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Wahrheit ― 真実 ―


 グワォン


 突然大きな咆哮が響き、巨大な狼がクルトを押し倒した。クルトの身体を組み敷いてその頭に喰らいつかんと大きな口を開けて牙を剥いた。クルトは咄嗟に目を閉じる。すると獣はグルルルルと低い唸り声を上げてクルトに噛み付くのを諦めた。まじないの力が通用してクルトの姿を見失ったのだ。その狼も悪魔の遣いだということに気づく。しかし見えないクルトの身体を獣は感覚だけで押さえつけている。そしてフンフンと盛んに鼻を鳴らした。流石に臭いまでは誤魔化すことができないだろう。喰われるのも時間の問題だ。何も見えないことの恐怖にも耐え切れなくなり薄目を開けて獣の姿を見る。クルトの頭上に伸ばされた獣の首の下を覗いてクルトは戦慄を覚えた。

 獣本来の長くふさふさとした毛は失われ、残っている短い毛がベルベットの生地のようにつるつるとしている。ところどころ皮膚が腐り落ち骨や筋が覗いている。生気の感じられない身体でありながら生きて動いているのだ。それは樵が襲われた晩にクルトが見たあの獣だった。おそらくそのあとの犠牲者もこの獣が襲ったのだろう。悪魔が血肉を喰らうあの残忍な音がクルトの耳にありありと蘇り、全身から汗が滲み出てくるのを感じた。

 獣がクルトの臭いを嗅ぎ分け、正面で大きな口を開けた。鋭い牙と赤黒い歯茎が剥き出しになる。喰われる! と覚悟したときだった。

 

「ザシャ……、その人を……襲ってはいけないわ……」


 部屋の奥から聞こえた掠れるような声に、狼はぶふんと鼻を鳴らしてクルトの身体から離れた。そして子犬のようにくうんと鳴いて頭を下げ、のろのろと部屋の中へ引き返していった。

 上半身を起こして狼の行方を目で追うと、部屋のいちばん奥にある大きな窓の手前に天蓋付きの豪華なベッドが置かれていた。天蓋から垂れた薄手のカーテンを通して外の光が部屋に差し込んでいる。カーテンの向こうに、ベッドに座ってこちらを向いている人影が見えた。狼はそのベッドの傍まで行くと、そこにおとなしく伏せた。

 立ち上がり一歩中に踏み込んだクルトは異様な視線を感じた。部屋をぐるりと見渡すと狼だけでなく、様々な動物が集まってクルトの方を向いていた。手前には小さな栗鼠や野鼠、その奥には兎や狸や狐、隅のほうに鹿や猪がじっと蹲り、さらに大柄な熊までもが後ろ足で立ったままじっとしていた。


「……来てくれたのね。もう……貴方は来ないと思ったわ」


 獣たちを従えているベッドの上の人物が苦しげな声を絞り出す。ゆらりと影が揺れ、横を向いたその影の背中にはスザネが突き立てた剣が刺さっていた。

 クルトは足早にベッドに近づき、天蓋から垂れているカーテンを引き開けた。ローゼマリアが見上げていた。血の気の失せた顔に目の周りは黒ずんで苦しげな息をひゅうひゅうと漏らしている。美しい顔が苦痛に歪んでいるのを見てクルトは堪らなくなり、ベッドに上がって彼女の背中の剣を引き抜いて放り投げた。クルトの顔にローゼマリアの血飛沫が飛んで流れ、施されていたまじないの聖水を流れ落としていった。急いでシーツを引き抜いてローゼマリアの腹にきつく巻きつけ、彼女の身体を抱きかかえてそっとベッドに横たえた。ローゼマリアは覗き込むクルトの顔に震える手を伸ばして嬉しそうに言った。


「……ああ、貴方の顔が見えたわ」


 涙を流して微笑むその顔はとても悪魔のものとは思えない。クルトを喰い殺そうと狙っていたなどと信じられなかった。しかし彼女が人ではない存在であることは確かなのだ。クルトは真実を訊かなければならない。


「君は悪魔なのか」


 瞬間、部屋の空気が張り詰めたように感じた。クルトの言葉に周りを取り囲む動物たちが警戒したようだ。彼らもおそらく生き物とは違う存在なのだろう。孤独な女主人を守るために存在しているのだ。


「君は五十年以上前にこの屋敷を建てた医者の妻。もとは帝国の首都で名を馳せた歌手だった。医者が従軍医として戦争に行く前に病気で亡くなった。しかし悪魔となって蘇った。そして森に迷い込む人間を喰って生き延びてきた。……それが真実なのか」


 ローゼマリアは驚いたように目を見開いたあと、また真顔に戻って言った。


「そう……、貴方はそこまで知って……」


 言葉を切って苦しそうに咳き込む。クルトはその身体を抱えるようにして傷口を押さえた。


「悪魔と契約したのは本当よ。自分と、ここに居る仲間たちが生き延びていくために。森の動物や迷い込む人間のはらわたや血を悪魔に捧げ、力を得ていたの。……しかし、そうするしか方法が無かった」


 ローゼマリアは再び咳き込み、クルトが添えている手を握った。


「全部、話すわ。貴方にはすべて……。途中で力尽きないように、しっかりと支えていて」


 クルトはローゼマリアの身体をもう一度抱きなおして傷口が開かないように腹の周りにきつく腕を回した。少し身体が楽になったのかローゼマリアはしっかりとした口調になって話し始めた。


「わたしが帝国時代に歌手であったこと、主人は医者であったことはもう知っているわね。主人は皇帝陛下専属の医者だったわ。結婚してしばらくは首都で幸せな生活を送っていた。わたしはまだ音楽堂(ホール)の歌劇でいつもマドンナを演じるほどの人気を得ていた。しかし身体に異変が起こり、主人はわたしの病が治る見込みのないことを知ったの。主人は仕事を辞め私の命が尽きるまで傍を離れないと言ってくれた。しかし皇帝陛下の私事を知る主人がその職を辞することは赦されなかった。わたしたちは全財産を持って首都を逃げ出した。この辺境の森にやってきて、ここを安住の地にしようと決めたの。

 森の周りに住む人々は親切だった。それに知り合いもいない場所で寂しくないようにと、ときどき主人は密かに古い知人に手紙を出して招待し屋敷でリサイタルを開いてくれたの。みんなに大事にされて、わたしは本当に幸せだった。

 やがて病状が悪化して、わたしは起き上がることができなくなった。その頃から主人の様子がおかしくなったの」


 少し疲れたのか、ローゼマリアは言葉を切って目を閉じた。クルトは彼女を支えたまま静かに続きを待った。部屋にたくさんの動物が居るというのに、何の気配もしない。みんな彼女の声にじっと耳を傾けているようだ。


「主人は森の動物を狩りに行くようになった。はじめは趣味なのだと思ったわ。けれどその数は尋常ではなく、ときには生け捕りにした動物を何頭も檻に入れて飼っていることがあった。わたしはほとんど寝たきりで実際に主人が何をしているのか分からなかった。

 主人は捕えた動物を使って美しい剥製を作る実験をしていたことを後で知ったわ。剥製といっても彼が目指していたのは、すべての器官や臓腑を残したままの生きているかのようなミイラ。実験台となった動物の剥製がこの屋敷に溢れていった。初めの頃は失敗ばかりだったのでしょう。その犠牲となったのがホールに飾られた頭だけの動物たち。やがて彼は思い通りのミイラを作れるようになった。そして彼の本当の目的は、わたしが死んだあと、この身体を生きているときと同じ状態で保存することだったの。

 わたしは死んだわ。そして彼はわたしの身体を無傷で残すことに成功した。彼は満足してずっとわたしの傍を離れなかった。彼はすでに狂っていたの。けれどそれからほどなくして、皇帝の役人がここを見つけたわ。ちょうど隣国と大きな戦争をしている最中で、彼は負傷した兵士を診る従軍医に招集された。けれど従軍医とは名ばかりで、皇帝を裏切った主人の処刑が目的だったに違いないわ」


 クルトはそこまで聞いて不思議に思った。彼女は何故死んだあとのことを知っているのだろうか。その心を見透かしたようにローゼマリアは続きを語った。


「わたしは永遠の身体を手に入れたために不幸になったわ。人は死んだあとその魂は身体から解放されるもの。しかしわたしには永遠に腐らない完全なままの身体が残っていた。だから魂が解放されることはなかったの。

 わたしはふたたびこの身体に引き戻された。動かすことのできないこの身体の中に閉じ込められて、ただ成り行きを見守るしかなかったの」


 ローゼマリアは傷の痛みというよりもその当時を思い出して苦しむように顔を歪めた。彼女の目から涙がこぼれる。


「苦しかったわ。怖ろしかったわ。あなたには分からないでしょうね。血の通わない身体の中で永遠に生き続けなくてはいけない恐怖。せめて主人が過ちに気づいてこの身体を葬ってくれないかと思っていたのに、わたしを残して彼は連れていかれてしまった。いつか帰ってくる日を待ち続けたのに、とうとうそれは叶わなかった。わたしは彼を心の底から憎んだわ。亡くなった彼の魂がここへ戻ろうとしていたとしても憎悪がそれを妨げたのでしょうね。

 十年が過ぎ、二十年が過ぎ、やがてわたしは全てを呪うようになった。その心に引かれて悪魔はやってきた。悪魔の望むものを差し出せば、この身体に血を巡らせ、自由に動かせるようにしてやると。わたしは迷うことなく悪魔に誓ったわ。悪魔はわたしだけでなく、同じように主人に生きたままの姿にされた動物たちも救ってくれた。ひとりぼっちは寂しいだろうと……。契約を結んだ者に悪魔はとても優しかった。それから仲間と共に悪魔の望むものを捧げたわ。それは生けるものの新鮮な血肉。ここに居る仲間たちの手を借りて森に棲む動物や迷い込んだ人間たちを襲い、その血肉を漁って悪魔へと捧げ続けたの」


 無惨に死んだ樵のヘルマンの姿を思い出し、クルトははじめてローゼマリアに怒りを感じた。


「それは勝手過ぎる。自分が苦しみたくないからといって、多くの命を犠牲にするなんて!」


「クルト、貴方には分からないと言ったでしょう? 自らを滅ぼすことも生きることもできない日々がどのように苦しいものなのかということを。そうよ。わたしは狂っていたのかもしれないわ。でもそれは狂ってもおかしくないほどの恐怖なのよ。悪魔にでもすがらなければとても耐えられるものではなかったの」


 ローゼマリアに同意するように、部屋にいた動物たちが一斉に哀しげな声で鳴いた。生きているときと変わらないようでいて、生気のない器に閉じ込められた魂たち。みなローゼマリアと同じ苦しみを味わった者たちだ。ひとりの愚かな男の行いによって。


「でもね、主人の技術は完璧ではなかったの。五十年を経てわたしの肉体は少しずつ腐り初めていた。わたしは喜んだわ。ついにこの檻から解放される日が近づいてきたんだと。嬉しくてあの頃のように歌ったわ。この身体との別れを喜ぶ気持ちを歌に託して思い切り歌ったわ。

 ……そのとき、貴方に出会ってしまったの……」


 クルトは言葉を失った。

 未来を棄てようとしていた彼女に、さらに未来へ生き抜きたいと希望を与えてしまったのはクルトだった。腐り掛ける肉体を持ち堪えさせるために、彼女とそれを支える仲間たちは盛んに悪魔へ贄を捧げた。少しでもクルトとふたりきりの時間を作るため、殺戮した人間の遺骸を人の目に晒し、他の人間を森に寄せ付けないようにした。それが多くの犠牲者を出した事件の真相だったのだ。


「夫は愛するわたしのためと言いながら自分が満足したいがためにわたしの身体をこんなにした。そしてわたしも、貴方を愛していると言いながら自分が満足したいがために多くの罪を犯した。悪魔はそんな邪心を最初から見抜いていたのよ。愚かなわたしたちはそれを一途な美しい愛だと信じていたの」


 ローゼマリアはクルトの腰に手を回して短剣を探り当てて握ると、言った。


「クルト、貴方が提げているこの短剣でわたしの心臓を貫いて。悪魔との契約は自らの手で自らを葬ることを禁じている。貴方の手でわたしを解放して頂戴。そしてこの館を燃やしてここに居る仲間たちの魂も解放してほしいの」


 クルトはローゼマリアを抱き締めて答える。


「ぼくも一緒に行くよ。ここで一緒に命を絶って、永遠に君と一緒に……」


「クルト、それは無理よ。悪魔に身を売って多くの罪を犯したわたしがこれ以上自分の思い通りに出来るわけないわ。一緒に命を絶っても堕ちて行く先は別々よ。それなら最後にわたしの望みを聞いて。貴方はこれから素晴らしい人生を生き抜いて。それがわたしのいちばん望むことなの」


 ローゼマリアはそう言って優しく微笑んだ。そしてクルトの輪郭をひんやりとした手でなぞった。

 それから少しして、彼女は急に苦しみ出した。すべてを語り終えるのを待っていたかのようにローゼマリアの身体は急激に弱っていった。

 荒い息を繰り返すローゼマリアをベッドにそっと横たえてその身体に跨ると、クルトは腰の短剣を抜いた。そのときローゼマリアが嬉しそうに微笑む顔を見た。

 クルトは目を閉じ彼女の胸に一気に短剣を振り下ろした。




「クルト!」


 屋敷からよろよろと出てきたクルトにスザネが飛びついた。しかしクルトの眼は宙を向き正気を保っていないようだった。顔中に血の流れた跡を付けて放心状態になっている彼の姿にスザネは絶句した。スザネの後から神父がやってきてクルトの様子を見た。クルトの肩を開いてみると古傷のように残っていた悪魔の徴は綺麗に無くなっていた。


「スザネ、よかった。クルトは悪魔から解放されましたよ。もう大丈夫です」


 スザネはクルトの身体を抱き締めて大声で泣いた。

 そんな三人の横を大勢の村人たちが駆け抜けていった。それぞれ手に古い木材を持ちそれを手際よく屋敷の周りに組み上げていく。松明を手にした者たちは庭の真ん中で火を熾しつぎつぎとそれに移していった。油の甕を運んで来た者たちが組まれた古材木にまんべんなく掛けていく。松明の火が油に触れると材木は一気に燃え上がった。

 ローゼマリアの屋敷は真っ赤な炎に包まれた。多くの仲間の命を奪った悪魔を焼く轟々という炎の音に村人たちは歓声を上げる。仲間の仇を討ち、森に平穏が戻ることを誰もが喜んだ。

 天に向かって燃え上がる炎をクルトは何の感情も持たずに見つめているだけだった。




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