第十六話 早起きキャンペーン そのろく
「……というわけで、ルターは宗教改革を起こしたわけだな」
五時間目の世界史の授業も佳境を迎えている。時間的な意味でも、内容的な意味でも。
前者で言えば、時計の針は午後二時を表そうとしていた。あと少しで、授業の五分の三が終了することになる。こうして終わりを意識すると、これまた長く感じるけど。
そして、後者はと言えば、マルティン・ルターと黒板にはでかでかと書かれている。そして宗教改革という言葉もよく強調されていた。ここが今日の授業で最も大事な部分らしい。
俺は教師の説明に耳を傾けながら、右隣の席に視線をやった。誰もいない。荷物もない。空っぽ。この時間になっても、その主が現れる気配は一向にない。
――不破智里は遅刻をした。予想外、いや案の定というべきか……とにかく残念な気持ちにはなっていた。そもそも、フラグは散々昨日から立っていたわけで。
少しけだるげな雰囲気が漂う昼下がりの穏やかな教室。ぱしぱしとチョークで黒板を叩く音に交って、外から激しい雨音が聞こえてくる――そう今日の天候は雨。
その降り方は朝から強くて、とても自転車に乗れない。だから、今朝は不破を迎えに行かなかった。昨日の今日で、大丈夫だと少し慢心していたところもあるけど。その旨はちゃんと連絡してある。
『おっけー。ばっちり任せておいて!』
という返信が来た時に、一抹の不安が過ったが……。
はあ。一つ心の中でため息をついて、今度は窓の方に目を向けた。相変わらず、ざーざーと雨が降っている。こういう時、家が近いというのはいい。あまり濡れずに済むから。
まあでも河崎たちもバスで来るというから、それなりには大丈夫なんだろうけど。しかし、その込み具合を考えると……俺はもう一度安堵する。
「いいか、ここはテストに出るからな。しっかりとどこの国が何派で、その名前も覚えておくように!」
一際、教師の声が大きくなった。黒板を見ると、板書事項が増えている。俺はまたノートを取る手を再開した。そして、色ペンでしっかり囲っておく。テストに出る、と小さくコメントまで残して。
「先生、そんなこと言っちゃっていいんですか?」
「大丈夫だ。今度配られるテスト範囲表にも書いてあるからな」
前期期末テストは、二週間後に迫っている。だから他の科目でも、やたらと先生たちはそのことを意識させてきた。
……不破は大丈夫なんだろうか。こうも授業にちゃんと出てないと、とても対応できるとは思えない。家でも勉強してる様子はないし。前話した時は、結構やばいみたいなこと言ってたっけ。
そんなことをぼんやりと考えていると――
がらがら、前方の扉が開いた。
「すみません~、遅れました~」
よく見知った女子生徒の姿が、臆することなく現れる。
「また、お前か……。まったく重役出勤どころの騒ぎじゃないぞ? こんなに遅いと、出席もつけられない」
「えへへ、そこを何とか」
「可愛く笑ってみてもダメだ! まあとにかく座れ」
は~い、彼女は気の抜けた返事をして、軽くざわつく室内を進んでいく。やっぱり、躊躇うようなところはない。そのまましっかりした足取りで、自分の席へ。
不破が自分の席に座る前に、ばっちりと目が合った。彼女は気まずそうに笑って、悪戯がバレたお茶目な少女みたく舌をぺろりと出す。
「さて、再開するぞ。このように、各地で色々な戦争が起こって――」
何事もなかったかのように、担当教師は授業に戻った。クラスメイトもまた静かになって、各々のやるべきことに集中する。大抵は授業を聞くことだが、中には睡眠に興じる猛者もいた。
がさごそと隣で音を立てる迷惑な同級生を一瞥してから、俺もまた意識をしっかりと授業の方に向けるのだった。
*
六時間目は一時間体育の授業だった。そのため、五時間目が終わった後の休み時間は不破と話す機会はなかった。当然、教室に戻るとすぐに帰りのホームルームが始まるわけで……。
「――全員に行き渡ったな。それは明朝、必ず出すように!」
その最中、配られたのは学習計画表なるものだった。来たるべき定期テストに向けて、自らの家庭学習時間を記すもの。読んで字のごとく、というやつだ。
前いた高校はおろか、中学時代にもそんな経験はないのだが。周りの人たちの反応を見るに、この学校では当たり前のことらしい。郷に入ってはなんとやら、家に帰ったら仕上げなければ。
「さて、号令係!」
ホームルーム終了の儀式があって、チャイムが鳴った。平日の学生にとって、最高の憩いの時間が訪れたわけである。
「不破さん? どういうことか、説明してもらいたいんだけどなぁ」
「ああ、この紙? 時間だけじゃなくてね、科目も――」
「わざとらしくボケなくていいから」
「こ、こわいな~、大翔くん」
アハハと彼女の口から乾いた笑みが零れた。流石に悪いと思っているのか、どことなく申し訳なさそうではある。
「おうおう。お怒りだな、真柴」
「そりゃあね。いきなり遅刻されたら……しかも、あまりにもふざけた時間に登校してきたわけだし」
「いやぁ、あたしもね、びっくりした! まさかあんな時間になるとは……」
彼女は自分のことなのに、心底不思議そうに呟いた。うーんと、悩むような仕草を見せて首を傾げている。
俺はもはや呆れて何も言えなくなっていた。それでも弁解は聞こうと、消極的に話の続きを促す。
「あのですね、起きたんです、ちゃんと」
「それは知ってる。メッセージ見たから」
「うん。それで、油断したと言いますか……気が付いたら、二度寝しちゃって」
「ガム食べなかったの?」
「枕元に置いておいたんだけど、無くなってたから。めんどくさくなってつい……」
俺は思わず河崎と顔を見合わせた。彼はなんともいない表情で眉間にぐっと皺を寄せている。きっと、俺の表情も変わらないんだろうな。鏡を見るまでもなくよくわかる。
「目が覚めたらお昼でね、それから準備したらあんな時間に」
「寝すぎじゃね?」
「うるさいな~。ここ最近、頑張ってたから寝不足だったんだよ~」
「頑張ってたって……まあ不破には、朝ちゃんと起きるってだけで重労働だよな。よく頑張りました」
「うぅ、イジワル言わないでよ~」
彼女は唇をすぼめると、恥ずかしそうに目を伏せた。皮肉はわかるらしい。
とりあえず謎は解決したので、俺はさっさと荷物を纏めた。そして、椅子を上げて机を下げる。最後列だから、急がないと周りに迷惑がかかる。そして通路の方によけた。
「明日は迎えに行こうか?」
「……うん、お願いします」
「真柴も面倒見がいいね~。俺だったら、投げ出すぞ」
「まあ乗り掛かった舟だから」
ということで、しばらくはまだまだ不破を朝迎えに行く必要がありそうだ。まあ、手間じゃないから別にいいんだけど。
帰る準備ができて、俺たちは一緒に教室を出た。適当にくだらないことを話しながら。そして昇降口までいたところで、俺は話を切り出した。
「関係ない話なんだけどさ、不破、定期テストは大丈夫なの?」
「……テイキテスト? 知らない子ですね」
「お前また赤点だったら通知表に一、つくんじゃねーの」
河崎の冷静な指摘に、彼女の顔はみるみる青白くなっていくのでした――




