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作者: アバラバラ

 艶やかな香水の匂いが漂う。

 彼女は美しい女だった。

 柔らかい栗色の毛が頭を包み、綺麗に弧を描くまつ毛に少し厳しい目つきが余計に男心をくすぐる。服装はいわゆる女の子らしいものではなく、暗い色のジャケットを羽織るような女で、つまりは好みだった。

 なのに。

「ああ…………」

 ホテルの一室。

 備え付けのテレビに向かい合うようにダブルベッドがあった。絡み合うように寝そべる男女。

 男は呆けたように天井を眺めていた。

「愛してる」

 ふと、女が言った。男はその言葉を聞いて反応一つも寄越さない。それでも、女は嬉しそうに微笑んだ。

「愛してる」

 まるで暗示でもかけているように、半裸の女は何度も呟く。

「愛してるの。ねえ、ほんとよ。別に浮気してるから後ろめたくて言ってるってわけじゃないの。本当に、心の底から愛してるの」

 女は男の胸を愛おしそうにそっと撫でた。

「ねえ、聞いてる?」

 男は瞬き一つ寄越さなかった。

「愛してる。愛してて、愛してる。死ぬほど愛してる。嘘じゃないわ、もしもあなたが私に死んでほしいって一言言えば私は死んでもよかったもの。理由なんていらない。だってあなたが私に死んでほしいって言わなければならないほどの何かがあるってことだもの。それにあなたが私に死んでほしいって言うまでに死ぬよりも苦しい葛藤があったはずでしょう? なのにあなたのために死なないなんて私にそんなことできるわけがない。あなたの顔をそっと抱いて私は私の命に別れを切り出すの。私、この人を愛して生きていくからもうあなたはいらないって私は私の身体に言うの」

 そこまでを言うと、女は満足そうに目を閉じた。

 耳を澄ますように、自分の周りに広がる幸せの香りを味わうように。

「おい、わかるぞ。嗅がなくてもわかる。この部屋に広がる匂いはゴミ以下だろう」

 不意に声が響いた。

 寝転ぶ体勢を変え、女が振り返るとベランダに続く窓が開かれ、ガスマスクをかぶる男が立っていた。

 ガスマスクの男はこちらを見る女に目もくれず、一人で喋りつづける。

「なんだこれは。安物のアロマか? 何のためにこんなものを置いている? ひょっとして俺を怒らせるためか? だとすれば最高で最低だよ」

「ねえ」

「なんだ」

「もう少し、ほんの少しでいいから待ってくれない?」

 ガスマスクの男は、マスク越しに顔をしかめた。その目は怪訝ではなく、疑心でもなく軽蔑だった。

「もう少しってのは何だ。一秒、一分、一時間、一日、一週間、一か月、一年、それとも一世紀か。教えてくれよ、クソビッチ」

 椅子にまたがり、心底苛立しそうにガスマスクの男は続ける。

「これだけは教えてやる。時間ってのは有限なんだ。しかもどこが終わりかもわからない。今すぐ心臓発作で俺も死ぬかもしれない。だから上手く使わないといけないわけだ。だがお前は何と言った? “もう少し”だと? そもそもお前がこんなことをしなければ俺はこんなところに来る必要もなかったわけだ。そこでお前は言うのだ。“もう少し”と」

 男は何か諦めたようにため息一つ。

「馬鹿にするのも大概にしろよこのゴミが!! 俺はわがままばかりのたまうクソガキが嫌いなんだ。クソガキは一度許してやればどこまでも誇大し続ける。一度許せばもう一度と、分をわきまえるってことを知らねえ。分かるか? 分かるだろう? お前はクソガキだ。いつも俺の手をわずらわせるクソガキだ」

「ねえ、あなた。あなたって…………」

 女が浮かべた表情は笑みだった。

「優しいのね」

 無言。

 無言と無言。

 そして金属音。

 ガスマスクの男が銃を寝そべる女に向けていた。

「黙ってろ」

「ほら、やっぱり優しい」

「目をつむれ」

「ねえ、私たち子供がいるの。まるでわたしたちの子供じゃないみたいにかわいくて、頭がいいの。だから…………」

 音。

 乾いた音。

 その音に気づく人間の方が少なく、かつ気づいた人間も気づかないフリをした。




 綺麗な住宅が立ち並び、その間隙を綺麗に舗装された道路が埋める。

 文句の言いようがないほどに。

 その片隅。

 優しいオレンジ色をした一軒家があった。庭は広く、車が停められていてもなお十分に歩き回るスペースがある。周囲を壁で囲い、正面には外から開けられない大きな門。壁越しに一本の大きな木が見えた。

 そんな見栄えのいい家宅を前にして立っているのは、ガスマスクの男だった。外套を羽織り、手もポケットに隠している。

 彼はインターフォンを鳴らしていない。何も言わず、何もせず、黙って立派にそびえる家宅を眺めていた。

 そのときだ。

 ドアの開かれる音とともに顔を出したのは、まだあどけない表情を見せる少年。門へと駆け寄ると家宅を眺めるガスマスクの男と同様に何も言わず、門の鍵を開けて通れるようにし、中へ入るよう促した。

 だが。

「…………お願いします。どうか、どうかお入りください」

 声を震わせながら少年は頭を下げた。

 ガスマスクの男は動かない。まるで突然生えてきた木のように動かず、かつ静かに少年を見下ろしていた。

 少年は母親譲りの、美しい栗色の髪をまとっていた。

「顔を」

「え?」

「顔を上げて、こちらを向け」

 俯いていた少年が、その言葉を理解してガスマスクへ視線を持ち上げた。

 ほんの短い瞬間、二人はまるで雷に打たれでもしたように動かず、お互いにお互いの視線を交わして押し黙った。

 今にも泣きだしそうな少年の顔もまた髪と同様に美しかった。彼の顔には彼の母親の面影が残っている。

 骨格、目や肌の質や色、口、眉の形。

 知っている。ガスマスクの男は、目の前の少年の顔を知っていた。

 すべての発端は、少年の泣き袋の原因は彼の父、および彼女の夫の失態だった。

 機密の情報漏洩

 少年の母、彼女は夫のしでかしてしまったことに気づき、独自に対処することで自らや子供に対する制裁の手から逃れることを望んだ。けれど遅かった。彼女がホテルで夫を毒殺しようと準備しているときにはすでに決定は下っていたのだ。

 一家の殺害。

 当然、そこにはガスマスクの男を泣きそうな顔で見つめる少年も含まれていた。

「お前の母親はお前の父親を殺した。そして、俺はお前の母親を殺した。ついさっきのことだ」

 少年はわずかに強張らせるだけでほとんど表情を変えなかった。

 知っていたのだ。

「…………なぜ逃げなかった」

 気づけばそんな言葉を洩らしていた。

 少年は、おそらく母親からすでに聞かされている。ならばそのときに、もしものときは逃げろと言われていたはずだ。だが逃げなかった。逃げる素振りさえ見せず、正面から顔を見せたガスマスクの男に自ら近づいて行った。

 彼ら家族はそれなりに顔が利く。全力で逃げようとすれば万が一、億が一でも可能性はあったかもしれなかったのに。

 少年が父や母と一緒に死にたかったなどと馬鹿なことを口にすればガスマスクの男は即座に打ち殺していた。

 だが。

「あなたに殺されるためです」

 まさか、と小さくガスマスクの男はつぶやいた。

「お前、お前らっ」

 すべてすべてすべてすべてすべてすべて。

「そうです、全て母によるものです」

 そして少年はつらつらと喋り始めた。

 母はすべて知っていました。

 私の父を殺したとしても自らが殺されることも、自分を逃がしたとしても必ず捕まってしまうことも、そして、制裁を下す人間としてあなたが選ばれることも。

 母は言っていました。

 あなたが組織の人間に厄介がられるようになっていると。そして、少しでも私たちを助けようとする素振りを見せれば、私たちの次に殺されるのはあなただと。ホテルには盗聴器が仕込まれているだろうから、わざとあなたを怒らせるのだとも。

 そのときの母はとても楽しそうでした。

「ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなッッ。分かっているのか、お前は今から殺されるんだぞ!」

 ガスマスクの男もまた声を震わせていた。

 少年は悲痛そうな笑みと、物憂げな表情をそれぞれ垣間見せ、最後に何かに納得したような笑顔を見せた。

「それでも自分は幸せでした。母から聞いています。あなたはひどく不幸だったと。だから……」

 ガスマスクの男は何も口にできなかった。

 だから自分は死んでもいいのだと、そう言うのか。

 その一言を言おうとして、言えなかった。言ったところで彼が死はすでに確定していた。

 ここで自分が死を決する覚悟を持とうと、この少年は死ぬ。

 そして彼および彼女は男が生きながらえることを望んでいた。

馬鹿め。

 小さく、誰にも聞こえない大きさで呟く。

 それ以外に、何も言えることはなかった。

 そして懐から少年の母親を殺した銃を持ち上げた。

 少年は澄んだ笑みを浮かべていた。これ以上何も語る必要などないと彼はこの歳で知っていた。彼はこの歳で自らの死に場所を悟り、理解し、受け容れていた。

 そして彼は、十歳も半ばに行かないまま、銃弾に貫かれ命を落とした。

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