第十五話 早起きキャンペーン そのご
「お~き~ろ! 不破智里!」
大声で呼びかけながらその身体を揺すって、布団まではぎ取ってやった。ここ二日見てきた変わらないパジャマ姿がそこにあった。
不破を迎えに行くようになってから三日目。今日こそは、と強い決意を胸に彼女の部屋に侵入したものの、昨日までと変わるところは何もなく。
「きゃっ! もう、大翔くん。ダ・イ・タ・ン、なんだから~」
薄っすらと目を開けて状況を確認する不破。しかし、すぐに寝返りを打ってしまった。壁の方を向いて、身体を縮める。
ここまでは予想通り。多少呆れはしたものの、落ち込むことはない。
「そんなに眠いのか?」
「うん、もうめちゃくちゃ……すーすー」
話しているのに、彼女の意識は容易く眠りに落ちたらしい。とんでもない失礼さである。もうホントびっくり!
「また遅刻すんぞ!」
俺は強めに肩の辺りを揺すった。ううん、ううん、と言葉にならない呻き声だけが漏れるばかり。
「昨日何時に寝たんだ?」
「さんじ~」
「日付変わってんな。そして、昨日聞いたのより遅いし。そんなに早く起きるの嫌なのか?」
「すーすー」
答えとして帰ってきたのは、言葉ではなく完全な寝息だった。
……はあ。一つ分かりやすく大きなため息をついた。この一筋縄ではいかない現状に心が折れそう――というのは、昨日の時点での話。今日の俺には、秘策があった。
ブレザーのポケットを探って、とある物体Xを取り出す。『ゲキカラブラック』――それは、ユウに教えてもらったガムだった。
『これね、めちゃくちゃ辛いの』
妹は顔全体に皺を寄せながら教えてくれた。
もちろん俺も試してみた……思い出しただけで、渋い表情になっていく。この世のものとは思えないくらいに激辛。とてもよくミントみたいなのが効いていた。口が痺れるほどに。
これならいける。ユウの話と併せて、俺は確信を得た。寝起きにこんなものを食べようものなら、たちまち眠気は消えるはず。
俺は左手の中にあるパッケージを眺めて決意を固めた。頼むぞ、君だけが頼りだ!
とりあえず、もう一度彼女の意識を覚醒させなければ。幸い、眠りが浅い今なら、それは難しくない。身体的接触をすれば、一瞬意識を取り戻すのは確認済み。
「不破、食べて欲しいものがあるんだけど」
「……なあに?」
「とりあえず、ほら、起き上がって!」
俺は彼女の腕を引っ張って、その身体を起こした。しかし、眠気は残ったままらしく、その身体ユラユラと揺れている。頭はこっくりこっくりと、瞼は柔らかく閉じたまま。
「ほら、手出して」
「うん~」
寝ぼけてはいるが、言葉は聞こえているらしい。力感のない仕草で、彼女は左腕を突き出してくれた。
俺はその掌に、一つ取り出したガムを握らせる。ちゃんと覆っている銀紙を剥がして。
「なにこれ?」
「ガム。目が覚めるぞ」
「がむ? なにそれ、おいしいの?」
なんかわけわかんないこと言ってんな。食べたことないわけないだろうに……。
とにかく俺は不破の手首の下あたりを握った。柔らかい感触がそこにはあって、とにかくそのまま口元へと掌をもっていかせる。
「とにかく食べてみて」
「うん。わかった」
すると、彼女は目を閉じたまま、口の中にそれを入れた。その顎が可愛らしく動いて――
「ゴホッ、ゴホッ!」
間髪入れずに、激しくせき込んだ。真っ赤な顔して、目を見開く。喉を押さえながら、苦しそうな表情を浮かべた。
「な、なにこへ!」
「激辛ガム。目、覚めた?」
「し、しぬかほおほったわよ!」
ろれつが怪しいのは相当聞いている証拠か。その特徴的なたれ目の端には、涙が浮かんでいる。
「じゃあほら、早く準備して」
「……仕方ないな~」
「それは俺のセリフだからな」
少し苦笑いしながら、俺は部屋を出た。
*
教室についた頃には、朝読書の時間までまだまだ余裕があった。廊下から、朝の喧騒がよく聞こえてくる。しかし、その中に足を踏み入れると、一瞬にして静寂が訪れた。
「不破ちゃん、今日早いんだね~」
「こりゃ槍でも降るんじゃないか?」
「奇跡だ、奇跡が起こってる」
「……てか、どうして真柴くんと一緒なんだろう?」
などなど。
不真面目で名を馳せているクラスメイトに、みんなが好き勝手なことを口々に述べる。共通して言えるのは、誰もが驚いているということだ。
その中を、俺は不破を先導する形で歩く。向けられる視線はかなり気まずい。しかし、段々と喧騒の種類が変わっていき、俺たちに対する興味も薄れていく。
「…………最後に真面目に来たの、七月とかじゃないか、お前?」
待ち受けていた河崎は唖然とした顔をしていた。怪訝そうに眉を顰め、口は開きっぱなし。しかし、それでも絵になるのはイケメンが故か。
「よく覚えてないな~」
「まあいいさ。で、どんな手を使ったんだ、真柴?」
「うーんと、これだよ」
俺は彼に向けてガムを軽く放った。パッケージごとではなく、一つ取り出して。
彼はそれをしげしげと眺めている。包装を剥がすと、納得した表情を浮かべた。
「ガムか、これ」
「うん」
「こんなんでね~」
「そこまで言うなら、あんた食べてみなさいよ」
「いいか?」
「そもそも、その状態で返されても……」
それもそうだな、彼は苦く笑うとポンと口の中にそれを放った。二三回口元が動くと――
「ゲホッゲホッ! な、なんだ、これは……!?」
「ね、かなり効くっしょ。いや、さすがのともりちゃんも、目が覚めましたともり!」
わけのわからない語尾を付けると、不破は俺の方をいわくありげに見つめてきた。
「ともりちゃんも目が覚めましたともり!」
「繰り返さなくていいから……とにかく、それがあればもう大丈夫だろ。朝起きてひと噛みすれば、あら不思議! 二度と学校に遅刻することはない」
「まあ、本人にその気があればな~」
どこか疑るような目つきで河崎は、不破の顔を見る。いまいち信用してない風。その対象は、ガムの力……ではなくて――今も苦悶の表情を浮かべてるし――彼女個人の資質だろう。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。任せなさいったら」
からからと朗らかに笑う彼女を、俺はどこか一抹の不安を胸に眺めることしかできないのだった――
『早起き』編は次話で終わりでございます。




