ってきた。自分の自転車のサドルにちょっと体重を預けてスマホをいじっている。
「おーっ、真柴。こんにちは」
彼の方も気が付いたらしい。ある程度近づくと、彼は顔をこちらに向けた。涼しげな笑みを浮かべて、軽く右手を上げる。
俺もそれに応じて、友人の自転車の横に自転車を止めた。かごに入れた小さめの鞄を持って、しっかりと鍵をかける。
お互いいつもとは違う私服姿だった。河崎はグレーのパーカーに青いジーンズというラフいでたち。右肩には大きめのトートバックを提げている。俺は青いシャツにベージュのパンツ。無難オブ無難である。
「……河崎、何してんだこんなところで」
「待ってたんだよ、お前のことを」
「どうして?」
「だって一人だと、入りづらくて」
気まずいって……何言ってんだか。二人は中学からの付き合いじゃないのか。その見た目に、本当に中身が釣り合っていないと思う。
昨日の放課後の不破からの申し出……思い付きにより、土曜日である今日もまた彼らと勉強会をすることになった。今は午後二時の五分前。『今日もママ、仕事だからうちはオッケーだよ』ということで、彼女の家がその会場に選ばれた。
とりあえず、彼を連れて階段を上る。そんな緊張することはないと思うんだけど……それは自分が来慣れているからだということに、不破家の家のドアの前に到達したときに気付いた。
いつものようにインターホンを鳴らす。
「はーい!」
不破の元気な声が中から聞こえて――
「いらっしゃい、大翔くん。後、オジャマ虫も」
おどけた表情をした彼女が現れた。俺はその姿に面食らっていた。恒例の制服姿でもなければ、もちろん、パジャマ姿でもない。
英字が入った黒のプリントTシャツ。その上に、紺色の薄いカーディガンみたいなものをぶかぶかに羽織り、下は白い太腿が強調された薄い水色のホットパンツ。そして素足。さらにいつもは下ろしているのに、前髪は上がって額があらわになっている。
普段よりも、かなり派手派手しい雰囲気を放っている。ドアを開ける姿勢が姿勢だけに、かなりきわどいところまで胸元が見えそうになってるし……。
「どしたの、二人とも。ぽかんとしちゃって」
「い、いや、別に。なあ真柴?」
「あ、ああ、そうだよ。中、入ってもいいかい?」
「それはもちろんですとも」
にっこりとほほ笑むと、彼女は大きく扉を開けて中に引っ込んだ。
気を取り直して、俺たちも中に。しかし、河崎もまた呆気に取られていたとは……おおよそ、俺と同じことを思ったのかもしれない
普段とは違う格好だから、その姿がとても新鮮に映った。それはまるで別人のようなそんな感じ。服装一つで、人間はそんなに印象を変えるんだということを、俺は初めて知った、というのは過言だろうか。
「どーせ、あれでしょ。あたしがちゃんと起きてんのが不思議だったんでしょ」
「いや、もう十四時だぞ? そんなこと、初めから思っちゃいないって」
「ほんとかな~。じゃあどうして二人してボーっとしてたの?」
「だからそんなことないって」
「そうそう。不破の気のせいだよ」
「そんなことないと思うけど」
取るに足らない話をしながら、彼女についていく。通されたのはリビングだった。
一昨日とは違って、ソファがちょっとキッチン側に移動している。机との間隔が広くなっていた。そこに二つ座布団が並んでいる。
その一方に彼女は座った。隣のもう一つをぽんぽんと叩きながら「大翔くん、こっちだよ」と呼びかけてくる。
「待て、俺は?」
「床の上に座って」
河崎に向けて話しているにしては、珍しく可愛らしい口調だった。
しかし、そんなことで彼の怒りは収まらない。眉間の皺は深いまま。ぐっと口元に力を入れているのがわかる。
「座布団!」
「ない!」
「お前座ってるじゃねえか!」
「これはあたしのだも~ん」
途端、じゃれ合いが始まる。俺はため息をつきながら、首を左右に振った。また始まってしまったか……なんともいえない思いが胸に湧き上がる。
「河崎、俺のとこ座っていいから……」
「そしたら今度は真柴の分が無くなるだろ」
「そうだよ、大翔くん。河崎になんか気を遣わなくていいから!」
「何だと!」
「いやあのさぁ、正直な話こんな座布団問答やってたら、時間もったいなくない?」
俺がうんざりしながら言うと、二人はともに申し訳なさそうな顔をした。露骨に目を逸らされる。
そして、不破は黙って席を立った。彼女が戻ってくる時に、座布団を手に持っていたのは言うまでもない……滅茶苦茶ボロボロだったけど。
*
「――凄いじゃないか、不破。全問正解だ」
「ほんと~! いやぁ、やればできる子なんだよ、あたしって」
「これまたわかりやすいように調子に乗ってるな……」
「まあ落ち込まれるよりはいいよ」
勉強開始から二時間ほど経った。ようやく三角比のテスト範囲部分は一通り扱い終わった。ということで、問題集からランダムに抜粋した自作のテストをやらせてみることにしたのである。
帰ってから復習したのか、サイン、コサイン、タンジェントの区別もしっかりついている。二日かかったものの、ようやく三角比の基礎は仕上がってきたらしい。少しは先が開けてきた……かもしれない。
これでお開きにするのも悪くはないが、まだ数学1の半分が終わったところ。暗記科目の世界史は本人に任せるにしても、あと化学、物理、英語二つに古典、さらには数学Aとやることは山ほど残っている。
「時間はまだ大丈夫か?」
「うん、ママ、夜遅いから」
不破は母親との二人暮らしらしい。小学生のことはそんなことなかったと思うから、この数年の間に何かがあったということだろう。とても聞けるような感じではなかったが。不破と言うのはおそらく母親の旧姓なんだろうけど。
とにかく今は彼女の成績を上げることが先決だ。うちの夕食の時間までも、全然余裕がある。もう少し続けよう。俺がそう言うと――
「えー、やだー。もう、つかれたー」
子どものように文句を言うと、彼女はそのまま寝転んでしまった。そのままだと狭いから、空間に遭うように身体を曲げて。ちらりとシャツの裾が捲れて、お腹が少し見えている。
いろいろと無防備すぎて、隣に座る俺としては気が気ではなかった。昔の真面目一辺倒なきっちりはどこへ行ってしまったのか。その面影は粉砕されて粉々と言ってもいいほど。
「じゃあ少し休憩にするか」
俺は視線を外しながら答えた。
「大翔くん、やっさし~」
不破はすぐに身体を起こすと、立ち上がってそのまま冷蔵庫の方に歩いていった。ごそごそと中を探り始める。忙しない奴だな。
俺と河崎は特に手を止めることなく、再び勉強に没頭する。俺は不破に教えるためにも、しっかり二次不等式周辺の部分を復習し直していた。やったのは、夏休み前だから忘れている部分も少しはある。
「真柴、ここなんだけど」
「ああ。そこはこの定理を応用してやれば――」
そして、河崎が取り組んでいるのは物理。問題集の左側に乗っているとある公式をシャーペンの先で叩いて示す。そして口頭で、その具体的な運用方法を伝える。
彼はしっかり納得してくれたようで、強く頷くとすらすらと手を動かし始めた。昨日も思ったが、このイケメン呑み込みが非常にいい。前のテストは百番そこそこと言っていたが、ちゃんとやればもっと上位に行けると思う。
やがて不破が戻ってきた。お盆にグラスを三個載せて、その真ん中には紙パックのミルクティー。それをトンとテーブルの前に置いた。
「疲れたら甘いもんだよね~」
ほくほく顔で彼女は、黄土色の液体をグラスに次々と注いでいく。それが終わると、それらを俺たちの前にそれぞれ置いてくれた。
「はいどうぞ。お茶請けはなくて、ごめんね」
「ああ、ありがとう。なにか買ってくればよかったかな」
「いいのよ、別に」
「待て、不破! 俺の分が少ないんだけど……」
不破と言葉を交わしていたら、もう一人の友人がいきなり叫び出した。確かに彼の前のグラスは四分の一程度しか満たされていない。
ちらりとしか彼女の動きを見ていなかったら、気が付かなかった。
「うわっ、河崎ったらいやしぃな~」
「どういう意味だ、それは! まったく俺にばっかり悪戯しやがって」
「ごめんごめん。ほんの冗談だから。はい、どーぞ」
はにかんだように笑うと彼女はミルクティーのパックを手に取った。そして、河崎のコップに液体を継ぎ足していく。その水位がどんどん上がっていって――
「おい、今度は多すぎるぞ!」
そこには見事に表面張力が働いていた。
「我儘だね~、河崎は。いらないってことでしょ、じゃああたしが――」
グラスを奪い取ろうとした彼女を河崎が手で制する。
「わぁーった、わぁーった。俺が悪うござんした!」
「わかればよろしい」
そう言うと、彼女は満面の笑みで頷くのだった。
いつも通りの二人のでこぼこなやり取りを俺は微笑ましく思いながら、コップに口を付けた。甘い液体が口を満たす。
糖分を身体に感じながら、俺はこの後のことを考えていた。どの科目をやらせようか……なんにせよ、今の元気いっぱいな不破の様子が最後まで持てばいいんだが。




