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少し未来の、ちょっとした苦悩

作者: カーペンター

 こんがり茶色に焼いたトーストにバターを塗り、食べる。口の中でパンを咀嚼しながら左手の手首を二回振る、即座に手首に巻かれていた端末が反応し、僕が手を前方斜め上ぐらいにかざすとホログラムディスプレイが現れ、ユーザーである僕にどの機能を使うのかを尋ねてくる。僕は、人差指でまずニュースサイトを選択する。端末は僕の命令を受け、いつもの大手報道機関サイトに跳ぶ。めぼしいニュースをざっとチェックする。内容はほぼいつもの通り。税金が上がるか上がらないかだとか、国民年金制度はもう十年もしないうちにつぶれるだとか、株価が上がったの下がったのだとか、最近ASが急速に増えてきているだとか、そういった話ばかり。この世界はよく飽きもせず、同じ内容のニュースを作り続けるものだ。いや、ニュースになるようなことをしでかしているのは人間であって世界ではないか。

 そんなくだらない事をぼんやり思いながら、僕は左手の手首を小さく一回動かす。右手のパンをもう一口分、口の中に運ぶ。またも端末は僕にどの機能を使うのかを尋ねてくる。僕はテレビを選択する。即座にテレビ台の上に設置されていたテレビが起動する。ディスプレイは僕のテレビで見られる番組を全て列挙し、その中からこの番組はどうかと推奨してくる。僕の今までの嗜好を記録し、それを全て分析したうえで教えてくれるものだから、大抵僕の趣味に合う。迷わずにそれを選択する。

 朝のニュース番組だった。僕にとってこの時間はこれだ。ほぼ毎日携帯端末は僕にこの番組を見るよう推奨し、そして僕はほぼ毎日これを見ている。ニュースキャスターは僕がついさっきサイトで読んだ情報と同じような趣旨の内容が書かれているニュース原稿を読み上げている。こっちは感情がこもっているため、文字媒体とは違い、情報のどの部分に注意を向けておけばいいのかが聴覚的に分かる。ただ人間の情がこもっている分、少し暑苦しくもあるが。適当に聞いていると、ニュースをただ読み上げていたキャスターがゲストと話し始める。

「…最近、ASが増えた理由として、経済的不安を抱えた人が増えたという意見がありますが、どうでしょうか」

「そうですね、やはりそれも一つの見方でしょう。税金は上がる一方。年金制度だって今、潰れる潰れると騒いでいますが、もう実際潰れているようなものでしょう。確かに未だに毎月、年金として給付されてはいますがもう雀の涙ぐらいの額です。私、以前聞いてびっくりしたんですけどこの前公園で集団自殺している人がいたらしいじゃないですか。今の社会、ここまで来たかって思いましたよ。お金がかかりすぎるんですよ、とにかく。生きるというただそれだけ、最低限の生存権を確保するだけでもとてつもない努力が必要とされているのが現代社会の病理といってもいいでしょう」

 コメンテーターが発する何のセンスもないことを聞きながら、僕はパンを食べ終える。端末を二度



 学校に到着し、一時間目の数学、二時間目の英語、三時間目の家庭科を終え、昼休みに入る。僕は朝方来る途中にコンビニで買っておいたパンをカバンの中から取り出す。学食はどうも人が多くて苦手だ。

 焼きそばパンを頬張りながら、僕はクラスの中で交わされる雑談に耳を傾ける。大抵下らないことばかり喋っているが、食事中の暇つぶしにはちょうどいいのだ。親がうざい、受験が苦しい、宿題が難しいと言った学生なら珍しくもない悩みの数々。ほぼ全ての話題を聞き流し、それでも一つだけ僕の気を引く話題があった。

「NHV、来週だけどどんな感じ」

 クラスメイトの女子の声。とっさに名前が頭の中に浮かばなかったが、確か谷川だっけか。

「いやー、あれまじ無理。どうしようもない」

 それに答えた、やはりクラスメイトの女子の声。とっさに名前が頭の中に浮かばなかったが、十秒ぐらい思いだそうとしても浮かばなかったので、どうでも良くなった。

「だってあれって、基本対策出来ないように作られてるじゃん。元々そういう小手先のテクニックが通じにくいテストを作ることが趣旨なわけだし。今回も何も対策してないよ」

 どこまで本当なのやら、僕は心の中でそんな言葉を呟いた。

 NHV、Nationally-standardized Human Value testは僕が生まれる大体三十年前ぐらいから行われているテストだ。全国統一人間価値測定テストと言っている人たちもいる。

 このテストははっきり言って僕たちの全てだ。何故ならこのテストは進学、就職、更には結婚、社会保障制度の適用優先順まで決めてくるからだ。

 かつてテストというものは「学力」のみを査定するものだったらしい。僕もその頃のことを祖父から聞いたことがある。祖父曰く、それはそれで厳しいものだったらしいが、今の方がはるかに厳しいらしい。僕もそうなのではないかと思っている。

 何故ならば、NHVは学力という分かりやすい、限定的なものを測るものではないからだ。

 僕も何度もこのテストを受けているが、未だにこのテストにどんな意味があるのかはっきりとしない。一応テストの中に学力を測るための問題(五教科に分類できる問題などがそれだ)もちりばめられているが、それを遥かに上回るぐらいの量、よくわからない問題が入っている。心理テストみたいなものもあるし、こちらの計画性の有無や趣味嗜好を問うようなものまである。

 そしてNHV最大の特色は、正解が一般大衆に周知されていないということだ。どんな答えを書けば高得点をとれるのか、誰もわかっていない。ある程度想像をつけている人もいるらしいが、そんな人が書いた「NHV対策問題集」というものは僕の見る限り全て眉唾ものだった。大体が印税を狙っているような内容、とでも言えばいいのか。一度その本に書いていた通りにNHVを解いたことがあるが、結果は散々だった。

 問題を作っている文部科学省はだんまりを決め込んでおり、NHVはその中でどんな評価を下しているか分からないブラックボックスと化していた。そんな状態だからNHVについて怪しげな都市伝説まで生まれる始末。

 リュックから取り出した水筒からお茶を飲む。飲み終えると同時にため息。何でこんな理不尽としか形容しようがない、ある意味天災のような試験が出来てしまったのだろうか。

 いや、理由ははっきりしている。僕はそれを何度となく聞いてきた。

「社会は学力の高い者だけを優遇するべきにあらず」

「学力の高さと社会における有益性は全く別のもの」

 大まかにまとめればこんな理由だったと思う。難しい言い方をすれば、集団においてそのパフォーマンスを最高に高めるにはわざと怠け者を入れておかなければならないということだ。

 NHVは学力だけを測ることは決してない。あくまでも「社会における有益性」を測るのだ。怠け者だろうと集団の中で役に立つなら優遇されるし、勤勉な者だろうとその存在が周囲を脅かすのなら冷遇される。

 事実NHVがこんなよく分からない存在であるにも関わらず、三十年も存在し続けているのは本当にこのテストを導入することによって社会が安定してきたからだ。犯罪率はぐんぐん下がり、今となっては街に交番など滅多に見かけない。犯罪がないから、必要ないのだ。NHVは受験者のストレス値も測っているという都市伝説があるが、僕はそれは事実だと思っている。そうじゃなかったら、ここまで安定した社会はできない。金銭的な事情を考えてもれっきとした不公平が生まれているのに、何故か犯罪率が高くならない。

 僕たちはNHVに管理された方が幸福なのだ。



 ベルが鳴る。僕はシャープペンシルを置く。教員が教室の中を歩きながら生徒たちの問題用紙と答案用紙を回収していく。普段受けている学力テストなら一番後ろの席に座っている生徒に回収させるのだが、NHVテストは扱いが別だ。不正があってはならないから絶対に教師が回収する。

 まあ、不正しようにも正解が分からない以上、不正の使用もないのだが。そんなことを考えながら教員に問題用紙と答案用紙を渡す。今回も何を測っているのかよくわからないテストだった。通常授業なら一時間目にあたる時間に行われた最初のテストは体育館で行われ、身体検査のようなことも行ったし、横断歩道を渡るとき、どんな行動をとるかといった小学一年生レベルのこともやらされた。二時間目には全員でアクション映画も視聴したし(かなり面白かった)、三時間目には調理実習も行われた。全て教師による査定の下でだ。

 五、六時間目を貫く長時間のペーパーテストも終わり、さて帰り際にレンタルビデオでも借りに行くかと思っていると、後ろから何か尖ったものでつつかれた。教師は全ての答案を回収し、集計も終えている。小声でならもう喋っても問題はないだろう。

「どうした?」

 振り向きざまに問う。

「問い三十五、答え何にした?」

 知るか、と言ってやりたかったがこらえる。顔がいやに強張っている。心なしか顔色も悪い。大ポカでもしたのだろうか。

「すまん、問題番号忘れた。どんな問題だった?」

「旅行の時に持っていく荷物を積める順」

 ああ、あれか。でもあれって、そんなに考え込むような問題ではない気が…。

「携帯の充電器、下着、上着、ジーパン、酔い止め、常用薬、そっから先は忘れた」

「携帯…」

 後ろの席に座っている人の顔がさらに強張る。何か哀れになってきたので僕は励ますことにした。

「まあ、そう深刻に考えるなよ。あんなもの、ほとんど心理テストなんだから」

「そんなわけないだろう!」

 いきなり声を張り上げてくる。僕は反射的にびくっと体を震わす。前方にいる教師が怪訝そうな顔でこっちを見てくる。声を張り上げた人は、ハッとした顔になって恥ずかしそうな表情をする。ごめん、と消え入るような声で謝ってくる。僕は、怒鳴られたショックから少しの間フリーズしていたが、すぐに再起動し、別にいい、とだけ言っておいた。

 正面を向くと、教師はもうペーパーを封筒の中に入れていた。はい、終了です、一日お疲れ様でした、と言うとそのペーパーを職員室に持っていくべく、教室を後にする。生徒は帰り支度を始めたり、部活動に行く準備をしたり、掃除当番の者は後ろのロッカーに掃除機を取りに行ったりしている。僕も早く家に帰りたいので帰り支度を始める。支度をしながら、少し後ろの方を見ると、さっき怒鳴った人はまだ何か深刻そうな顔をして、ぶつぶつ呟いていた。何となく声もかけ辛く、何より僕は彼の名前を未だに覚えていないので、どう呼びかけていいかも分からず、すぐに教室を後にすることにした。

 

 NHVテストも終わり、しばらくすると学校専用の端末に文部科学省からの結果通告メールが届いた。僕は今回、それほど悪くなかった。いや、何が良かったのか悪かったのかよくわからないがとにかく結果は悪くない。どこで高得点をとったかもわからず、A、B、C、D、Eの五段階だけ伝えてくるのだ。今回はBだった。最高ではないがまあこんなものだろう。むしろCの時もあるのだからいい方だ。

 結果が届いた翌日、学校に行くと何か変な感じがした。空気が張り詰めているというか、何か大きな喧嘩でもあったすぐの状態というか、とにかくピリピリしていた。自分のクラスまで真っ直ぐ行く過程で、その張り詰めた感じはどんどん増していく。クラスにたどり着くと空気だけじゃなく、見た目からして何か異様だった。ドアのガラスがぶち割られ、ガラスが割られたことによりできた穴から見えるクラスの中は、いつもの整然とした机の並びをしておらず、でたらめに蹴り飛ばしたような感じにぐちゃぐちゃになっており、廊下側ではない方の窓ガラスも軒並み割られていた。そして廊下には泣いている女生徒と現実に起こっていることが上手く飲み込めないでいるような男子生徒がちらほら。

 間違いなく、ここで何かあった。

「どうしたの?これ何があったの?」

 僕は一番近くにいた男子生徒に聞いてみる。男子生徒はわけがわからないと言いたげな表情で答える。

「わからん。ただ保坂の奴が暴れたって…」

 呆然としたように言う彼。

「保坂って誰だっけ?」

 僕はとっさに顔を思い浮かべられなかったので問うてみる。すると信じられないといった表情を向けられた。

「お前の後ろに座っている奴だよ。何で覚えてないんだよ」

 それだけ言うと、怒った様に会話を切られてしまった。薄情な奴と思われたのだろう。

 まだ聞きたいことがあったので、仕方ないから二番目に近くにいた人に聞いてみる。

「保坂は何で」

 こんなことを、僕が聞いた人は分からないとかぶりを振った。分からない。誰に聞いても保坂がこんなことをした理由は分からなかった。



 保坂はその後数日のうちに転校することになった。僕もクラスメイトも保坂とじっくり会う機会は最後まで与えられなかった。それは学校側の配慮というより、保坂自身がそうなることを望んだらしい。誰とも会いたくない。ずっとそう言っているという情報を僕はクラスの噂から得ることができた。勿論ただの噂かもしれないが。

 ただ皆、口には出さないが、これは確かだろうと確信していることが一つだけあった。保坂は恐らくNHVでEを取ってしまったのだろう。

 NHVには五段階の評価があるが、Dまでは大丈夫なのだ。挽回が効く。たとえD評定がずっと続いても進学や就職の面でほんの少し不利になるくらいだ。

 ただEになるとどうにもならない。E評価を一度受けると、まずD以上には上がれない。一生Eのままだ。

 そしてE評価になると社会的にももうアウトだ。就職も進学もほぼ絶望的と言っていい。会社でE評価の人を雇うところはどこにもない。進学でも今や入学試験以上にNHVが重視されている。確かに入試において学力試験も課されるのだが、それはメインではない。国公立の学校などは点数の九割はNHVのものだ。私立だって数少ない例外を除けば似たようなものだが。

 保坂がE評価を下され、それでやけっぱちになって暴れられるだけ暴れた。それが、僕が、恐らくは皆が想像した、事の経緯だった。

 最初は保坂を心配していた何人かのクラスメイトも、すぐに日常に飲み込まれたようで保坂の話はその後しばらくタブー視されるようになった。心配したところで会うことを保坂が望んでいないならどうにもならないし、皆触らぬ神にたたりなしと言わんばかりだった。保坂は転校し、机は片付けられ、僕はそんな中でも何一つ変わらない日常を送っていた。

 それから夏が終わり、蝉の声が聞こえなくなり、吹く風の中に来たるべき冬の到来が予告されるようになるまでぐらいの時間を経た頃だった。僕がいつものように学校に行き、授業を受け終え、帰り道を歩いていると見覚えのある人とすれ違った。振り返って見ると保坂だった。声をかけようかどうか迷っていると、向こうも僕のことに気付いたようで振り向いてきた。ちっ、と舌打ちをしてくる。

「何だよ、お前か…」

 まるで親の仇を見ているかのような視線で射抜かれる。

「お、おう。久しぶりだな、保坂」

 動じながらも何とか応対する。そんな僕を見て、保坂は暗い笑みを向けてくる。僕はその異様な雰囲気に気圧されながら言葉を続ける。何か自分から行動を起こしていないと、保坂の黒い雰囲気に呑まれそうだった。

「元気だったか?急に学校変わるからびっくりしたわ」

 何気ない風を装い、苦手な作り笑いを浮かべながらそう言う僕に、保坂は気味の悪い笑みをさらに深める。

「ああ、すまんな。色々あの後ごたごたしてな。連絡する時間もなかったんだわ」

 保坂はそう言いながら人差指と親指で自分の服の裾をいじっている。落ち着きがない、というよりびくびくしている人はこういった行動をよくとる。気付かなかったが目が異様にギラギラしている。暗い光を帯びていると言えばいいのか、とにかく常人の目ではない。僕はすぐに逃げ出したい気持に猛烈に駆られた。正直怖い。

 僕が保坂の眼の光りに戸惑っていると、保坂はこんなことを言う。

「俺、今、学校行ってないんだわ」

「え?」

 今、何て言った、こいつ。一瞬僕は呆気にとられたが、その後すぐにどういうことか悟って動揺が顔に浮かばないようにするのに苦労した。保坂はそんな僕を探るような目つきで見ている。

「転校は、してなかったんだな」

 保坂は恐らく転校したのではなくて、退学しただけで、どこにも編入できなかったのだろう。この社会の厳しさを、よく考えてみれば当然のこととも言えた。だがNHVの評価が厳しいことは知っていたが、まさか高校時代にまでその厳しさがここまで強く及ぶとは思っていなかった。いや、思いたくなかった…。

「ははっ、Eだってよ…。お先真っ暗だよな、俺って…」

 そんなことを言いながら自嘲的な笑みを浮かべる保坂。そんなことない、と言ってやりたかったが、それはこの社会においては優しい嘘にさえならない。それぐらいNHVの評価は絶対のものなのだ。

「参るわ…。お袋は泣き喚くし、親父も仕事やる気無くしちまって…。お袋と親父はNHVの結果いいから、役所から金下りるけど、俺なんて…」

 Eになったら人生終わり、というのは比喩でも何でもない。そもそも社会から完全に排他されるのだ。真っ当な会社や学校に入れないのは勿論、商売も許可が下りない。さらに追い打ちをかけるのが行政の救済の手さえ及ばないということだ。生活保護制度、年金制度などの公的福祉へのアクセス自体、出来なくはないが、著しい制約を受ける。実際、E判定を受けた人は親族の扶養に頼っている人が大半と聞く。

「わけわかんねぇよ…、何でだよ…、何で…」

 保坂はそんなことを呟きながらふらふらと歩き始める。僕はその保坂の後姿を見て、何か言ってあげたかったが、結局は何も言ってあげられなかった。保坂はのろのろ覇気のない歩きで僕から遠ざかり、やがて見えなくなった。


 その夜、僕は自室でベッドに横たわりながら今日あったことをじっくり考えていた。

 NHVが間違いを犯すとは考えづらい。事実僕たちの社会はNHV導入後、明らかに良くなった。もはやNHV無き世界など考えられないだろう。NHV無き世界に今より幸福な世界があるとは僕だって思わない。だが保坂は、明らかに追い込まれていた。

 AS。頭に二文字のアルファベットが浮かぶ。Anti Societyの略。公式な呼び名ではなく、いつの間にか人々の間で広まっていた、言うなれば俗語。NHVに基づく現行政システムの庇護を離れ、大抵都市部のスラムで暮らしている者、僕の中でASはそう言った存在だ。不潔、無教養、要するに浮浪者だ。ASといった言葉が出来たのは、そんな人達が徐々に増加してきたからだ。増えすぎた浮浪者を前にそういったマイナスの言葉を適用するのは、皆どこかためらわれた。背筋がぞっとした。保坂はもしかしたらASになってしまうのではないか。

 そんな疑念が生まれると恐怖感が生まれてきた。なぜだろう。理由が分からない。保坂は保坂で、僕は僕だ。保坂がASになろうと僕には関係のないはずだ。なのに、なぜこんな強烈な恐怖感が生まれてきたのだろう。

 静かな部屋の中でしばらく考えてみて、気付く。

 僕も保坂と同じような境遇に、ある日突然襲われるかもしれない。それこそが恐怖の源なのだ。



 保坂と一度再会し、更に一つの季節が過ぎ去った。色づいた葉は全て落ち、街で見る木々はどれもこれも葉が落ち切っていた。制服も冬仕様になり、それでも防寒には足りず、コートを着て登校することが多くなった。

 僕は日常をひたすら繰り返していた。僕の中に生まれた恐怖感は、蟠りとしてまだ澱のように残っている。保坂とはその後一度も会わなかったし、僕も会いたくなかった。会っても何て声をかけていいかわからないだろうし、それに何より、どんな楽しい気分でいても自分もいつかASになるのではないか、と思えば容赦なく暗い気持ちになることは目に見えていた…。

 たまにこのままでいいのか、と思うこともあった。こんなのは不条理じゃないかとも思った。NHVが人の人生をどこまでも固く固定してしまうのは、変じゃないかとも思った。

だが思うだけだった。結局僕には何もできない。僕はまだ学生で、何の力もなくて、社会を変えられるだけの強いエネルギーはたとえ逆立ちしたって出てきそうもなかった。

 それどころか僕は違う考えにも襲われることがあった。それはNHVが間違わない以上、その判断を尊重することが幸せへの近道ではないのかといったものだ。Eの評価を貰った人は確かに幸せとは言えない人生になっているかもしれないが、そもそもこの社会に生きている人、皆が皆幸せになるなんて夢物語もいいところだろう。

 最大多数の最大幸福という言葉がある。確かベンサム、って人が提唱した考え方だったと思う。詳しい部分はほとんど知らないが、何となく最も多くの人を幸せにする考え方だったと思う。

NHVは確かに全員を幸せにはしないかもしれない。だが社会をより良く治めるには、個々人の人間の幸福にとらわれすぎてはいけないという考え方もある。

 だが、ここまで考えたあたりで僕の脳裏に保坂の姿が浮かぶ。それは違うだろ、言葉に例えればそんな気持ちが僕の心の中に渦巻き始める。NHVがどれだけ正しかろうと、あの保坂の姿を見たら、そんな厳しい結末は認められないし、認めたくない。

 冬特有の冷たい風が頬をなでる。ビュゥッという音を耳がとらえる。冬の寒さを感じながら、それでも僕はそれがあまり気にならない限り、自分の悩みごとに没頭していた。分からない。何も分からない。保坂を見てからというもの、僕の苦悩は心の中をぐるぐる回っていた。

 分からないながら、僕はやはりNHVが支配する社会の中に生きている。そのことがとてつもなく嫌に思えることもあった。結局のところ、NHVを受け入れて生きている自分がいることが気にくわないことこの上なかった。

「あー、イライラする…」

 呟きながら、僕は家路に向かう。恐らく今自分は歩きながら、相当不機嫌そうな表情をしているのだろう。心なしか道行く人達が僕に対して「何だ、こいつ」と言いたげな表情を向けている気さえする。

 出口のない迷路をひたすら歩いているような気分だった。街を走る電気自動車さえ、僕を苛立たせた。年寄りが運転している、ふらふらこっちに向かって走ってくる自転車にすら怒りが湧いてきた。もし怒気で何かを壊せるのなら今の僕なら余裕で壊せるだろう。怒り、怒り、不条理に対する怒り。何かを蹴っ飛ばしたい。思い切り何かを壊したい、割りたい、刺したい。

 こんな息苦しい世界に、生まれてきたくなかった。

 自分が生まれてきたことすら後悔しながら家路をひたすら歩き、特に何事もなく帰宅し、着替えをし、洗面所に行って手を洗いうがいをし、自室のベッドに転がり込む。仰向けになり、天井を見つめる。僕は、何をしているのだろう。こんなどうしようもないことを悩んでいたって何の得にもならないというのに。

 明日は数学の宿題を提出しなければならない。明後日は古文の予習。やることは一杯ある。ただ心が動かない。しかし心が動かなくとも、時計の針は容赦なく動く。気合を入れて僕はベッドから立ち上がる。しかし脳裏に保坂の姿がちらつく。その姿が僕の中から力を根こそぎ奪う。立ち上がれはしたものの、またベッドに座り込んでしまう。

 僕はここ最近何となく予感し始めていた。恐らく保坂の姿は今後ずっと、下手すると死ぬまで僕の脳裏にこびりつき続けているだろうということを。あの死んだような眼を、卑屈な笑みを、舌打ちを、僕はずっと覚え続けているだろう。そしてその保坂の姿はふとした拍子で自分の姿とすり変わるだろう。僕は怖いのだ。保坂のようになるのが。

 十年後も二十年後も、僕は忘れない。保坂は恐らく亡霊のように僕の前に立ち現れ続けることだろう。




 この小説を読んでくださった方、このような拙文を読んでくださってありがとうございます。趣味で書いているだけとはいえ、ひどい出来です。もっとうまく自分の伝えたいことを表現したかったのですが、どうにもなりませんでした。気がつけばあれよあれよと言う間に、ストーリーが制御不能。これが今の自分の実力です。情けない限りです。次からはもっとうまく書きたいという意欲だけはあるので、もしまた気が向いたならどうか最初の一文だけでも読んでください。


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