Teufel ― 悪魔 ―
宴もたけなわを過ぎ、いつの間にか客人の姿もまばらになっていた。彼らはどうやって帰っていったのだろうか。それ以前に、馬車も通れないこの森の中までどうやってやってきたのだろうか。クルトは多くの疑問を持ったがそれを直に問う相手はいない。ローゼマリアは知っているだろうが、それを聞いたとき、彼女との幸せな時間がすべて幻となって消え去ってしまうような怖れを抱いていた。
「ここに居たの? クルト」
懐かしい友との語らいを邪魔してはいけない ―― いや、彼女の秘密をこれ以上知るのが怖い ―― と思って意図的に距離を置いていたクルトを見つけて、ローゼマリアが安心したように声を掛けてきた。
「ああ、あまりにもたくさんの人と話したので、疲れてしまったよ」
本音を悟られないように、クルトはいかにも接待に忙しかったという風を装って答えた。
「そうね。知り合いとはいえ、私も疲れたわ。それに調子に乗って飲みすぎてしまったよう……」
そのままふらふらと倒れかけたローゼマリアをクルトは慌てて支えた。本当に酔いが回ってしまったらしく、クルトが脇を抱えて支えながら歩かせようとしてもうまくできないようだった。
彼女の身体を引き摺るようにして、クルトは屋敷の中へ入った。暗闇に包まれた屋敷の中でも居間がどこにあるのかはだいたい見当がつく。手探りでドアを探し当てて中へ入りソファを探し当てて彼女を寝かせた。壁に据え付けられた燈台に灯をともすと、ローゼマリアが身体を横たえたままこちらを見ていた。
クルトはソファの脇に腰を下ろして訊いた。
「気分はどう?」
「さっきはひどい眩暈がしたけれど、横になったら少し楽になったわ」
それでもまだローゼマリアの顔は蒼白く見えた。その顔を見つめてクルトはこれまで言い掛けて最後まで告げられなかったことを伝えようと思った。
「ローゼマリア、よく聞いてほしい。ぼくはずっと男爵家や他の貴族の屋敷に出入りしていたからよく知っているんだ。君のご主人が召された戦争はもうとっくに終わっている。戦地に行っていた兵士たちも無事だった者はみな帰還しているんだ。今になってもご主人が戻らないということは、彼は亡くなったんだ。君は信じたくないだろうが、もうここで待っていても意味はない。
ぼくは君を支えられるだけの稼ぎを得られるかどうか分からないうちは、それを告げることができなかった。でも、今は大公妃専属の演奏家としての地位を得た。だからぼくがご主人の代わりに君を支えよう。君が小さな村で暮らすことを不満に思うなら、街で一緒に暮らそう。そして君はまた歌を歌えばいい。音楽堂に立ってマドンナを演じることも夢じゃないんだ。
どうか、ぼくと一緒に来てくれないか」
クルトは誠心誠意を尽くして想いを告げた。しかしローゼマリアは何も答えずクルトを見つめている。驚いた表情も喜ぶ表情もない。何の変化も見せずただクルトの瞳を見つめているだけだった。
どのくらい動かずに見つめ合っていただろうか。やがてローゼマリアの手がすっとクルトの頬に伸び、その顔を引き寄せた。彼の唇に自分の唇を重ね合わせると、その手をクルトの背中に回して身体ごと引き寄せる。それが彼女の返答なのだとクルトは思った。誘われるままにローゼマリアに覆い被さる。これまで掴まえようとしてもするりとその手を抜け出してしまう気まぐれな彼女をようやくその腕の中に収めることが出来たのだ。そしておそらく、これから共に暮らしていくと彼女が誓ってくれたのだ。
ローゼマリアの肌はひんやりと冷たかった。長く夜気に当たっていたせいで冷えてしまったのかもしれない。それを温めるようにクルトは自分の素肌をすり合わせる。すると彼女は突然クルトの肩をきつく掴んで爪を突き立てた。鋭い痛みを感じたが、それは長らく異性を知らずにいた彼女がひどく緊張しているせいだとクルトは思った。
「何も怖くはないよ」
そう囁いたのは自分に対してかもしれない。しかしその言葉に安心したのかローゼマリアはまたクルトの背中に優しく手を回した。そして自然に彼を受け入れた。
眩い日の光で目覚めたときには、クルトはソファに独りで横になっていた。体にローゼマリアのガウンが掛けられていた。目を擦って居間を見回すと、テーブルに摘んだばかりの薔薇を生けているローゼマリアが見えた。普段着に身を包み、何事も無かったように楽しげに鼻歌を歌いながら。
「おはよう、ローザ」
クルトが声を掛けると、彼女はふり返って微笑んだ。
「おはよう、クルト。よく寝られたかしら?」
間抜けな問いかけに噴き出しそうになった。けれど何時もどおりの彼女の様子にクルトは胸を撫で下ろした。
枕元に綺麗に畳まれていた服を纏うと、クルトは起き上がった。テーブルにはすっかり朝食の用意が整っている。
穏やかな朝のひとときを、ふたりで食卓を囲みたわいもない会話に費やす。幸せな時間を十分に堪能したあと、クルトはこれからのことを彼女と相談しなければと思った。
「昨日の話だけど。君と街で暮らしたいと思っているのは本当だ。けれど準備が必要だ。その間我慢して村で暮らしてくれないか。なるべく早く街へ越せるように手配するから」
クルトの言葉に、ローゼマリアはきょとんとした顔をする。
「つまり、ここを離れてしばらくは村で暮らしてほしいんだよ。約束は守るから」
しかしローゼマリアはまるで噛み合わない返事をした。
「わたしはここを離れる気はないわ」
クルトはみるみるうちに表情を強張らせて立ち上がった。
「どういうことだ! 君はゆうべ約束してくれたじゃないか! ぼくと一緒に暮らすことを!」
しかしローゼマリアは怪訝な顔を浮かべている。そして静かに首を振った。
「約束などしていないわ。私はここを離れることはできないの」
「だって! もう君の夫はもう帰ってこないんだ。ここに居る理由はないんだぞ! それに森には恐ろしい獣が出て、もう何人も人を襲っているんだ。こんな危険な場所に君を置いておくわけにはいかない!」
感情を抑えられず、クルトはローゼマリアを怒鳴りつけた。しかしローゼマリアはまったく動じず冷静にクルトに告げる。
「もう何年もこうして暮らしてきたのよ。私はここを離れない。貴方さえよければ一緒に暮らしてくれないかしら」
「それは無理だ! ぼくには病気の母と妹がいるんだ。それにさっき言った獣は長いこと森で暮らしてきた樵さえも殺したのだ。いくら君が森の暮らしに慣れているからといって、安全とはいえないんだよ。だから君を守ろうと思ったのに。
君こそそんなにぼくと村で暮らすのが嫌なのか。都会育ちのお嬢様は田舎者とは合わないと思っているんだな。それならぼくも君とは合わないのだろう。残念だがこれきりだ!」
そんなことを言うつもりではなかった。ローゼマリアを心配し彼女を思いやって慎重に言葉を選んだはずなのに何も伝っていなかった悔しさ、そして誠実な想いをはぐらかされたような気恥ずかしさを感じて、本心とは全く違う言葉が後から後から口をついて出てしまったのだ。そこまで言い切ってしまうとクルトはその場に居られなくなり、屋敷を飛び出した。庭はすっかり片付いていていつもの薔薇の庭園になっていた。バイオリンはケースに収まって備え付けの石のベンチに置かれていた。
クルトはそれを持って森の中へ駆け込んでいった。
足早に森の道を往くうちに、悔しさよりも情けなさのほうが強くなってきた。誰よりも愛しいと思う女性を守るためなら自分が森に留まるべきではなかったのか。本当に彼女を守りたいと思うなら悪魔と闘う勇気を持つべきではなかったのか。クルトにはそこまでの勇気はないのだ。こんな弱気な自分が彼女を守ろうなど詭弁に過ぎない。そして情けない自分に気づいてしまったら、二度と彼女の前に姿を見せることなどできない。
クルトはふと、周囲に異様な空気が張り詰めていることを感じた。重苦しく生暖かい何かがクルトを取り囲んでいるような気配を感じた。
―― 悪魔 ――
クルトの脳裏にふと過ぎる。悪魔は人が疑念や絶望を抱いたときに姿を現すという。ましてや実際に悪魔の犠牲になった者が何人も出ているのだ。この黒い森の中を往く苦しむ心を抱えた人間は格好の餌食となるだろう。
途端に背筋が凍るような感覚を覚えた。早く森を抜けようと一目散に駆け出した。おかしな気配は全力で走り続けるクルトに尚も纏わり付いてくる。まだ午前中だというのに辺りはどんどん暗くなっていった。風を切る音に加えて微かに笑い声が聞こえたような気がした。怖れおののく人間を見て悪魔が愉しんでいるのだろう。
―― 追いつかれる! ――
クルトが覚悟を決めたとき、彼は薄闇の森を抜けて光の中に飛び出ていた。村に辿り着いたのだ。助かったと思った瞬間、身体の力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
井戸に水を汲みに来た女性が、森の入り口で放心状態でしゃがみこんでいるクルトを見つけて駆け寄ってきた。
「クルトじゃないか! どうしたんだい、真っ蒼な顔をして!」
女性が甲高い叫び声を上げたので、近くの家からぞろぞろと村人が出てきてクルトの周りに集まった。何かに取り憑かれたようなクルトの様子に、村人のひとりが慌てて神父を呼びに行った。やがて騒ぎを聞きつけ、スザネもやってきた。しかしスザネはつかつかとクルトに歩み寄ってその前に屈むと、思い切り彼の襟首を掴んで引っ張った。
「どこ行ってたんだよ、クルト!」
スザネは心底怒っているようだ。いつものような怒り方ではない。どうにもならない怒りを必死で押さえつけているようだ。
「……母さんが死んじまったよ」
冷たい声でスザネが呟いた。その言葉でクルトは急に我に返り、スザネにしがみついて訊き返した。
「何だって?」
「母さんがゆうべ死んだんだ! 昨日の朝クルトが出掛けたあと急に具合が悪くなって。最期までクルトの帰りを待っていたのに、あんたは帰ってこなかった」
「そんな……」
スザネはクルトの襟を思い切り引っ張って彼の身体を大きく揺すった。
「ひどいじゃないか! クルトはもう悪魔の餌食になっちまったんだって、そう思って諦めた。母さんも亡くして、クルトもいなくなって、もうどうしていいのか分からなかった。そしたらあんたは平気でのこのこ戻ってきやがった! あんたなんか、本当に悪魔の餌食になっちまえば良かったのさ!」
泣き叫ぶスザネを、村人が数人掛かりでクルトから引き離した。それでもスザネはクルトに恨み事を吐いて泣き喚いていた。立ち尽くすクルトの後ろで村人のひとりが悲鳴を上げた。スザネが渾身の力で引っ張ったせいでクルトのシャツははだけ、肩が覗いていた。その肩にはこれまで犠牲になった者の身体にあったのと同じ『悪魔』の刻印が刻まれていたのだ。
「クルト! その肩の傷は何だ! お前は悪魔に遭ったのか?」
騒然となって村人は一斉にクルトから距離を置いた。
そのとき丁度、神父がやってきた。クルトを遠巻きに囲む村人の輪の間から神父はクルトに近づいてきた。そしてクルトの背中に回ってその肩の傷を手でなぞった。
「クルト、どこでこれを刻まれたのです?」
しかしクルトには身に覚えがない。ローゼマリアの館から帰る途中で悪魔の気配を感じはしたが何かが身体に触れたわけではなかった。記憶を遡って思い当たるのは、昨夜ローゼマリアを抱いたとき彼女がきつく爪を立てたことくらいだ。まさか……。
クルトの顔色が変わったのを見とめて神父は黙ってクルトの手を引いた。そして教会へと引っ張っていった。途中で追ってこようとする村人を神父は険しい顔でふり返って制した。
「悪魔に穢された気配があるのなら亡くなった母親に会わせるわけにはいかない。詳しいことは私が訊き出して解決しましょう。他の者は興味本位でこのことに触れてはなりません」
重みのある神父の言葉に村人は誰も逆らえなかった。スザネはますます混乱してひどくうろたえるばかりだった。