036:乙女は魔物を引き寄せる
九頭の氷狼は三人の上を行き過ぎ、空中で散開した。
天井を走り、壁を駆け、牙を剥いて威嚇しながら、頭上を滑空していく。
ユニスは古代理紋の下でうずくまった。古代理紋を含めた自分のいる範囲に、シェインのバリアを展開しようとしたが、
はれ?……――手応えがない!?
シェインへの指令がユニスの中で空回りしている。
自分が変だ。ユニスは背後の様子をシェインの目で視ようとした。
愕然とした。
――透視もできなくなっている!?
ユニスは上を振り仰いだ。
一瞬、ここに到るまでの過程で、疲れすぎたのかと考える。
シェインは才能だが、シェインの強さは精神力だ。集中力と体力も要る。いくら強い能力者でも体力が尽きれば当然動けなくなり、精神の集中を欠けばシェインを意思通りに使えない。だが、どちらも今のユニスには当て嵌まらない。
――ということは、この古代理紋のせい?
もしも、ユニスのシェインに干渉するようなパワーを秘めている器物なら、ユニスよりも体力も精神力も桁外れに強いプリンスが先に気付きそうなものだが……。
ユニスは床にペタリと座った。背中を壁に付ける。
晶斗とプリンスは、空中を駆ける氷狼と、一触即発の睨み合いの真っ最中だ。
――氷狼は、わたしの方には来ていない。わたしはまだ、だいじょうぶ……。
体がガタガタと震え出した。
でも、晶斗とプリンスに声は掛けられない。
どんなに怖くても、今、二人の集中を乱してはいけないことぐらい、ユニスにもわかっている。
壁を駆けていた氷狼が、ふいに方向を変えた。晶斗の真上から襲い掛かる。
晶斗は白い剣を振るい、しなやかな身のこなしで氷狼の牙と前足を躱した。
氷狼は晶斗の頭上を飛び越えた。
突き当たった壁を蹴った勢いで、今度はプリンスに躍りかかった。
プリンスは前から来た一頭を躱して背後へ顔を向けた。
次の瞬間、プリンスの位置が右側へ一メートルほどずれていた。移動したその動きはユニスには見えず、一秒間、元の位置のプリンスの姿が網膜に残像となった。
氷狼はプリンスの左横を擦り抜けながら、ガチガチと牙を噛み合わせた。
その氷狼は、プリンスから離れた地面に着地した。
くるりと方向を変えた氷狼の、上顎が右にずれた。
体躯の上側が右へ滑りゆく。
下顎から下は、その場に取り残され、なおも四本の足を踏みしめている。
が、上顎から上の頭部が四つに分かれて地面で砕けた。
直後、体躯のすべては雪の結晶と化し、崩壊した。
残り八頭。
氷狼は仲間の死にひるまなかった。
二頭が晶斗へ接近し、三頭がプリンスへ同時に挑んだ。
あぶない、と思った瞬間、ユニスには二人の姿が見えなくなった。
二人が見えたのは、三回瞬きした後だった。
晶斗とプリンスは背中合わせになり、白い剣と太刀を構えている。
左右で、氷狼が二頭、雪の結晶と化して崩れた。
――あとの六頭はどこに行ったのかしら?
低い唸り声が聞こえた。
やけに近い。ユニスは恐る恐る頭上を見上げた。
三頭の氷狼がいる。
古代理紋のずっと上方の壁に、天井にピッタリ貼り付いている。
三つの眼には、ユニスが映っていた。
氷狼は、晶斗の右から突っ込んでいった。
晶斗は白い剣の素速い一撃で、そいつの左前脚を斬り落とした。
左前脚を失った氷狼は、飛んで逃げた。脚一本なら雪の粉からすぐ再生する。一拍後、四本脚に戻った氷狼は、天井を走った。晶斗を襲ったもう一頭は、晶斗の白い剣に攻撃を遮られた。
氷狼は、晶斗を噛み損ねた牙を鳴らして天井に駆け上がった。
逆さまになって三歩目で、胴から上が先に落下した。
その瞬間、天井と地面に離れた氷狼の体躯は雪の結晶と化した。
下半身の分の雪塊が、ドサリと落下した。
三頭の氷狼は低く唸りながら、ユニスを見下ろしていた。
ユニスはガタガタ震えた。シェインが使えなければ戦う術が無い。
だが、いつまでたっても三頭はそれ以上降りてこない。ユニスから一定の距離を保ったままだ。
――そうか、この壁にある古代理紋の結界線が、魔物の境界なんだ!
昔から、魔物は古代理紋に近付けないという。守護の魔獣も魔物の一種だ。おそらく古代理紋は、その影響力の一つとして、古代理紋自身が不慮の破壊から護られるための防御機構を組み込まれている。
三頭のうち、一際大きな体躯の氷狼が、ふと、頭を動かした。
そして、三頭は壁を蹴り、飛んだ。
晶斗とプリンスの居る方へ。
プリンスの方に狙いを定めた氷狼は、雪に還された仲間より少しだけ利口だった。その雪の粉が空気の流れに雪煙となって漂うのに隠れながら、プリンスの周囲を飛び回った。何度も角度を変えては噛み付きかかり、太刀を避けつつ、前足の攻撃を繰り返す。
その時、もう一頭が、天井を疾駆した勢いをつけ、一直線に滑空した。
別の氷狼と対峙している晶斗の左から背中を狙う。
プリンスが走った。
晶斗の背後に迫っていた一頭は、太刀の間合いに入る寸前、ひとっ飛びで躱して逃げた。
プリンスが晶斗の真後ろに付いた。
氷狼が反転して来た。
プリンスの真横から太刀をかいくぐり、その刀身に噛み付いた。ガチガチと音を立て、氷狼の牙が鋼の刀身を咀嚼する。その口からは血をも凍らせるという白い冷気が溢れ出した。
プリンスの太刀は、氷狼の口にガッチリと咥えられていた。プリンスと氷狼の力は拮抗していた。どちらも動いたようには見えなかった。だが、氷狼の口から、透明な欠片がこぼれた。切られた牙だ。
次の瞬間、プリンスの太刀は右側へ水平になぎ払われていた。ユニスは太刀が風を切る音だけを聞いた。
ユニスが瞬いたとき、氷狼の体躯は上下真っ二つに斬り割かれていた。背骨を境に綺麗に削がれた上側が地面に落ちると、下の部分ともども、粉々に砕け散った。
その三頭は連係プレーを組んだ。
一際大きな氷狼は、巨躯に似合わぬ軽いフットワークで、晶斗の振るう白い剣を巧みに避けた。他の二頭がその隙間に、交互に素速い攻撃を繰り出す。
と、一頭が雪に還った。
プリンスは太刀を軽く振るい、刀身に付いた雪片を振り落とした。
ユニスにはプリンスがいつ斬り込んだのか、まるで見えなかった。
晶斗が白い剣先を大きな氷狼に向けている。
空中から飛んできた別の一頭が晶斗の頭上に落ちかかった。
同じタイミングで大きな氷狼が、真正面から牙を剥いた。
晶斗は跳びのきざま、真上から来た氷狼の背中に一撃を与えた。
大きな氷狼の方は、晶斗の立っていた場所を駆け抜け、プリンスへ躍りかかった。
プリンスの姿が、白い巨躯の下に隠れる。
だが、すぐに白い巨躯は、毛皮の雪を散らしながら跳びずさった。そして、別の角度からプリンスに挑もうとして太刀の切っ先に阻まれ、天井高く舞い上がった。
大きな氷狼は天井に貼り付いた。
フサフサの白い尾が垂れ下がっている。
その頭が、カクリ、と、仰け反った。
頭が首からずれた。そのまま離れて、落下した。
氷の一眼は、地面で二つに割れた。直後、砕け散った。
大きな氷狼は、雪の結晶に戻った。




