化石の家
アパートの自宅の鍵を開け、扉のノブを回す。ただいま、と言っても、誰かが迎えてくれるわけではない。部屋に上がると、居間のテーブルには洗っていないコップだとか、使いきった単四電池だとか、空き箱に積まれたティッシュ箱だとか、袋の口が開いたスナック菓子だとかが散らばっている。かき分けてスペースを確保し、持っていた紙袋を置いた。
紙袋の持ち手から開放されると、私は両手と共に財布を投げ出し、仰向けに寝転がった。窓からじりじりと照りつける七月の日差しが眩しい。思わず目を細め、窓とは反対の方に顔を向ける。
部屋の隅、誰かが帰ってくるであろう襖を見つめるように仏壇が立っているのが目に入る。私はのっそりと起き上がり、大戸の閉じられた仏壇に歩み寄った。近づくにつれ、影が唐木の茶色を薄く覆う。一瞬手を伸ばしかけたが、線香の代わりにポテトの匂いが漂ってくるのを感じ、やめた。
紙袋からポテトやハンバーガー、シェーキを取り出し、少し遅めの昼食を狭いテーブルの上に広げる。椅子に着く傍ら、こしょこしょとくすぐったい音が聞こえてくる。空いた椅子の隣に置かれたケージの中で、飼育用の床材が擦れる音だ。私が帰ってきた音を聞きつけたのか、チロリの鼻先だけが巣箱の中からひょっこり覗く。
母が死んでから三ヶ月が経とうとしていた。仕事を終えた帰りの夕方にトラックに轢かれて死んだという。大学一年生に進学してすぐのことだった。
葬儀や煩雑な手続きを済ませてから暫くの間は、バイトで貯めた貯金を使って色々な物を買った。新しく発売されたばかりのゲーム機。文具店でセット売りにされていた水彩画の画材一式。オリジナルの曲を作れるソフトなんかも買ってみたが、一週間後にはビーズを繋いで動物を形作るキットを手に取っていた。ここ最近は熱が冷めたようにめっきり買い物に行かなくなったが、そうなる直前、私が最後に買ったのがジャンガリアンハムスターだった。
酒に弱いくせに酒器の名前から取ってチロリと名付けてみたり、暇な時はケージから出してみたり、気付けば一ヶ月継続して飼育していた。もともとは大学の学費ためにと貯金してあったものだったが、今ではハムスターの飼育にお金を回している。
蛍光灯の明かりは点けず、窓から差し込む光を頼りにポテトを食べる。私はポテトを三分の一ほど残し、チーズバーガーの包み紙を開け、まるっと平らげてからシェーキを胃に流し込んだ。
さっきまで鼻をひくひくさせていたのに、チロリはもう巣箱の奥に入り込んでしまっている。見えなくなってつまらないなと思いながらポテトを摘もうとした。その時、私の身体に異変が起こった。
鳩尾より少し上の辺り、胃がぐっと縮まるような感覚。ポテトを摘もうとした右手を胸に当て、この嫌な感じはなんだろうと思った直後、猛烈な吐き気が私を襲った。
胸の右手を口に移し、急いで傍にあったごみ箱に顔を突っ込む。拍子に椅子が倒れてしまったが、そちらに気を取られている余裕はない。突然の吐き気に驚きながらも、冷静な部分の私が状況を理解しようとする。この症状の名前を私は知っている気がした。確か、よく胃がむかむかするとか脂っこいものを食べるとなりやすいとか聞く、あの症状だろう。しかし、いざこうなった時の対処法は知らない、素直に吐いてよいものなのだろうか――。
数分ばかり時が経っても胸の苦しさは消えず、額に脂汗が浮かぶ。ファーストフードにしたのがいけなかったと自省していると、視界に映る景色がほんの一瞬、揺らいだ。ますます気持ち悪くなりそうになり、私は固く目を閉じた。
胸焼けには牛乳を飲むといいんだよ。遠くで声が聞こえる。そうだ、これは胸焼けという名前だった。それにしても幻聴にしてはリアルな声だ。その上、とうとう幻触も感じるほどになってしまったのか、背中をさすられる感覚すらある。どこか母親が子供にしてやるような手つきで……間違いなく、何者かに背中をさすられている気がするのは、気のせいだろうか。
耳の横を流れる髪の隙間から、誰かが隣に座っているのが見える。自分かハムスター以外の誰かが自宅にいるのはありえないのだが、例えばこれが母の霊だったらどんなによかっただろう。私は重たい頭を持ち上げた。横にいたのは母でも知人でもなく、見知らぬ人……見たこともない男が、私の顔色を窺っていたのだ。
男と目を合わせたまま、私は絶句している口を閉じられないでいる。男の方も黙って隣人の顔を見つめる。時が止まってしまったかのように、私の顔は凍りついていたことだろう。そんな様子に気付いていないのか、或いはなんとも思っていないのか、
「楽になった?」
と、男は微笑むのだった。
閉口し、唾を飲み込む。吐き気はとうに引いていた。けして背中をさすって貰ったからではない。
「まだ具合が悪いようなら水だけでも飲むといいよ。僕はそろそろ行くね」
男は立ち上がり、すたすたと玄関の向こうへ消えようとしていた。咄嗟に、どこへ行くの、と言葉を投げると、男は不思議そうな顔をして振り返った。どこって、大学だよ。午後から講義だから。玄関前の廊下に置かれたカーキ色のショルダーバッグを肩にかけ、思い出したように続ける。
「そうだ、さよ。大学の後はバイトだから、スズに餌、よろしくね」
男はまるで我が家から出かけるかのように玄関の扉を開けた。さよ。名前を呼ばれたが、私の口は返事の仕方を忘れている。扉の向こう側を歩く足音が遠くなっていく。私は、ただ呆然と男を見送ることしか出来なかった。
それから、何分経ったか分からない。傍らには先ほど倒した椅子が横たわっている。私はおもむろに立ち上がり、椅子をもとの形に戻した。
唇に指を当てて部屋の中を歩き回る。さっきの男の行動を再現しようと無意味にごみ箱と玄関とを行き来していた。そうしているうち、居間の景色が若干変わっていることに気付く。
ハムスターを家に連れ帰った当時、ケージを置くのに最適なスペースは母の仏壇で埋められてしまっていたので、以前母が座っていた椅子の隣をケージの置き場所にしていた。始めにおやと思ったのは、その椅子の横に置いてあった筈のハムスターのケージが無くなっていたことだ。首を傾げて襖の横を見ると、茶色い四角い仏壇が大きな檻に変わっている。檻の中には砂の入った大きな器があり、外側には給水器が取り付けられている。中に生き物はいないが、そこで動物を飼っているかのような出で立ちだ。そう、ちょうどハムスターのケージを拡大したような。
ちりんちりんと、鈴の音が背後に聞こえた。私は音がした方を確認することが出来ないでいる。すると音を鳴らしていたものが目の前に躍り出た。
鈴付きの首輪を付けた猫が股の間から出てきて、細い瞳が私を見上げてくる。その瞳と目が合うと、サバトラ模様の猫がにゃあと呼びかけるような声を出した。男がスズと言っていたことを思い出しながら、私は目眩のする頭を押さえた。
男が出て行ってから胸騒ぎを覚えた私は、母の部屋に続く襖をそっと開けてみた。そして、いよいよ嫌な予感は的中する。
生前、母は淡いピンク色の雑貨が好きだった。可愛らしい雰囲気に包まれた部屋を想像した私の頭は、重いサイトを開いてしまったパソコンのようにフリーズする。木製のベッドはパイプベッドになっていたし、カレンダーがかかっていた筈の壁には黒いトレンチコートがぶら下がっている。薄紅色のフレームと、文字盤にはプーさんの絵があった壁掛け時計は、くすんだ青色のフレームになって無地の文字盤に変わっている。母の私物はまるきり姿を消し、固い鈍色が平然と部屋を占領していたのだ。部屋の中に入るのは躊躇われたが、もたもたしていると男が帰ってきてしまうような気がして、私は意を決して男の部屋に足を踏み入れた。
柔らかなカーペットが家長の侵入を迎え入れる。母の気配は一切感じられず、誰かの家に忍び込んでいるような錯覚に陥った。ガラスのテーブルが真ん中にあり、ラックの上に置かれた薄型のテレビと、クローゼット、枕のないベッド、開かれたノートパソコンが乗った机がそれぞれ壁を背に立っている。机の横には背の高い本棚が立っていて、一番下には大学ノートや教科書が整頓されて入っていた。
私は本棚の前に跪き、男が所有していると思われるノートに手を出した。片端から開いては閉じ、元の場所に戻すのを繰り返す。男にしては綺麗な字だとか、文学を学んでいるらしいとか、輪郭だけはおぼろげに見えるが核心は掴めない。ノートを一冊手にとって、ページを飛ばし飛ばし捲ってから閉じた時、ある文字を裏表紙の端に見かけた。
『保』……黒マジックで書かれていた文字。たもつ、と口から声が漏れる。表紙を表にして閉じていたから分からなかったが、どうやら全ての裏表紙に名前が書かれているようだ。自分の持ち物には名前を書きなさい、という母の言葉が胸に蘇る。
名前だけを繰り返し読み、なんとなく満足した私は、いつもの癖で椅子に座りノートパソコンの電源をつけた。これが自分のパソコンではないことに気付いたのは、パスワードを入力する画面が表示されてからだった。
自室の照明を点け、中を見渡す。埃の被った画材。新品のスニーカー。床に敷かれた未完成のパズルピース。趣味に昇華される前に飽きられた娯楽達。部屋の片隅に見て、すぐに片足を踏み出す。私は机の上に置かれたノートパソコンに目を留める。透明な小箱に手が当たり、ビーズがぱらぱらと端からこぼれていったが、気にも留めずに電源をつけた。
ブラウザを立ち上げ、真っ先に『お気に入り』のボタンをクリックする。ミクシィ。ツイッター。知恵袋。発言小町……2ちゃんねる、までカーソルを合わせて、私は一覧を閉じた。
机の下では猫が構って欲しそうに私の足に頭をすりつけている。抱き上げようと脇の下に手を入れてみるが、意外と重くて持ち上がらない。そういえば、私は今までに猫を抱いた経験がない。中途半端に浮いた上半身が手の中でもがき始めたので、床に下ろしてやる。
ノートパソコンを閉じ、私は自室を出た。居間の窓から差し込む光が檻のある方に少し傾いて、内角をオレンジ色に染めている。猫も一緒についてきて長い尾を足に絡める。よく馴れているな、と私は思った。
スズに餌をとあの男は言っていた。この猫がスズだとしたら、仏壇が消えた代わりに檻が出現したのと同じように、この家のどこかに猫の餌があることだろう。私は猫の餌を探すことにした。探す、と言っても、どこにあるのか見当もつかない。檻の周りをうろついていると、猫の尾が膝の裏をするりと掠め、廊下に続く襖の前でちりんと鈴を鳴らした。襖を開けてやると、今度は台所へ向かう。ここに十年以上は住んでいる筈だが、私よりも猫の方が家のことをよく知っているのではないかとさえ思えてきた。先導されるままについていき、白いワゴンの前で止まる。ワゴンのガラス戸の向こうにキャットフードと餌皿が隠れていた。
キャットフードの袋には餌を与える量が記載されていたが、見方が分からない。あげるに越したことはないだろうと、とりあえず餌皿に盛り付けて猫に与える。
待ってましたと言わんばかりに猫が餌に食らいつく。首輪に付いている鈴が餌皿に当たって、こつこつと固い音を鳴らす。餌に夢中になっている背中を見ていると、無意識のうちに手が伸びていた。柔らかな毛が手の平に触れ、猫のぬくもりが心臓に伝わってくる。暖かな気分に浸りかけたところで、不意にチロリが脳裏を過ぎった。
男の部屋も自分の部屋も見たが、どの部屋にもケージは見当たらなかった。家にチロリがいる様子はない。ならば、どこへ行ってしまったのか?
いても立ってもいられなくなり、私は猫を尻目に玄関から外に飛び出した。外へ出た途端、ぐにゃりと世界が歪む。立ちくらみでも起こしただろうか。家ごとに並ぶ扉が等間隔でなくなり、あらぬ方向にアパートの廊下が伸びていく。地面が揺れ、私の身体は大きく傾いた。
肌にまとわり付くような蒸し暑さと床の固さに目を覚ました。鼻に何か当たっていると思ったら、さっきまで抱きかかえていたごみ箱の側面だった。節々の痛みに耐えて起き上がる。周りを見渡してみるが、暗くてよくわからない。寝ていた所を触ると、まだ人肌の温度が残っている。
手探りにリモコンを探し照明を点ける。久方ぶりに照明を点けたせいか、瞳に光がとめどなく押し寄せてきて鈍痛が眼球の中を蠢く。何回か瞬きをしてゆっくりと瞼を持ち上げる。居間には椅子が倒れていて、チロリがケージの中で床材を噛んでいて、唐木の仏壇が部屋の隅に佇んでいた。私のよく知っている景色だ。
欠伸をしてから軽く後頭部をかき、時間を確認しようと時計を探した。ビデオデッキの液晶は八時過ぎであることを示している。日が落ちるまで眠っていたことは予想外だったが、今まで見ていた密な夢を思うと不思議と納得出来る。私はチロリの名前を呼び、ケージの隙間に指を突っ込んだ。鼻をしきりに動かして匂いをかいだあと、人差し指を甘噛みしてくる。チロリの後ろにある餌皿のキャベツがしなびている。私は再びチロリと呼んだ。
ふと、テーブルを見上げる。ファーストフードのロゴが印刷された紙袋と共に、食べ残しのポテト。遅い昼食だったとは言え、とっくに消化されていてもおかしくない頃合いだ。ただ、これを食べる気にはもうなれない。
私は居間に広がる大量のがらくたの山で財布探しを始めることになった。ハンバーガーを買って帰った時に近くに放ったような気がするが、どこへやったかは記憶にない。中途半端な大きさのビニール袋や、たぶん二度と使わない髪飾り、組を無くした靴下などがそこら中に散乱している。片付けなければいけないなと思いつつ、もうずっと身の回りに散らかる小物を放置していた。ごみに対する未練などはこれっぽっちもないはずなのに、私は捨てるべきものを捨てることを怠けている。
部屋の隅っこで、さっきから仏壇が私の動きをじっと見ている。閉ざされた大戸がだんだんと透き通り、顔が浮かび上がる。モノクロのまま動かない、映写機の一場面を切り取ったような母の顔だ。
どうしても財布が見つからず、私はとうとうがらくたの山から手を引いた。仏壇の方をなるべく見ないようにして、母の部屋へ急ぐ。お金がないと仕方がないので調達しなければならない。
部屋に充満していた母の匂いが身体を包む。母のものだった小物や家具は、夢を見る前と変わらずそこにあった。時が止まった世界の中で、石になって眠っている。眠っていながら、地蔵のような虚ろな目で一斉にこちらに注目してくる気がした。
よく神聖な場所に立つと落ち着くとか、心が洗われるとか言って、宗教を理解していなくても進んで寺院に立ち入る人がいる。寺院は黙って迎え入れるだけだが、この家は今、貪欲に生者を待ち構えて長い腕を広げている。木製のベッドが乱れたシーツと布団を身にまとって、優しい言葉で私に囁く。お前もここで化石にならないかと。私はそんな声には気付かないふりをして、棚の上の貯金箱を引ったくり中から千円札を取り出す。震える貯金箱から小銭が数枚ほど滑り落ちていく。
遠くで回し車が回り始める音が聞こえてくる。回し車は私の背中から伸びる蜘蛛の糸を巻き取り、重い肉体を引き寄せていく。廊下まで後ずさった私は千円札を握り締めた。居間のテーブルに鍵があったことを思い出したが、取りに戻らず逃げるように玄関へ向かった。
アパートから歩いて五分もしない所にコンビニがある。何も羽織らずに出てしまったが、涼しくはない。身体に貼り付いた家の匂いを生ぬるい風が剥がしていくようだった。
カロリナポプラの街路樹を十三本数えるとコンビニの明かりが見えてくる。光源を蓄えた店が煌々と辺りを照らしていた。私の身体は光に集る虫のように吸い寄せられていく。
自動ドアが開いたのを合図にいらっしゃいませと店員が声を上げる。店内に入った私は、弁当のコーナーへ立ち寄った。品数はもう残り少ない。食べられそうなものはないかと視線を横にスライドしていく。惣菜と、生野菜が売られているコーナーに移っていく。
この近辺には住宅が多く、かつスーパーもここからは少し遠い場所にあるため、主婦が買うような食品もこのコンビニに置かれていた。昼にあった事態を思い出した私は、コンビニ弁当ではなくもう少しまともな食材にしようかと惣菜売り場を眺める。
商品を吟味しているうち、サラダとひじき煮のパッケージに目が留まる。これなら多少はましかもしれないなと手に取ろうとした。商品に手をかけた瞬間に、私の手がどす黒く変色しているのを見た。
ぎょっとして手を引っ込めると、次第に店内が青白くなっていく。同時に、鳩尾より少し上の辺りに強い圧迫感。この気持ち悪さはつい数時間前に経験していた。しかし、今は胃の中には何も残っていない状態である筈で、それに昼に体験した吐き気とは少し違う感じがした。それでも戻しそうになる胃に耐え切れず、私は口を押さえて座り込んだ。
目に映る景色が揺らぐ。私は男の存在を思い描いた。男が横に座り、背中をさすっている。デジャヴのような曖昧な記憶の中で微笑み、さよ、と名前を呼ぶ。倒れそうになる私の手を、骨ばった手が掴んだ。
「何やってるの。早く帰るよ」
上から声が降ってきたかと思うと、誰かが私の腕を引いた。声を聞いた瞬間から、あの男だ、と分かった。
私は抵抗もせず、引っ張られるままにコンビニを出ていく。前を歩く背中は無言のままで、向かい風を一身に受け止めている。私と同じぐらいの背なのに、すごい力で一人分の身体を前進させる。
気付くと私は男と手を繋いでいた。繋いだ所から男の体温が伝わってきて、手の中にじんわりと汗が滲んでくる。夢の中でもしっかり五感が働いているんだなと思うと、今目に見えているものは本当に夢なのか怪しくなってくる。後ろを歩きながら、横を通り過ぎる風に紛れて男の匂いが運ばれてくる気がした。
自宅に着くと、私の身体は居間へ通される。テーブルには紙袋も食べ残しのポテトもなく、薄茶色に木目調の模様が露になっていた。うちのテーブルはこんな模様をしていたのか、と思わずまじまじと見つめてしまう。
「オレンジジュースとアイスティー、どっちにする?」
男がペットボトルを二本、私に差し出した。二本をじっと見比べてから、オレンジジュースを受け取る。男はにっと笑い、こっちは閉まっておくねと言って台所の方へ消えた。冷蔵庫の扉を開閉する音が聞こえてくる。どんな設定かは知らないが、まるで同棲しているかのような振舞い方だ。
部屋を一通り見渡すが、やはりハムスターのケージは見当たらない。母の椅子の隣に置いてあった筈の空間はぽっかりと空いていた。この世界は最初から何も無かったような顔をしてケージの存在を消している。
両手に缶を一本ずつ持った男が横切り、迷いなく母の席に座った。そこは、と声をかけようとして、口を閉じる。男はきみも座りなよと言って私を促した。私は何も言わずに席に着く。
「一緒に晩酌したいと思ってさ。いいかな」
男は缶のプルトップを指にかけた。飲み口からぽんと中の空気が勢いよく噴出する。返事を待つことなく男は缶を傾けた。口の中で弾けそうな色の缶が蛍光灯の下でちらつく。私もペットボトルの蓋を緩める。
「あの猫はいないんだね」
「あの猫って?」
「ええと……スズのことだよ」
ケージを探すついでにサバトラ模様を視界に捉えようとしていたのだが、どうやら猫もいないように見える。チロリと違うところは、仏壇があった場所にあの猫の檻があることだ。
「スズなら、今はきみの部屋で寝てると思うけど」
この部屋より君の部屋の方が涼しいからね、と付け足す。そうだっただろうか、と夢ではない方の自室を思い浮かべた。娯楽の残骸を捨てる以外に暫く行っていないせいか、どんな空気だったか思い出せない。
「鈴を付けているからスズ、か」
ぽつりと呟く。いつか夢に見た、サバトラ模様の猫。首輪に付けた鈴を鳴らして、にゃあと鳴く。
「何、もう忘れたの。さよが名付けたのに」
「……そうだっけ」
「一年前に拾ってきたのは誰だい」
「……私?」
そうだよ。男は私を指差した。私の知らないところで、私を中心とした事情が勝手に作り上げられている。
「ほら、喉がころころ鳴って鈴みたいな響きだから、スズにしようって」
鈴みたいな響きだから。男の言葉が引っかかった。そんなふうに考えたことがあった覚えがある。確か、今から一ヶ月前のことになるだろうか。
「そう……だったね。思い出した」
私には猫を拾った覚えもないし、スズと名付けた覚えもない。しかし、どうやら全てが架空の設定というわけでもないようだ。
「そ。なら、いいけど」
男は首をのけぞらせて缶の酒をくっと飲み込んだ。さらりと黒髪が後ろに流れる。喉仏が上下に動く。私はその動きにじっと見入っていた。
「私のお母さん、どこにいるか知ってる?」
我ながら唐突な質問だと思う。何故それを自分に訊くのかとも言わずに、男は右上に目を遣った。
「実家にいる、とは聞いているよ。きみから」
「じゃあ、私達はこの家で同棲している?」
「そうなるね」
「なるほどね」
なるほどって何さ、と男は愉快そうに笑った。笑った顔に赤みが差している。何でもないよと私も少し笑って、オレンジジュースを胃に流し込む。少し叩けば矛盾がごろごろ出てきそうなものだが、あえて突っ込まないことにした。どうせ夢の中なのだ、明らかにおかしな説明を聞いても私は納得してしまうだろう。
「会いたいの?」
男の顔から笑みが消え、尋ねた。
「うん」
「会えばいいじゃない」
「……うん」
「会えないの?」
「……」
返事はせず、俯いた。男は酒を一口呷った。ごくりと飲み干して、空になった缶をテーブルに置く。ポテトも娯楽品もないテーブルは、手を伸ばせばどこにでも置ける。
「たぶん、会いに来てくれるよ。そんなに遠くもないし」
「……」
「ま、暫くは気付けないものかもしれないけどさ。ずっとさよの近くにいるよ。さよが思ってるよりももっと近くにね」
男は二本目の缶を開けた。饒舌になる男とは反比例して、私はどんどん無口になる。地蔵のように、化石のように、物言わぬ人形となっていく。遊んでいた誰かの手から離れ、置き去りにされた人形だ。名前を呼ばれていた筈なのだが、私は人形の名前を思い出せない。夢の中の見知らぬ男にすら名前があるというのに。
ちりん。鈴の音が聞こえた。顔も上げないでいると、鈴の音がだんだんと私のもとに近付いてくる。視界の端にサバトラ模様の猫が現れ、にゃあと鳴いた。
「呼んでるよ」
ペットボトルをテーブルに置く。脇の下に手を差し入れ、猫を持ち上げた。腕に力を入れ、今度はしっかり抱き上げる。柔らかく、温かく、ずっと触っていたくなるような肌触り。顎の下を撫でると、ころころと鈴が鳴るような音を出す。スズは、とても愛らしい姿をしていた。
「よく懐いてるなぁ。さすがご主人様」
様子を見ていた男が感心したように声を上げる。
「この子はあなたと一緒に飼っているんでしょう?」
「ん……まあ半分はそうかもしれないけど。さよが名付け親だろう?」
私が名付けたのはチロリだけだ、と言おうとして口を開きかけた。
声を出そうとした咽頭にかけて、胃から何かが迫ってくるような感覚。鳩尾より少し上の辺り、胃がぐっと縮まる。吐き気がすぐそこまで近付いてくる。まただ、と私はすぐに思った。
異変を察知したスズが腕から逃れて床へ降り立つ。スズを抱いていた右手を口に移し、急いで傍にあったごみ箱に顔を突っ込んだ。拍子に椅子が倒れてしまう。
「大丈夫?」
慌てて席を立ち、男が私の横で膝を屈める。妙に懐かしいような、身に覚えのある辛さ。男が背中をさすってくるが、平気だと言ってその手を払いのけた。私はオレンジジュースしか飲んでいないし、大体これは夢だ。夢にしてはリアルだが、この吐き気も一時的なものだろう。そう思っていた。
私の考えは当てが外れた。こみ上げる気持ち悪さが異物となって食道へと逆流してくる。大量の水を溜めていたダムの壁が決壊した時のように、嘔吐する。ピークはほんの一瞬だった。
数秒後、吐き気から解放された私は、何の気なしにごみ箱の中を見た。思わず、顔を歪める。ただ単純に吐瀉物を目の当たりにしたからではない。胃酸の匂いがつんと鼻の奥を刺激する。それに混じって、記憶の隅に追いやられていたもの。
噛み砕かれたハンバーガーが、異臭を放って袋の底に溜まっていたのだ。
「大丈夫かい? また胸焼けでも――」
咄嗟に男を突き飛ばす。腕を広げてごみ箱に蓋をした。飛び散った汚れが身体に付くのも構わずに覆い被さる。これを見られてはいけない。青年が楽園で玉手箱を貰い受けた物語とは、今まさに逆のことが起こっている。いつから私は現実を夢の中にまで持ち込んでしまったのか。
突き飛ばされた男は尻餅をついて、驚いた顔で私を見ている。その顔の輪郭が次第にぼやけ、世界がぐにゃりと歪む。頭が目眩を起こしているのを感じた。ゆっくりと身体が傾いていき、床にぶつかるまであと少しというところで意識が途切れる。
さよ、と、男の口が動いた気がした。
床がとても冷たい。そっと目を開けると、薄汚れた床が天井の照明を白く反射している。横になっていた私は、上半身を床と垂直にする。
「ああ、気が付きましたか。気分はどうです?」
たった今救急車を呼ぼうとしていたところなんですよ。のんびりした声と共に、青と白のストライプジャケットを着た男性が駆け寄ってくる。
コンビニで買い物をしていたことを思い出した私は、急に恥ずかしくなって、すみません、もう大丈夫ですと弱々しく声を出した。早く立ち上がって買い物を済ませなければ。膝に手をつき、無理やりに身体を起こす。まるで全て嘘だったかのように、さっきまで見ていた夢は目覚めと同時に立ち消えてしまった。
「なら、よかった……それ、買われます?」
店員は横の陳列棚を指差した。惣菜売り場には、サラダとひじき煮のパックが一番下の段まで落ちている。
「……はい」
冷房がきいた店内は涼しいというよりは寒いぐらいに冷え切っている。鳥肌が立つのを抑えられず、私は両肘を抱いた。手の平は冷えを吸い取って、僅かに肌に熱を与える。
惣菜売り場の隣にある、野菜売り場に目を遣る。もやし。小松菜。ニンジン。キャベツ。新鮮というほどではないが、どれも自然の恵みをいっぱいに受けてきた食材。
「待ってください。あのキャベツも一つ、ください」
惣菜を持ってレジへ向かう店員を呼び止め、私は野菜売り場に向かって手を伸ばした。
私の腕はぞっとするほど白く、静かに静脈が波打っていた。