第一話 真柴家の朝
「いい、大翔。こういうのは初めが肝心よ。ガツンと行くの。そうでなければバラ色のスクールライフは待っていないわ!」
なぜか母さんが一番張り切っている。当事者は俺なのに。
登校前のどこにでもある朝の風景。親父はその隣でニコニコと美味しそうにご飯を食べている。
話半分に聞きながら、俺は箸を進めた。途中目玉焼きにソースを掛けながら……え、醤油だろって? 確かにいつもはそうだけど、たまに味変したくなることってあるじゃない?
全く何がバラ色のスクールライフだって。そんなもの転校前はおろか、中学時代も経験してないんだよなぁ……。
思い出は灰色。色恋沙汰もなければ、心が滾る様な熱い友情エピソードもない。
誇るべきは皆勤賞くらい。あと、三年間ずっとクラス委員やったことくらいか。まあ後悔はないんだけどさ~。
「ちょっと! 聞いてるの、大翔!」
「ああ、まあね。ガツンと行けばいいんだろ、ガツンと」
ガツンとの意味は全くわからないが。
「いやぁ母さんはいいアドバイスをするな~」
うっとりしているうすら頭は俺の親父。職を転々とするオールマイティサラリーマン(自称)。あるいは愛の戦士(自称)。つまるところ、変なおっさん(他称)だ。
「そういえば、ユウは?」
「寝てるんじゃない? ほら、昨日も遅くまでカタカタやってたし」
「あの年で作家だなんて、さすが母さんの娘だな!」
「もうっ! あなたの娘でもあるじゃない」
目の前でラブラブ空間が広がるのを呆れながら、俺は黙々と食事を進める。
ユウ――優佳は俺の二つ下の妹だ。中学二年生。職業は作家だ。最近は凄いもので、そんなに若くてもデビューできるらしい。
以上が真柴家の構成員だった。ペットは飼っていない。マンションだからね。一昨日引っ越してきた比較的新しめの4LDK。
この市は俺が小学校を卒業するまで住んでいた場所だ。実際には、区が違うけれど。前いたところとは離れているといってもいい。
だから一度目の引っ越しよりかは心安らかだった。あの時は緊張しっ放しだったからな。全然風土とか違くて。
まあ最後離れる時はさすがに胸に来るものがあったけれど。
今日がこっちの高校の初登校日だった。自宅から徒歩で通える圏内にある。ということは、同じ小学校のやつはほとんどいないだろう。さすがにここまで通ってくる生徒は少ないはず……知らんけど。
期待していないわけではなかった。もしかすれば感動の再会みたいなこともあり得るかもしれない。
ぱたんと箸をおいて、俺はごちそうさまでしたと呟いた。
まだ親父と母さんは自分たちの世界を展開している。
「あの~、四十過ぎの両親のいちゃつきは見てて吐き気がするんですけどね……」
「仲違いしてるよりいいじゃない。ねえ?」
「そうだぞ。母さんと父さんが仲悪かったら、今頃君はここにいないぞ?」
なんなんだ、この人たち……。まあ今に始まったことじゃないからいいけど。
それに母さんじゃないけど、親が仲良しなのはいいことだと思う。
うちの家庭はどんな時も明るい。だから、環境ががらりと変わってもやってこれたわけだけど。
「じゃあいくよ」
俺は席を立った。返ってくる声はなかった。
リビングを出て短い廊下に出たところで、行く手を阻む様に扉が開いた。
隙間から、ぼさぼさの髪の毛をした妖怪――もといユウが顔を突き出してくる。
病気かと思える程にその顔は青白いけど、それがこいつのデフォルトだった。
「……学校?」
ぼそりとか細い声で彼女は訊いてきた。
「平日だからな」
「金曜日なのに。パパもタイミングが悪いよね」
「それは同意だ」
俺は苦い顔で頷いた。
しかも来週の火曜日が創立記念日とかで、高校は休みなわけだった。
せめてその次の日に越していればと思わないでもない。
「何か用か?」
「別に、たまたまだよ。勘違いしないでよね」
古いタイプのツンデレだな……心の中で苦笑いをする。
俺の顔を見に来たというのは明らかだろう。ずっと前からの彼女の癖だ。
「でもついでだから見送ったげる」
「そりゃどーも」
俺は慇懃無礼に頭を下げた。
するとまんざらでもなさそうな顔をして、ユウが部屋から完全に出てくる。
ピンク色のパジャマ姿。あちこちにはウサギがいた。
彼女が動物好きだということを俺はよく知っている。部屋の中にはそんなぬいぐるみでいっぱいなことも。
「カーテンくらいは開けろよ?」
ちらりと見えた部屋の中は、真っ暗だった。
朝なのにも関わらず、今起きたばかりなのかもしれない。
「いいの。もうひと眠りするから」
「さいですか」
彼女は学校に行ってない。いや、わかってる。中学校は義務教育だってことは。
しかし、本人が行きたくないと言ってるんじゃ仕方ない。
親父も母さんも、俺も、本人の意思を尊重した。散々話し合った結果だ。
別にいいと思う。現代とは、多様性社会であると誰かが言ってたし。
「にぃ、何時に帰ってくる?」
「十六時ちょっとすぎるくらいかな」
「そっか……」
素っ気ない言い方だったが、どこか嬉しそうに見えた。
まあそれは言わぬが花というやつだろう。俺は気づかない振りをして、靴を履く、
「いってきます」
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃーい!」
遅れて、両親の声も聞こえてきた。
マンションの廊下に出たところで、空模様が目に入ってくる。あいにくの曇り。
灰色に染まった天上がすぐそこまで迫っている様に見える。
さすが七階……胸の鼓動が少し高鳴るのを感じながら、俺はエレベータのボタンを押した。