ノスタルジックな下町の文章ください
街の底まで雪が降りてきたある日のこと。夕方になって、ぽつりぽつりと建物に灯がともりはじめた。
空から降りしきる雪の一群が、不意に下方からの熱気を受けて溶けだす。名残の水滴は煤を吹き上げる煙突の暗い内部へと落ちていき、長い降下の果てに燃えさかるボイラの中で蒸発する。大釜の鉄扉が開いて、外から人の顔が覗いたかと思うと、大量の薪が投げ込まれる。あかあかとした火室に比して薄暗い釜場に出てみれば、ここで立ち働く主人以外の人気も感じられず寒々しい。だが分厚く塗られた石壁の向こうでは、いま大勢の人間が裸で湯を浴びているところだ。
浴場の壁には真っ青な海が広がっている。タイル床の上で子供たちがはしゃぎまわり、ちょうどガラス戸を開けて風呂場に入ってきた客が顔をしかめる。戸の先の温室めいた脱衣所を抜けると、湯上がりの客たちが死んだように雑魚寝している座敷間があり、ここでは番台に座った老婆が鋭い視線を射下ろしている。その目に見送られて、火照る体をコートに包んだ少女はしんしんと冷える外の通りへと出た。
銭湯の母屋は正面から見ると立派な宮造りになっていて、瓦ぶきの庇の下、湯屋への入り口を男女二つに配している。夕刻だというのに辺りはすでに暗く、母屋から漏れる光も煌々として、通りのおもてでは先刻から降り積もっていた雪が、玄関の両脇に立つ灯篭の火を受けてひかっている。
軒下でマフラーをしっかりと巻き直しているうちに、右手にあるもう一つの格子戸が引かれて、暖簾ごしに自分と似たような背格好の少年が姿を見せた。目が合った。
すごい、偶然だね、と少女は少し早口で言う。
ほんと、久しぶりだね、と少年が驚いた顔で言う。
灯篭の火が風に揺れて、二人の影もゆらゆらと雪の上を滑った。
ぽつんと遠くに見える蛍光灯よりむしろ、頭上に掲げられた無数の看板のイルミネーションが、繁華街へと通じる街路を照らしている。互いの行先を聞かないまま、二人は通りに沿って歩いた。
学校はどう?こっちの暮らしはもう、慣れた?
わからない、と少女は答える。
入学してすぐに冬が来て、寒くて。
うん。僕も初めてこっちに来た時、そう思った。
でも、学校すごく上の方にあるよね。それだと余計寒いかも。
校舎の中はあったかいけどね。
でもやっぱりすごいよ。
え、なにが?
村にいたときは正直よくわからなかったけど、こっちに来て本当にすごいって思った。
もしかして学校のこと?
私なんか地下鉄降りてすぐだよ。底辺。
でも、毎日上っていくの大変だけど。
えー。どうせ立派な昇降機とかあるんでしょ。
でもあんまり使わない。混んでるし。
潔癖症。直さないと。
少女はそう言ってから、ふいに視界の端にぽっかりと欠けた闇を感じた。見ると建物にはさまれた狭い空間で、そこに黒々とした影がやどっている。立ち止まって、目をこらした。
――あれ。神社がある。
たしかに、そこにぼうと浮かび上がったのは赤い鳥居で、左右の雑居ビルに圧迫されて窮屈そうにしながら、奥の暗がりと街路とを分けている。ひときわ闇を濃くしているのは、どうやら鎮守の森らしい。鳥居の背は低く、半ばは雪に埋もれていて、反りをうった横木の上にも、くたびれたような雪が積もっている。熱心な神主の仕事なのか、参道からは雪が払われているので、まるでそこに細い雪の隧道ができているように見える。
ちゃんと入れるみたい、と言いながら少女は鳥居へと歩き出す。
お参りしてたら湯冷めするよ、と言いながら少年が後ろに続く。
でも挨拶はしないと。わたし、こんなところにお社があるなんて知らなかったの。
真っ暗な道を歩いていくと、やがて参道は右に折れてそこから傾斜のきつい坂となり、雑居ビルの裏側をのぼりはじめた。もう一方の側は、依然として鬱蒼とした林が視界を遮っている。
これ戻ってるね、と少年が言う。このまま行くと銭湯の裏手に出ると思う。
目の前の少女はどんどんと坂を上っていく。両肩に下げた鞄が軽く上下に揺れ、つりさげられた毛むくじゃらのマスコットが振動に合わせてあちらを向いたり、こちらを向いたりしている。
坂を上りながら、どれも閉め切られた雑居ビルのガラス窓のひとつを少年が覗くと、そこはうらさびれた食堂の一隅で、卓の上に投げ出された青白い腕や、スツールに絡む脚が、一枚の静物画のように動かないままでいる。かと思うとそれは煙草にけむる酒場に変わり、そこではすがたかたちの不明瞭な人間たちが、大仰な身振りでなにかを語り交わしている。誰もいないパン屋のカウンターと、明かりの落とされた事務室が見える。それから建物の連なりが切れて、銭湯の大屋根と煙突がその先に現れたとき、道も途絶えて二人は境内に着いた。
少女がしゃがんだ格好で拝を続けているあいだ、少年は境内の入り口の前で、雪に沈む町と濁った煙をふきあげる銭湯の煙突とを交互に見ていた。境内は丘の上にあるので、ここでは普段よりも近くに煙突が感じられ、そのせいかこの無骨な円筒が、雑多で狭苦しい下町に比べ場違いなほど巨大であることがあらためて異様に思えた。それは貧相なアパートやビルディング、商館街のアーケードをはるかに凌いで、町の上空に屹立していた。その根は湯屋の裏側にある釜場へとのびているのだが、さきほどからその小さな裏戸が開いていて、銭湯の主人が外に積まれた薪を中へと運びこんでいるのが見える。ここから釜場までなだらかな斜面が続いていて、それが一面雪に覆われているのが、釜場の裏戸から漏れだす光で薄く照らされている。
ざくりざくりと雪を踏みながら、少女が近づいてくる。少年の頭の中で、毛むくじゃらのマスコットが揺れる。それは昔、友人たちと一緒に、縁日の屋台で買った安っぽいまじないの品だ。掛け小屋の中に座る香具師はただひとり少年だけを指して、あなたにはこれが必要だから、と笑みを浮かべる。あなたは遠くに行くことになるから。それじゃ、みんなで買おうよ、と浴衣姿の少女が隣で笑いながら言う。
夜空に花火が上がり、見上げる二人の顔を照らした。
雪、止んだね。そう少女が言う。
うん。もしかしたら、星が見えるかも。
見えないよ。こんなに明るいと。
じゃ、もう帰ろう。
わたし、変なこと神様に祈っちゃったかも。
帰るあいだに風邪引きませんようにって?
あ、それ今からでも遅くないよ。
もう、いいよ。迷惑だろうし。
そうじゃなくてね、学校はやく終わりますようにって。
それから?
それから?
うん。それからどうするの?村に帰る?
わからない。
――僕は、学校を出て、別の場所に行こうと思ってるけど。
例えばどんなところ?
うーん。山がないとこ。起伏が激しくないところ。海とか。
ここ、内陸だもんね。
あ、いまちょっと馬鹿にした?
えー、してないよ。
二人はもと来た道を逆に辿り始める。ちょうど銭湯の裏口が閉められ、周囲を照らしていたわずかな灯が消えた。湯屋はいま、その機関部だけが運動を続ける、座礁した大型船のように見える。