Zweifel ― 疑惑 ―
不思議なことに、黒い森の中は以前のような心地よい静寂に包まれていた。猟奇的な殺人事件が続いたあとは、流石にクルトでも森の中に入るときは緊張していたし、さらにはローゼマリアの屋敷から飛び出したあとに感じた重苦しい感覚は表しようのない恐怖だったから、再び森に入ることをこれまで以上に警戒していたのだ。
神父のまじないによって禍々しいものを遠ざけているからかもしれない。初めてローゼマリアと出会ったときの森のような清々しい雰囲気だ。あのときクルトは初めてサロンで演奏し、極度の緊張による疲れや小さな失敗に落ち込んではいたものの、未来に希望を抱いていた。森はそんな夢見る若者を包み込むような優しい空気に満ちていたはずだ。
木々の間に一層の光が輝くと、その先には光に溢れる庭と大きな屋敷が見えてくる。咲き誇る色とりどりの薔薇の花園の真ん中に、陽の光を反射させている金色の髪が覗いているのが見えた。久しぶりに見たローゼマリアの姿に郷愁を感じる。それでも今日はその想いを断ち切らなければならないのかもしれないのだ。覚悟を決めてクルトはその影に近づいていった。
薔薇の生垣の中に迷路のように走る細い芝生の通路を入り込んでいくと、ちょうど通路の交差する場所にローゼマリアの後ろ姿があった。彼女は咲き終った花や枯れた枝を切り取って薔薇の手入れをしていた。自分の手が汚れることも厭わず丹精に庭を手入れをする。そして作業が終わると数本の花枝を切り取って居間のテーブルに活ける。それが彼女の毎朝と午後の日課だ。
クルトはローゼマリアにそっと近づき、その背中に呼び掛けた。
「ローザ」
クルトが背後にいることを知ったローゼマリアは振り返らずに手を止めた。しばらく動かずにいたが、やがて手を胸のところで組んで俯くと嬉しそうな声で言った。
「クルト、戻ってきてくれたのね。よかった。あのときわたし、貴方の気持ちをはぐらかすようなことをして悪かったと思っていたのよ。貴方はわたしのことを想って決意をしてくれたのよね。分かってはいたけれど、わたしには此処を離れられない理由があるの。それをきちんと話さずにあなたの申し出を断るなんて、ひどいことをしたわ。でも、わたしも貴方を愛しているわ。貴方とずっと一緒にいたいのよ。これは本当のことよ」
ローゼマリアの言葉にクルトの気持ちが揺れていく。しかしその気持ちを押さえ込んで、クルトは目を閉じた。ローゼマリアはゆっくりとクルトの方を振り返った。
ひとときの沈黙。やがてローゼマリアの怪訝な声が響いた。
「クルト? 貴方、どこにいるの? 」
目を閉じてローゼマリアの正面に立つクルトは手足が冷たくなっていくのを感じた。
―― ぼくが見えないのか? ローザ! ――
「クルト、どこに行ったの?」
クルトを残して、ローゼマリアの声が遠ざかっていく。声は生垣の向こうに離れていき、そこからまた彼を呼ぶ。
「クルト? どこなの? いないの? 」
声は止み、芝生の上をパタパタと小走りに動き回る音がしていた。彼女の気配が消えるとクルトはその場にしゃがみこんで頭を抱えた。堪えようとしても涙が溢れ、小さな嗚咽が漏れた。間違いない、彼女は悪魔なのだ。それでもまだ信じきれない気持ちの方が大きく心を占めている。
どのくらいのときが経ったか分からないが、クルトはようやく心を決め立ち上がった。帰路を探すべく瞼を開いたとき、目の前に蒼白いローゼマリアの顔が迫っていた。
「ここに居たのね、クルト……」
咄嗟に目を閉じて後ずさりするが、ローゼマリアはもうすでにクルトの頭を掴んでいた。
「貴方の姿が見えないわ。でもその瞳だけでいい。もう一度わたしに見せてちょうだい。わたしはその瞳を貴方だと思って大事にするわ」
クルトはますます強く目を閉じ、両手でローゼマリアの手首を掴んで引き離そうとした。しかし彼女の手はびくともしない。それどころかぎりぎりと力を籠め、クルトの頭を潰そうとするかのように挟み込む。その姿が見えないことで不安になったローゼマリアは折角掴まえたクルトを離すまいと必死だった。
突然クルトの顔のすぐ前で甲高い叫び声が上がった。同時にこれまでクルトの頭をしっかりと掴まえていたローゼマリアの両手が離れた。急に解放されたクルトはそのまま後ろに転がった。何が起こったのか。無意識にクルトは目を開いていた。
クルトの前には、腹を屈めて苦しむローゼマリアの姿があった。その腹から剣の切っ先が覗いており、ローゼマリアの背後でその剣の柄を握って立っていたのはスザネだった。
ローゼマリアは苦しみ悶えながら顔を上げ一瞬クルトの目を見たが、また身体を屈めて横を向いた。スザネが離した剣を背中に突き立てたまま、ローゼマリアは屋敷のほうへよろよろと歩き出した。
スザネは慌ててクルトに駆け寄ってきた。
「もう大丈夫だよ。あれは神父さまからいただいた聖剣だよ。悪魔はあれを自分で抜くことはできない。そのうち悪魔は力尽きて消えるはずだ。早く村に戻ろう」
いざとなったとき、クルトに迷いが生じるのではと心配したスザネは神父から教会に古くから伝わる聖剣を借りて、クルトの後を追ったのだ。薔薇の生垣に身を潜めてローゼマリアとクルトの様子を窺っていたのだ。
スザネはクルトの手を引いて起こそうとしたが、クルトは動こうとしない。
「クルト、帰って村人にこのことを知らせよう。悪魔はひとりとは限らない。早くこの屋敷を燃やして悪魔を根絶やしにしなくちゃいけないよ」
しかしクルトはスザネの手を振り払って答えた。
「スザネ、悪いがひとりで村に帰ってくれ。頼む」
「なんでだよ。一緒に逃げなくちゃダメだ! 悪魔が完全に滅びるかどうか分からない。復活の方法を知っているかもしれないじゃないか!」
ダンと重厚な扉が閉まる音がしてローゼマリアの姿は屋敷の中に消えていた。
「お願いだ、スザネ。ぼくは彼女を殺すことができない。それを見ていることもできない。彼女と一緒に燃やしてほしいんだ。それがぼくの望みだ。これは悪魔に操られているわけではない。ぼくの本心なんだよ」
ダメだ! いけない! と叫びながらスザネはクルトを引き起こそうとしたが、彼は頑なに身を強張らせて動こうとしない。何とか彼を動かそうと必死に力を込めても抵抗するクルトを動かすことはできなかった。しばらくして、このままクルトと押し問答をしていても何も解決しないと思ったスザネは仕方なくクルトから離れた。
「村人が来たらあんたを必ず探すから。そしてみんなであんたを悪魔から引き離すから!」
クルトにそう叫んでスザネは村へと走り去った。
スザネの姿が見えなくなると、クルトは立ち上がった。ローゼマリアの屋敷に向かい、重いオークの扉を押す。中に入ってクルトは目を疑った。悪趣味だとは言いながらも、贅を尽くした立派な屋敷だと感じていた。壁や床や階段の手摺も常にきれいに磨かれて光沢を放っていた。高い天井に吊るされている大きなシャンデリアの宝石も灯がともればキラキラと輝いていた。
しかし今クルトが立っているホールは廃墟そのものだ。壁は剥がれ落ちた場所も多く、床板もめくれ上がったり抜け落ちたり。崩れた天井か壁か分からないが、ホールの真ん中に瓦礫が山を作って行く手を塞いでいる。瓦礫の傍に天井から落ちたシャンデリアが無残に砕けて散っていた。一歩進むたびに床に積もった埃が舞い上がり、窓から差し込む光の中で白い煙を上げる。
クルトは障害物の間を何とか通り抜けて奥へと進み、いつもローゼマリアが寛いでいた居間に入っていった。居間もホールと似たような状態だった。綺麗に整えられて趣味の良い装飾品が飾られていたはずの部屋も無残に荒れ果て、あの美しい白い壁や家具は薄汚れて表面が剝がれたり壊れたりして見る影も無い。中に足を踏み入れると、床がぎしぎしと唸った。天井から蜘蛛の巣が薄いカーテンのように垂れ下がっている。あの夜彼女を抱いたソファは脚が折れて傾き張られた布は擦り切れてぼろぼろだった。
彼女が魔力でクルトに幻影を見せていたのだと、それを見てもなお信じられない思いだ。すぐにクルトの命を奪わずに長い時間を掛けて惑わせたのはいったいどうしてなのか。クルトはますますその理由を知りたがった。
居間にローゼマリアの姿がないことを確かめて、クルトはまたホールに戻った。もう一度扉の前に立ってよく見れば点々と中へ続いていく血の跡があった。クルトはその後を辿っていった。
血痕がホールの右側を回って階段を上がっていく。踊り場から玄関を背にして上がる大階段を通って赤黒い染みは二階へと続いていた。クルトは屋敷の二階にそのとき初めて上がった。左右にいくつかの扉を持つ長い廊下が奥へと続いていた。廊下は薄暗く最奥は闇に包まれている。もう血の痕がどこまで続いているのかはっきりしないが、クルトは何かに導かれるように真っ直ぐ廊下を進んだ。手で壁の感触を確かめてゆっくりと歩いていく。やがてその正面に扉らしきものが見えてきた。近づくとその隙間から僅かに光が漏れているのが分かった。
扉に辿り着いてクルトは取っ手を掴み、少し息を整えて一気に引き開けた。