第十七話 勉強の苦手な女の子
「おじゃましまーす」
「は~い」
家主と共に、俺と河崎は玄関へと足を踏み入れた。先に靴を脱いで中に上がっていた彼女は、軽やかな足取りで奥へと歩いていく。俺たちもおずおずとその後に続いた。
ここは不破の家。とある用事があって彼女の家に来ることになったのだ。河崎は別として、俺はわざわざバスに乗ってまで……別にやることもなかったからいいんだけど。
そのバスは思っていたよりは混んでいなかった。みんながみんな、真直ぐ家に帰るわけじゃないから、よく考えれば当たり前か。俺みたいに、徒歩圏内の学生もいるだろうし。
不破の家はバス停からそう遠くはなかった。徒歩三分くらい。雨もいつの間にか弱くなっていたので、傘だけで、あまり濡れずに済んだ。
「ソファにでも座ってて。あ、テレビ見る?」
不破は一人奥へ進んで、リモコンを持ちながら話しかけてきた。
俺たちを彼女に案内される形でリビングへ。入ってすぐ左手に台所がある。その前に白い革のソファがあって、テーブルを挟んでテレビが設置してあった。その奥には大きな窓、レースのカーテンがかかっていて外の様子はぼやけて見える。
昨日の朝感じたように、とてもよく片付いていて小奇麗な雰囲気だ。余分なものは一切ない。ソファやテーブルのところにあるのは最低限のもの。家具の配置もその種類もシンプル。
「もうつけてるよね……」
「まあまあ、BGMとして活用してくれたまえ。じゃ、ちょっと待っててね~」
そう言うと、不破はリビングの扉を出て行った。遅れて、ばたばたと騒がしい音が聞こえてくる、
ぽつりと残された俺と河崎は顔を見合わせると、苦笑いをしてとりあえずソファに座ることに。二人座ってもなお一人分は余裕がある。
なんとなく気まずくて、ぼんやりと視線をテレビの方に固定した。夕方の情報番組が流れている。地域の番組……子供の頃は偶に見ていた。あの時とは違った感じに見える。
「なんか変な感じだな……」
神妙な面持ちで、彼は呟いた。落ち着かないのか、忙しなくその視線が動いている。
「河崎は遊びに来たことないんだ」
「……中学からの付き合いだからな。そのころだと、そんなおいそれと女子の家に遊びには来ないだろ」
「まあ、俺はそうだけど。なんか、お前が言うと意外だな……」
「悪かったな、見た目と中身が釣り合ってなくて!」
ふん、と彼はわざとらしく鼻を鳴らす。
第一印象は、さわやかで明るくてクラスの中心人物的存在だと思ったものだけれど、すぐにそれが間違いだとわかった。普通にしていれば河崎はよくモテると思うのだが、今のところ女子と仲良く話している姿は見たことがない……不破は例外として。いつも俺か、あるいはほかの男友達とつるんでいる。
ムードメーカでもなく、発言力が強いわけでもない。うまくクラスに溶け込んで立ち回っているという印象。
「別にそういういう意味じゃ……でも、確かに落ち着かないよな」
「お前も? 昨日まで毎日来てたんじゃないのか?」
「いつも廊下で待ってるし。それに、お母さんもいるからさ」
「そういや、仕事でいないって言ってたっけ。……ということは、年頃の男女が三人同じ部屋。何も起こらないはずが――ってえ!」
ゴツン。鈍い打撃音が聞こえてきた。そして、河崎の情けない悲鳴。
振り返ると、そこには鬼の形相をした不破智里さんが立っていた。その拳は強く握られている。
「アホなこと言ってると、追い出すよ?」
「冗談、冗談だって。だいたい誰がお前なんかに興味が――」
「それはこっちのセリフですーっ!」
不愉快そうにいーっとすると、彼女は肩を怒らせたまま回り込んできた。そして、俺の隣に少し乱暴に腰かける。なので、ちょっと河崎のほうにずれた。
その手にはプリントの束を持っていた。不破はそれを、よく整頓された木製のテーブルの上にバシッと強く置く。
「よく取ってあるね」
「なんとなくテストとかって捨てられなくない?」
「いや、全然。河崎は?」
「同じく……お前、変なとこ几帳面だよな。あ、そういうとこがきっち――」
「あんたには、そう呼ばれたくない」
勝手に納得する男の言葉を、不破はぴしゃりと遮った。そして眉を顰めて、心底不愉快そうな顔を彼に向ける。
理不尽に窘められたクラスメイトと言えば、ひょうきんそうに肩を竦めただけ。特に気にした素振りはない。揶揄するようなニヤニヤとした表情は残りっぱなし。
間に挟まれている身分としては、なんともまあ居心地が悪いというか……。逃げるようにして、プリント山の頂上を手に取る――得点通知表。紙の上部にはでかでかと、そう記されていた。
定期テストの話をしたら『じゃあ結果見る?』とお呼ばれされることのなったのだ。これが今日の最大の目的。
「あっ、大翔くんってばやっぱり大胆! そんな躊躇いなく」
「何を恥ずかしがってんだ、このバカ女は……どれどれ」
ため息交じりに、河崎が手元を覗き込んできた。彼にもちゃんと見えるように、無言のまま紙の角度を調整する。
俺は目の前に並ぶ数字に言葉を失っていた。開いた口が塞がらない思い。この世にそんな得点が存在することを、今初めて知った。未知との遭遇。
しっかりと表現するならば、それらは河童とかドラゴンとかイエティみたいな想像上の存在。そんな点数を取る奴がいるなんて……ほんと信じられない想いだった。
まず、理数系はほぼ壊滅状態……。どの科目もだいたい同じくらいの点数。その数字が彼女の名前の横に書いてあると、まるで年齢に見えた。
かといって、社会もだめ。こちらは、月末のカレンダーの数字チック。前期中間テストのあった時期、と言われたら信じられる。
さて、次は英語。一番近いのはアイスの某有名チェーン。俺はあんま食べたことないけどね。理数系の約二倍だから、そう考えれば良く思えてくるのが不思議だ。
最後は国語。古文は国民的女子アイドルグループの数字くらい……現代文は意外にも九割弱。ピーキーすぎるって、レベルじゃないな、これ。
改めて、俺はなんとも言えない気持ちになる。こんなにヤバいとは思えなかった。これで順位は一番下じゃないんだから、この学校の多様性を改めて思い知らされたけれど。しかし、それでも下から数えた方が早い。
俺はちらりと横目で、隣に座る犯人の表情を窺い見ることに。彼女は気恥ずかしそうに、微妙な笑みを浮かべていた。ほっぺたの辺りは少し引き攣っている。
「……お前、中学時代よりも酷くないか、これ?」
「アレー、ソウダッタカナー」
その目はあからさまに泳いでいる。
「殆どの科目が赤点だったとは……数学がそうなのは知ってたんだけどな」
「これは好奇心で聞くんだけど、赤点取るとどうなるの?」
「補習、課題、再テスト……どれでも好きなのどーぞ」
もはや彼女、投げやりである。うんざりしたような表情で、言葉を吐き捨てた。そして、むすっとした顔で口を閉じる。
しかしこれは本当に予想外。もう少しいいと、勝手に思ってた。どうも未だに、俺の中で彼女の小学生時代の印象が残っている。あの頃だったら、こんな点数とは無縁だったはずなのに。
「もう一つ訊きたいんだけど、現代文だけ異様に高い理由は?」
「うーん、よく本を読んでたからかなー」
「本? お前が? とてもそんな見た目じゃないだろ。ファッション雑誌の間違いじゃ」
「昔の話ですー! まあ、今でもたまに読むけど」
「小学校の頃、しょっちゅう本読んでたもんな、不破」
「そうそう。そういえば、大翔くんにもいくつか教えてあげたよね~」
あの時は、少しでも不破と――きっちりと話したい一心だった。話題探しとして、よく彼女のマネをしたんだ。その影響で、俺はすっかり読書家に。
彼女もまたそれを覚えていてくれたことが嬉しかった。
「しかし、昔話に花咲かせてる場合じゃないぞ。どうすんだ、これ?」
ひらひらと河崎がその紙を掲げる。
「またしまっておく」
「そうじゃない、テストの点数だよ。上げないと、まずいだろ」
「えー、でも勉強はめんどくさいしな~」
「留年すんぞ」
河崎がなおも乗り気じゃない彼女に止めを刺す。
「うっ……確かに、危ないぞって脅されてはいるけどさ~」
「義務教育じゃないから、容赦ないって聞いたことあるぜ」
「ほんと!? いや~、まあだいじょうぶっしょ」
「……はあ。不破、よかったら俺が勉強見てあげるけど」
「いや、大翔くんになんでも頼るわけには……」
「じゃあ自分で何とかできるのか?」
「そ、それはですね~」
俺が強めに指摘すると、彼女は困ったような表情をする。
「別に無理にとはいわないけどさ。でも人に教えると、勉強になるっていうから、俺は問題ないよ。それに、一緒に学年が上がれなかったら嫌だしさ」
その言葉に、不破は一瞬はっとした表情になった。そしてどこか沈んだ表情をすると――
「…………だよ」
「何か言ったか?」
「ううん。じゃあ、お願いしようかなって」
にっこりと、不破は微笑んだ。
さっきの暗い雰囲気はどこへやら、すっかりといつもの明るい感じが戻っていた。あれは何だったのか気のせいだったんだろうか……。
気にはなったものの、俺は彼女に勉強を教えるという使命感に燃えていた。何としても、次のテストで赤点を取らせるわけにはいかないぞ――強く強く覚悟を決める。




