カバリエ
街の景色が弱さを彩る。
心の隙間に入り込んだ黒い雨が、重量のある鉛となって、奥に沈殿した。夜のネオン街。そんな場所で人々は何を賛美し、何にすがって、生きているのだろうか。それはここに住んでいる彼らにも分からないことだ。当たり前の日々を歩き、当たり前の日常を回し、ふと気づいたときに人は幸福を見つける。拾ったクローバーがいつでも四葉とは限らない。むしろ四葉であるときの方がより希少で、より幸運だ。人々はそのことを十分すぎるほどよく熟知していた。だからこそ、彼らは今日も踊り続ける。用意された舞台に、汚れた自分を存分にアピールする。社会に隠していた、その一部分を相手方にさらけ出す。それは時に「美点」として評価され、人々の心のよりどころとして今に至っている。より美しく自分をさらけ出せるかどうか。完全な疲れを知っている彼らだからこそ、経験から派生した演技もこなすことが出来るし、抵抗もない。彼らは踊りながら戦っているのである。自分の苦難を美点に変えて、得点を稼いでいるのである。舞台は無慈悲で加減を知らない。しかしそれは彼らの心を強く、打って、新しくするものなのである。
繰り返すということ。
嗚呼、また日が暮れる。
商店街。長谷川麗子は道を歩きながらふとそう思った。ふと、と言っても、このことを思うのは今日で十回目である。圧し掛かってくる疲労が回数の計算を狂わせているのだ。彼女はすでに上がらなくなった肩を振り回す様に、夕暮れの街を歩行していた。まったく、木枯しが今日に限って私のところに来ない。彼女は落胆した。(初冬に私の身体を撫ぜる、あの風は私を支えてくれるものだ。世間の濁声に襲われて風化してしまった私の心。薄い紙やすりの上に無表情の鉄球が置かれている。それを私は疲労と呼んでいる。もう、動けない。でも、木枯しはその疲労を吹き飛ばしてくれる。力が強いのに、決してその力に甘んじることがない。私もそういう人間になりたい。木枯しのような人になりたい)
麗子は小道のさらにまた細い道を歩いた。数十歩進んだところで、彼女はそこでようやく足を止めた。自宅に着いたわけではなかった。自分に優しくしてくれる場所を発見したのだ。――一軒のラーメン屋。がらがらと彼女は扉を開けた。
先ほどの木枯しが扉を開けてくれと外で呼んでいる。いつもは優しい木枯しも、こういう時だけは彼女に辛く当たる。人間関係もそんなものだ、と彼女は思った。今日選んだのは醤油ラーメンだった。中に入っている具はどうでもいい。麺の太さも彼女には分からなかった。ただ、温かいものが食べられれば。その一心だった。
隣で中年男性の麺をすする音がする。彼女は横目でちらりとそれを確認した。頭頂部の毛が薄くなっている。眼鏡をかけ、顔には陽気さの色がない。麗子は箸をとめて、少しだけ、彼を観察した。この男性はいったいどんな人生を送ってきたのだろう。どんな道を歩いてきたのだろう。急にそんな聖人じみたことを思った。他人事の情けのようなものも生まれたが、制するように彼女は飲み込んだ。また、明日がやってくる。ここは幾多の戦いで傷ついたものが道中で足を休める場所だ。彼らは延々と続く、長い明日を待っている。どうして働かなければいけないのか。どうして人は生きるのか。守るものがない麗子は、箸で叉焼を半分に切りながらそんなことを考えた。家族もいない、金もない。家に帰れば私は独り。空っぽになった買い物袋が床に寝そべって、いびきを掻く。私はそれを聞いてまた、虚しい気持ちになる。その繰り返し、それだけの毎日。生きるために疲れるのか、疲れるために生きているのか。最近になって、わからなくなってしまった。
店の奥で注文を言う声がする。体が重いときは、あんな声でもオルゴールになるのだ。彼女はラーメンの器の横で「生きること」を考えながら眠りに入っていた。店で寝ることは彼女にとって初めての経験だった。まるでそれは死んだ志を癒すかのように体を丸めた憐れな石膏像のようだった。
眩暈に似た目覚めを迎えて、彼女は頭を上げた。顔も化粧さえも恐ろしいほどにやつれていた。隣に座っていた中年男性はもういなかった。彼女は後ろを向いて壁に設置された時計に目をやった。もう夜は近い。時刻の上では、もう夜と断定しても可笑しくはない時間だったが、彼女は認めなかった。この街の夜は普通の夜と違って、少しだけ遅れてやってくる。
甘い時間も過ぎて、彼女は財布を取り出した。面倒くさそうに金額を支払い、扉を開ける覚悟も出来ていないまま、彼女は店を出た。街は今日の夜を過ごすための準備をしていた。彼女はその夜の支度に遅れないように、早歩きで道を進んだ。死んでも後悔はしないが、死にたいと思ったことはない。
街は虚構の輝きで飾られていた。皆が偽の衣装を身にまとい、威厳と僅かなプライドを抱きながら、勝ち負けを争っていた。声はしないが、耳をつんざくような音は聞こえる。ここでは一切の慈悲は存在しない。昼になっても、それは変わらないことだ。麗子はぼやけた光を耳に浴びながらため息をついた。もうすぐこの街は完全な暗闇になる。それまでには、早く目的地に着かなくてはならない。
夜のない街も、昼のない街もそれはそれで苦だ。一時の休息場所を探す時間が無いから、近くに設ける必要があるのだ。麗子にとって、そんな休息場所がここだった。大通りを外れ、スナックが並ぶ道を歩き、寂れた踏切を渡ると、そこにたどり着く。比較的大きな店で、目立つ場所にもあるのだが、不思議なことに来客はいつも少なかった。今日も仕事帰りのサラリーマン達が、店の前を歩いているが、誰も気に留める様子はなかった。麗子は早歩きを止めて、通常の速度で歩いた。慎重に動いていたが、漏れる息は荒かった。店の前の信号機が赤に変わった。時間にはまだ余裕があるのに、どことない焦燥感を感じた。店の中に入るまでは、一瞬たりとも油断はできない。
信号が青に変わり、多くのサラリーマンがこちらにやってきた。横断歩道上の迷路を抜けると、店はもう眼前にあった。幾多の眼差しの中に、彼女はいた。逃れ、逃れ、逃れ……。彼女は店の中へと足を踏み入れた。時刻は午後十時を回っていた。
ここに入るときの心情は、学生が好きな音楽を聴くときのものと少し似ていた。両親に隠れながら、そっと耳元にヘッドホンを当てるときのあの焦燥感。その行動は誰にも見つかってはならないものだ。たとえそれが、完全に信頼された、完全に、整った環境であったとしても。その「隠れた」行動は絶対に他の干渉を受けてはならないものなのだ。
麗子は足音を殺すように、長い廊下を進んだ。心が焦るせいで体が重く感じられる。気のせいだ、彼女は自分に言い聞かせた。
廊下にはスカーレット色のカーペットが敷かれていた。天井には裸電球が点線を描くように設置されており、廊下の幅も人が一人通れるくらいの狭さだった。麗子はその道をゆっくりとしかし足早に、進んでいった。
「長谷川麗子様ですか」
不意に声をかけられ、麗子は立ちどまった。ハーブティーのような鋭いが温もりのある声に彼女の耳が疼いた。
前方から、紳士服を着た、長身の男性が彼女の方へ歩いてきた。髪は短く、後ろの方で結ってあるように見えた。顔立ちは麗子の感覚では、あまり良いとは言えなかった。醜いというほどではないが、一般的な位よりは下か。この街では男でも女でも、そんな顔立ちばかりが目に映る。それはこの異次元のような空間でも例外ではなかった。
男は、彼女に背を向け、そのまま歩き始めた。どうやら案内してくれるらしい。麗子は初めての客ではなかったが、後を追うことにした。
夜が終わる前に麗子は早く事を済ませたかった。そのためには相手方の協力がなければならない。向こうだって、早く事を終わらせたいのは同じ気持ちだろう。しかし、今日はうまくいくかどうか分からない。相手の問題ではなく、自分が誘惑に駆られてしまうかもしれないからだ。今日はどうしてか、心が特別に濁っている。いつも奮起して揺れている自分の心臓が、今日はやけに鈍く動くのだ。これは何かの危険信号だろうか。麗子は歩きながらふと思った。しかし、先ほどの体の重さを誤魔化す様に、また気のせいだと決めこんだ。
緋色の隅に隠れていたノワールが、一番目立つ中心部分へとやってきた。硬くなったその物体に、湯なり水なりかけても、大して変化は見られない。しかしほんの一滴、色を垂らすだけでノワールは別の色に変化する。周りと同じ緋色を垂らせばなおよい。ノワールが緋色と同化してしまうのだ。麗子は廊下の隅の深紅を見つめ、そんな考えを巡らせた。我に返ると、彼女は心のフッと小さく笑った。馬鹿馬鹿しい。疲れているのはとうに分かっていることだ。態々こんなところで確認する必要はない。麗子は頭の中をなるべく空っぽにし、単調な歩行に神経を尖らせた。
視線の先に扉が見えた。男はそこで立ち止り、振りかえって麗子に軽くめくばせした。目の前の扉はチャペルのドアであるかのように大きく、それでいて清浄としていた。隅々まで塗られた純白の層が、この薄暗い部屋でも美しさを醸し出していた。
男は扉を開けた。取っ手を引きながら、横の壁に張り付く。そして麗子に入るようにと手で合図をした。麗子はそこで軽く深呼吸をした。先ほどまで空気だったものが自分の緊張を緩めてくれるシーツとなり、身の中に漂う。忘れられない光景。あの時の光景。再び現実となって戻ってくる。
麗子は部屋に入った。音のない部屋に足音がそっと侵入した。
舞台はもう完成されていた。ルージュの妖艶な匂いに誘われてやって来た一人の女は、裏切りと愛憎の間で涙を守り続けていた。ほんの一瞬現れた喜びに、身を預け、瞬くだけの生命を誰かと分かち合う。それは甘い慈愛だった。
カバリエはそこにいた。
相手は蒼い仮面をつけ、そこに立っていた。先ほど彼女を案内した男のように彼も紳士服を身にまとっていた。男は会釈をし、それから麗子の反応を待った。麗子は筋書き通りのことをこなすように、彼の元に歩み寄った。カバリエとの物語はもうすでに始まっていた。
後ろで扉が閉まる音がした。それを合図に彼が最初の一歩を踏み出す。極上の一滴を搾りとるかのような、濃密な時間。麗子は徐々に浄化されていく。自分は甘い蜜になる。自分は壊れた心を組み立てる、淡い翠の大樹になる。時間が二人をさらった。
部屋の中のノワールがルージュと重なり、緋色となるまでのほんの僅かな時間。一日の休息を祝う二人の舞踊だけがそこに存在していた。誰にも干渉されず、誰にも指図されず、誰にも批評されない世界。麗子は微笑も浮かべず、ステップの一つ一つの動きに集中した。もっと綺麗に、美しく、踊ることは出来ないか。麗子は自分を腹立たしく思った。しかしそんな煩わしさも、カバリエの熱情に満ちた眼差しを見ていれば忘れることが出来た。この時、この刹那に、私は生まれ変わっているのかもしれない。麗子はそんなことを思い、恍惚となった。
スカーレットが舞台の床を満たすと、彼は目で麗子に合図を送った。麗子はその合図に無言で頷くと、彼の腕に倒れた身体を起こした。
舞踊が終わると次は麗子だけが踊ることとなる。彼女は舞台に設置された特設ステージに上り、心の準備を始めた。特設ステージといっても、三畳ほどの小さな空間である。音が鳴らないままに、プログラムだけが進行していった。しかし麗子には自分が次に何をするべきかちゃんと理解していた。
彼に悟られないように唾をゆっくりと飲み込んだ。無音のままに唾は喉を通り抜けていった。
麗子は前髪を右手で掻き上げると、定位置に着いた。夜はまだ続きそうだった。
*
雨の雫が右手の甲に張り付いた。
草加はこの日、仕事を早めに切り上げることにしていた。目的のことを達成させるためには、止むを得ないことだった。
午後十時。それが彼に課せられた「約束の時間」だった。この時になるまでは、目的地に着かなければならない。別に余計に自分を焦らせる必要はない。大丈夫だと彼は自分に言い聞かせた。電車に乗り、つり革につかまったときには、午後四時だった。余裕だ、間に合う。
電車を降りたときには、もうすでに空は暗がりとなっていた。目的地はこの街のどこかにあるらしい。草加はスマートフォンのマップを開いて、場所を改めて確認した。意外と遠い。ここから五キロもあった。しかし、諦める気にはなれない。この日を楽しみに今月はがんばってきたのだ。タクシーでも見つけて、意地でもそこに行くしかない。草加は黄昏の空に朧となった月を見た。
この街に来たのは初めてだった。同僚や先輩がよく飲みに行くときに訪れるらしいが、草加自身はあまりこういう雰囲気の街が好きではなかった。歩くたびに何か落とし物をしてしまったような気がするのだ。抜け目のない人々の性格が直接露わに出たような場所に思えたのだ。
自販機で煙草を買い、機械の横に立ちながら一服した。彼が吸っている銘柄は、最近になって名称を変えていた。どうやら名称に『ナチュラル』がつけられているのが問題になったらしい。だが中身までが変わったわけではないので、草加にとってはどうでもいい話だった。
草加は今年で二十九になる。嫁なし、子なしの平均的サラリーマン。しかし彼は、その「平均的」という響きが気に入っていた。要は多数派というところだろう。出る杭があるとするならば、自分は打つ役ということだ。悪くない。結婚も、いまいち何の得があるのか分からない。草加は、絶滅危惧種に指定されている街の灰皿にヤニを擦りつけた。
広い道路に出てタクシーを拾おうと思ったが出来なかった。タクシーがなかったのではなく、広い道路が無かったのだ。鉛を入れた壺をおもいきりひっくり返したような街にタクシーは不要だというのか。草加は仕方なく目的地まで歩いていくことにした。足が棒のようになってしまうが、大丈夫だろう。きっとあの場所が自分の疲れという疲れを全てほぐしてくれるはずだ。
小さな電気屋のショーウィンドーに液晶テレビが並べられていた。今どき珍しい。そう草加は思いながら、何も関心がないふりを装った。店の前を通りすぎる途中、横のテレビをちらと見た。ショートヘアーの女性アナウンサーが、ニュース原稿を読み上げていた。世情にはあまり関心がない。
時刻は午後六時。街にも徐々に灯りが点りはじめた。いよいよこの街にとっての朝が始まるのだな、と草加は目を細めながら思った。
人が多くなり、街がようやく騒がしくなった。彼はそんなことはお構いなしに、黙々と歩き続けていった。まるで彼が一歩を踏み出すごとに、騒がしさの段階も上がって行くようだった。
「おい」
急に肩を叩かれ、草加はびくついた。頭を攻撃されて甲羅の中に入ってしまった亀のようだった。
背後から来たのは、草加もよく知っている人物だった。
「松田課長」
「おい、なんだ草加。お前、なんでこんなところにいるんだよ」
いきなり質問されて、草加は狼狽した。嗚呼、何て言えばいいのだろう。まさかあの店の予約をしたから、何て言うわけにはいかない。笑われ者にならないためには、果たして何と言って誤魔化せばいいのだろう。草加は一瞬でこれらのことを考え、思考の迷路に入った。出口はどんなに歩いても見つかりそうになかった。
口を閉ざした草加に、松田は何かを察したのか穏やかな笑みになって言った。
「まあ、プライベートのことだしな。お前さんにもいろいろあるんだろう」
「すいません……」草加は頭を下げた。
「何も謝らんでも…… それはそうと、草加。これからちょっと付き合ってもらえないか」
「僕がですか?」
「そうだ。実を言うとな、さっきラーメン屋に立ち寄ったんだが、そのラーメンがまずくてまずくて…… 口直しをしたいんだ」
「はあ」
「お前に用事があるんならそれはそれで仕方がないが。どうだ?」松田はそう言うと、左手を使って呑むしぐさをした。
草加は左腕を見た。時刻は午後六時半。約束の時間は十時だから、少しの間だったらまだ余裕はあった。断るという選択肢も当然あったが、草加は彼の誘いに乗ることにした。いつもお世話になっている人だから、断るわけにはいかないという気持ちが草加の中にあった。
「大丈夫です。行きましょう」草加は答えた。
光のトーンが徐々に足されてゆく。
草加と松田はそこから歩いて五分程の距離にある居酒屋に入った。松田の行きつけらしく、彼は店に入って早々「いつもの」の台詞を口にした。
「初めて見ましたよ」草加は座布団に坐ると、すぐに松田に言った。
「何が?」
「だから、今の言葉ですよ。『いつもの』っていう」
「そんな、珍しいもんでもないだろ」松田はおしぼりの袋を破り、中身を取り出した。
「いや、初めてみましたよ。あのそっけなく言う感じ、かっこよかったなあ」草加もおしぼりの袋を破った。「ああいう台詞って、何回店に来たら言えるようになるんですか?」
「そんな、いちいち数えてられねえよ」松田は苛立ちを見せながら、おしぼりを顔に乗せた。
松田課長が言った「いつもの」は烏賊げそだった。「ポピュラーなんだが、やっぱこれが一番なんだよな」と彼は言った。
酒を呑みながら、草加も烏賊げそをつまんだ。しつこくない程度の油が口の中に広がった。なるほど、これが王道の味か。草加は笑みをこぼした。
ジョッキが二本運ばれてくると、松田は小さな歓声を上げた。残り二つ目の烏賊げそを手に取っていた草加は、そのジョッキを見て躊躇いの表情を浮かべた。覚悟はしていたものの、実際にそれが訪れれば、やはり迷うものだった。草加の予定では「酔う」タイミングは今ではないのだ。
「どうした、草加」飲み口を離し、松田は尋ねた。唇が泡だらけになっている。
「いや、何でもないです」草加はぼそりと言うとジョッキに手を伸ばした。もう腹はくくっていた。
喉が鳴り、胃の中に熱いものが溜まった。想像以上の快感に、彼は思わず息を漏らさずにはいられなかった。
「どうだ。たまには酒もいいもんだろ」調子づいた口調で松田が言う。まるでこのビールは自分が作ったと言わんばかりに、彼は得意げだった。
「そうですね。こんなうまいもんだとは思いませんでしたよ」草加はそう言って、再度ジョッキを口に付けた。建前ではなく、心からの言葉だった。
二人はつまみをもう一皿注文し、談笑しながらしばらく時間を過ごした。草加が一杯限りと決めていたジョッキの数も、ここを出る頃には二杯となっていた。自分が立てた約束を破ってしまったのには、八年続いていたビール嫌いを克服出来たことにあった。
店の扉を開け、二人は夜の光の中に出た。ふらふらと歩く愛煙家と大酒家の背中はまるで哀しく弱みを見せた小虎のようだった。
駅まで歩いていけるから、と言って松田は彼と別れた。さすがに後輩の肩を借りるのには抵抗があったらしい。この後のことを考えていた草加にとっては松田の判断に安堵の思いがあった。別れた直後に彼は腕時計を確認し、愕然とした。午後九時だった。
改めて目的地を調べ、再度そこを目指した。約束の時間まであと一時間。出来れば早足で行きたかったが、酔いが未だ残っていた。泥酔を避けられただけ有り難いと思いながら、彼は光が導く方へと歩いていった。
コンクリートの地面が草加を眠りへと追い立てていった。眠るな。彼は自分の心に言った。今日のために、自分は努力してきたんだ。頭の指示通りにいかない足を彼は無理やりに動かした。
時が止まり、いつしか音も止んでいた。心が無に近づくにつれ、彼の歩幅も徐々に狭くなっていった。溜まった疲労が、破れたビニール袋のように存在意義をなくしていた。それと同時に彼のアイデンティティも階段を下りるように崩れ落ちていった。
涙を流す前に、一人のサラリーマンはそこに辿り着くことが出来た。出来たてのカフェラテを注いだときのような温もりが身体中を包んだ。もう時間に追われる必要はない。約束の場所は目の前にある。
「ここか」
草加は息をはくと同時に小さく呟いた。店の外観は彼が想像していたものと違っていた。もっとひっそりとした処にあると思っていたのだ。
ここか。と彼は自分に言い聞かせるように、もう一度呟いた。喜びと緊張感が入り混じった思いがそこにあった。
鼻息が荒い。心を落ち着ける前に、彼は建物の中に入ってしまった。足枷となるようなものが周辺になかったのだ。
草加が店に消えても、夜の街は当然の如く何も変わりがなかった。しかし大きな変化はなくとも、ごく小さな変化なら、必ずどこかにあるものだった。それがただの僅かなほんの心の動きだとしても、それは、変化に違いなかった。
狭い廊下は、彼の今の心境を表していた。この店に入るのは初めてだった。
白い灯りが草加の行く手を示していた。酔いは覚めかけてはいたものの、完全には脱していなかった。彼は自分を情けなく思った。
彼は瞬きを繰り返しながら、焦りを昂ぶらせていた。どうも、実感が沸かないのだ。どうしてだろう。彼は自分に問いかけてみた。しかし満足のいくような答えは返ってこなかった。自問自答で解決したことなんて、あった例がない。
確実にやってくる焦燥感は、誤魔化しが効かなくなるほどに膨れ上がっていた。彼はこの廊下の向こうに、今の問題を解決してくれる打開策があることを信じた。
長針が十の文字盤を差した。彼は扉に辿り着いた。扉は緋色をしていた。チャペルのドアみたいだな、と彼は思った。
躊躇わずにドアを開けた。眩しいほどの光がやってくる、と彼は期待したが、そうではなかった。廊下と同じおぼろげな紅い照明。部屋の広さは十畳ほどで、彼の右側にはカウンターが置かれていた。
「いらっしゃいませ」カウンターには紳士服を着た長身の男性が立っていた。草加はどうしていいか分からず、困惑の表情を浮かべていた。
「どうぞ」男は平手でこちらに来るようにとジェスチャーをした。
草加は言われた通りに、数歩進んだ。刻み続ける一秒一秒、自分は何をすればいいのか分からない状況だった。
「予約した草加です」吐息のようなか細い声が出た。
「初めてのお客様ですね」男は低く、引き締まった声でそう言った。
草加が頷くと、男は黙って両手を部屋の奥へと向けた。五本の指を向けた先には紅色のドアがあった。
「あのドアの先は、仮面室になっています」
「カメン室?」草加は語尾を上げた。心の中で反芻し、数秒後にようやくその言葉が「仮面」だということに気付いた。
「はい。この店では、男性のお客様には必ず仮面をつけていただくことになっていまして」
「ああ、そうですか」返事はしたが、戸惑いはまだ残っていた。そして、ある一つの疑問が頭に浮かんだ。
「どうして、女性側は付けないんですか」草加は勇気を出して訊いた。
男は不意を突かれたように目を丸くした。「仮面を…… ですか?」
草加は思わず声を張り上げた。「だっておかしいじゃないですか。仮面舞踏会にしたって参加者は全員付けるわけだし、男性側しか付けない舞踏なんて聞いたことがない」
草加の言葉に男は一瞬だけ口を閉ざした。しかしすぐにこう言った。「それは、あなたがカバリエになるからです」
「カバリエ?」
「そうです。ダンスをする女性にとって、相手方となる男性は憧憬の対象そのもの。従って顔を見せることは、その女性の描いているイメージを壊すことになるのです。カバリエはダンスで言う男性側を差す言葉でありますが、騎士や、紳士の意味合いも持ちます。カバリエの位は神聖なもの。だからこそ、ここではそういう規則になっているのです」
男はそこで口をつぐんだ。草加にはまだ腑に落ちないところがあった。
「それで、本当に男性側は満足するんでしょうか」
草加の一言に、男は微笑みを浮かべた。そして彼を諭すようにこう言った。
「心配は無用です。きっと満足してここを出ると思いますよ」
舞台といっても、中はカーテンで仕切られた小部屋だった。店に入ったときからそうだが、壁の色は赤系で統一されていた。カウンターがあった場所が薄い赤だったら、ここは少し濃い色の赤だった。
そして、彼女が現れた。
目の前にいる、相手方の女性に草加は息をのんだ。麗しく、まさに花顔柳腰の人がそこにいた。その容顔美麗に彼の微酔感は完全に消え失せた。この人と、今から踊ることが出来る。それだけで彼の胸は高鳴った。
蒼い仮面の間から、妖艶な表情が見え隠れする。二人は距離を近づけた。これから一人の男、一人の女の約束された時間が始まる。
*
麗子は前髪を右手で掻き上げると、定位置に着いた。
草加はソファーに座り、これから開始される何もかもを見届けようとしていた。
一日という刹那の時間。その時間が残り数分で終わろうとしていた。
麗子は口に出さず、彼の目を見つめ、意思の中で合図をした。草加は頷きこそはしなかったものの、彼女の合図を目の奥でしっかりと感じ取っていた。
黒い二本の針が、白線と同化する。
三、二、一……
鐘が鳴った。
どこからか聞こえてくる鐘の響きに、草加は思わず集中力を欠きそうになった。しかしすぐに彼女の方に意識を向けた。
彼女はすでに踊りはじめていた。沁みこんだルージュの明媚さが、彼女の立つ舞台を一層際立たせた。
彼女は何も相手を喜ばせるためだけに踊っているわけではなかった。
彼女が踊るのは自分のためでもあった。
彼女は一人で舞台に立っていた。
あらゆる法則が乱れて飛び、彼女の肩に付いた。彼女はまるで自らの物語を表現するかのように、舞を楽しんでいた。これほどの喜びに満ちた時間が今まであっただろうか。これほど自らを表現できた時間が今までにあっただろうか。彼女はあふれ出るこの思いを雫のような涙に代えた。しかし彼女はそれを目から離す前に、眼球の皮膚で止めた。涙は決して流すためだけにあるものじゃない。彼女は咄嗟にそう思った。
ソファーの包み込むような柔軟さが、彼の身体を徐々に和らげていった。
舞台で踊る彼女との距離は遠くにいるとも言えるし、近くにいるとも言えた。彼は送られてくる彼女からのメッセージをひたすらに読み解いていた。彼女はいったいどんな人生を送り、どんな苦難を乗り越えてきたのだろう。答えの出ない想像が、頭の中を駆け巡った。
いい夜だ。思わず彼はそう呟いていた。いい夜だ。本当にいい夜だ……。
見捨てられた街は、日付が変わってもネオンの輝きを落とすことはしなかった。
光ある場所を目指して、人々は願いを胸に今を生き続けていた。
街の景色が強さを彩る。疲れ果てた先に待つ、幸福を拾うダンスホール。そこは生きる意味を見失った者が、小さな喜びを見つけるための場所。それでは、またいつか……。お元気で。