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Applaus ― 喝采 ―



「これで五人目か。しかも獣を捕えに行って逆にやられてしまうとは。もう手の施しようが無い」


 村は騒然としていた。二人目の犠牲者が出たあと、腕に覚えのある猟師が三人で獣を捕えるために森へ入った。これまでの被害者の状態から襲ったのは同じ獣であって、単独だろう。三人でしかも腕のいい猟師であればいくら凶暴な獣であっても仕留めることが出来るだろうと、村の者たちは期待を寄せていた。

 ところが、森に入ってすぐに三人はぷっつりと消息を絶ってしまった。彼らが戻ってきたのは三日後だ。二人は村のすぐ傍で、一人はそこから少し奥地へと入ったところで、これまでの犠牲者と変わらない姿で発見されたのだ。

 彼らが襲われたのがその場所でないことは明らかだ。持っていた猟銃には弾は残っておらず、襲い掛かる獣に三人で盛んに攻撃したに違いない。しかしその銃声を聞いたものは村には誰も居ないのだ。銃声が聞こえないほど距離のある場所で襲われた証拠だ。それなのに、獣はその遺骸を村の近くまで運んで来た。一人目や二人目の犠牲者のときのように、一人だけの遺骸ならまだしも、三人の男の遺骸を遠くから運んでくるなど、ただの野生動物に出来るはずはない。

 さらには、三人の遺骸の肩には共通して不可解な文様が刻まれていた。それはただの傷ではない。三人の遺骸の文様がみな似通っていたからだ。村の者が知る言葉ではないが、文字のように見える。


「悪魔の仕業だ! 悪魔が呪いを掛けたのだ」


「昔から黒い森には悪魔が棲むという伝説があるではないか。太古の悪魔が蘇ったに違いない」


 村の者たちは口々にそう言った。悪魔の仕業なら到底人の手には負えないだろう。怯えた村人は村の中心にある小さな教会の神父に助言を求めた。神父はお説教を説くように、村人たちに語って聞かせた。


「確かに、悪魔は鬱蒼とした暗い場所を好んで潜んでいるものです。黒い森が悪魔の棲みかとなり、折に触れ人を襲うということも在り得ることで、そのような伝説も数多く残されています。しかし悪魔はただ悪戯を愉しみたくて人の前に現れるものではない。悪魔を呼び寄せるほどに大きな苦しみ恨み疑念を人間が抱いたときにその人間の念に付け入ってくるのです。それを示すように戦乱の時代には多くの悪魔の噂が囁かれました。しかしこの平和な時代には久しく聞いたことがなかった。平和な世であっても大きな苦しみや恨みを抱いている者がどこかにいるのでしょう。その元凶を断たねば悪魔を退治することはできないでしょう」


 村人はお互いにお互いを疑いの目で見た。その様子を見て神父は諭した。


「しかし、無闇に疑心暗鬼になれば余計に悪魔の力を助長させてしまいます。ともかく森が危険であることは間違いない。なるべく立ち入らないことが一番良い方法です」


 村人は相談して決まり事を定めた。よほど必要でない限り森に立ち入らないこと。他の村や街へ行く場合は遠回りでも街道を行くこと。どうしても森に入らなければならない時は、銃を所持すること。猟師も襲われたことを考えれば銃を持っていても意味はないのだろうが、ともかく襲われることを覚悟して自分の責任で対処せよということだ。周辺の街や村にもこの決まり事が伝えられ、悪魔が退治されるまではそれを守るということで一致した。しかし猟師や樵など森の仕事を生業とする者も多く、誰ひとりも森に足を踏み入れさせないようにすることは難しかった。


 クルトは困り果てた。大公の宮殿までは少々費用が嵩んでも街道に出て馬車を利用すればよい。しかしローゼマリアの館に行くには森に入らねばならないのだ。それにこのような事態になったからには、一刻も早くローゼマリアを森から連れ出さねばならない。しかし彼女は知人を呼んでリサイタルを開くことを楽しみにしているのだ。金曜まではあと四日だ。金曜になってリサイタルを終えたらそのまま彼女を村に連れてこよう。クルトはそう心に決めた。それまで事を荒立てたくないクルトは、その間スザネの言うとおりに遠回りをして乗り合い馬車を利用して自宅と大公の宮殿を往復した。

 数日とはいえ、ローゼマリアに会えないことが辛い。それよりも彼女が無事でいるかどうかが非常に気掛かりだ。クルトの心は張り裂けそうだった。


 ようやく金曜がやってきた。クルトは、往きは馬車を利用して大公の宮殿に向かい、その帰りに森を抜けてローゼマリアの館に行く予定だった。

 パーティーは夜行われる。その夜は彼女の館で過ごし、翌日彼女を伴って村へ帰る。村の者は約束を破って森に入ったことを責めるだろうが、彼女を救うためだったと知れば分かってくれるに違いない。スザネも……。きっと分かってくれるだろう。もともと気の優しい娘だ。新しい家族として迎えてくれるだろう。

 往きの馬車に揺られながら、クルトはいろいろと思いを巡らせた。


 大公の館では、クルトの人気はますます高まっていた。大公妃お抱えの若きバイオリニストは貴族の娘たちの熱い視線を一心に集めていた。演奏を終えると彼の周りを何重にも取り囲んで思い思いに話しかけてくる。彼女たちはクルトに気に入られようと愛想を振りまくのに忙しい。このごろは演奏よりも淑女たちの相手に忙しかったクルトだが、この日は予定を終えると彼女たちをうまくあしらってそそくさと宮殿を後にした。


 久しぶりに踏み入った森は不気味だった。ずっと通っていたはずの小道も僅かな間に急に草が伸びてその中に埋もれてしまっていた。太古の原生林のように人を寄せ付けないような気配を漂わせている。すべての植物や動物が、禁断の地に迷い込んだ人間を監視しているかのようだ。

 道が消えかけていても、進んでいくうちに通い慣れたその跡を辿れるようになった。見当が付けば不気味な気配も感じなくなった。そして視界が開けローゼマリアの館が姿を現したとき、クルトは長い旅の果てに故郷へ帰ってきたかのような懐かしさを覚えた。


 館の庭にはたくさんのテーブルや椅子が並べられていた。周囲に木の棒が立てられてそれらを繋ぐ綱に等間隔に提灯が提げられている。庭の隅に少し高い台が置かれ、その上には尚たくさんの提灯が提げられ、両脇には松明を焚く背の高い燈台が置かれていた。屋敷の庭は夜のパーティーに向けて準備がすっかりと整っていた。しかし庭にまだ人影は無かった。

 クルトは屋敷の中に入り居間にローゼマリアの姿を求めた。彼女は真っ白なパーティー用のドレスに身を包みながら、何時もと同じように居間で寛いでいた。しかしクルトの姿を見た途端、顔を綻ばせ駆けよってきた。


「よく、いらしてくださったわ、クルト! しばらく来てくださらなかったから、貴方はもう今日のパーティーには来られないのだと思ったわ!」


 何時ものようにゆっくりと手を差し出すことをせず、ローゼマリアはいきなりクルトの首に飛びついた。そしてクルトを離すまいとするように腕に力を込める。仕方なかったとはいえ、彼女を不安にさせてしまったことをクルトは悔いた。


「すまなかった。ここのところ仕事が長引いてどうしてもここに寄ることができなかったんだ。でも今日だけは必ず来なくてはと思っていたんだよ」


 それを聞いてローゼマリアはクルトの首に絡めた腕をほどいて身を引き、彼の目を見つめて微笑んだ。


「うれしいわ。ちゃんと覚えていてくれて。今日は最高の歌が歌えそうよ。あまり時間は無いけれどリハーサルをしましょう!」


 ローゼマリアはぱっとクルトから離れてテーブルの上の楽譜を取りに行った。相変わらず忙しない彼女の仕草を見て、会わない間に彼女が何も変わっていなかったことに安心するクルトだった。

 これまで以上にふたりの練習には熱が篭っていた。今までは二人の間だけで満足していたものを、今宵は大勢の観客に聴かせなくてはならない。ローゼマリアの知り合いばかりだというから、多少の失敗も愛嬌と見てくれるだろうが、誰であろうと他人に聴かせるなら完璧にしておきたいという拘りがある。音楽家(プロ)としてふたりは最高のものを聴かせるのだという意識は一致していたのだ。

 夢中になって練習しているうちに、いつの間にか外は暗くなっていた。どうにか二人とも納得のいく形となって満足したときには、部屋は薄闇に包まれ、反対に庭は、用意されていた提灯すべてに灯りがともり、台の横に設えられた燈台には松明が赤々と燃え、非常に明るかった。いつから集まっていたのだろうか、すでに椅子に何人もの客が座っており、その周りにも立って談笑している客人たちがたくさん見えた。

 ローゼマリアが慌てて手もとの燭台に灯をともしたが、窓の外のほうがよほど明るいくらいだ。ローゼマリアが燭台と譜面を持ち、クルトはバイオリンと弓を手に、ふたりは寄り添うように部屋を出て庭に向かった。


 ふたりの姿が屋敷から現れると、集っていた客人たちがいっせいに拍手喝采を浴びせた。クルトは驚いた。危険だと言われて森の周辺の街や村には無闇に森の中へ入らないようにという勧告が広まっているはずだ。その中で夜の森に何故これだけの人が集まることが出来たのだろうか。よく見ると庶民のようないでたちの者はいない。女性は貴族のように裾の広がった美しいドレスに身を包み、男性もやはり位の高い者が身につける飾り襟の付いた長いコートを纏っている。中には軍服に身を包み、胸の部分に所狭しと勲章を縫い付けている者もいた。

 ローゼマリアはクルトより一足先に歩み出し、来賓の中を進んで行った。彼女が通り過ぎるとき、女性はドレスの裾を持ち上げて丁寧にお辞儀をし、男性はさりげなく彼女の手を掬って口付ける。歩みを止めずにそれらのひとりひとりに眩いほどの笑顔で応えていくローゼマリアの後ろをクルトは少し気後れしながら付いていった。彼女は客人の間を抜けてまっすぐにあの台へと上がった。クルトも遅れてそこに上がり、遠慮がちに彼女の横に並んで立った。ローゼマリアが燭台の灯を消して足もとに置いたが、その何倍も明るい提灯や松明の明かりがはっきりとふたりの姿を映し出した。


 大公の宮殿の大広間のように絢爛豪華な場所に居るわけでも、国の名だたる貴族たちの前に居るわけではないのに、クルトは大公の宮殿以上に緊張していた。ローゼマリアの知り合いというのが位の高そうな人ばかりで、しかもこんなに大勢居るとはまったく想像していなかったのだ。

 クルトの驚きを悟ってか、ローゼマリアのほうからクルトの腰に手を回して、安心させるように彼の身体をぐっと引き寄せた。バイオリンを持つクルトの代わりにローゼマリアは大きく手を振って客人たちの歓声に答えていた。

 しばらく自分たちに向けられている拍手と歓声に酔ってから、クルトはバイオリンを構え、ローゼマリアは肘を張って腹の上で手を重ねた。

 クルトのバイオリンが静かな音を奏で始めると、ローゼマリアは一小節置いてそのメロディをそっとなぞるように歌い始めた。普段は高い彼女の話し声とは違う物憂げな低音が夜の森に響いていった。観客は静まり返って二人の奏でる音に耳を澄ましていた。

 曲が中盤に差し掛かり、速いテンポのピチカートを奏でるクルトに合わせてローゼマリアは小鳥の囀りを思わせる高く弾む声で歌い始める。後半の緩やかな曲調になれば、途端に清らかな川の流れの如きゆったりとした調子に変わる。

 隣で伴奏をしながらクルトは、ローゼマリアの声はこれまで聴いたどの歌手よりも情感に溢れる魅力的なものであることを実感していた。ふたりだけのときとは違う。大勢の前で歌ってこそなお、その声は活き活きと輝くのだ。彼女は間違いなくこの国いちばんの歌い手だろう。彼女を縛る夫の存在さえ無ければ街へ出て歌手として大成功するに違いない。

 そして自分のバイオリンがその偉大な歌い手の声を蘇らせたことに幸せを感じた。


 森の空気にすーっと溶けるように音楽は終わった。クルトは肩に乗せたバイオリンから静かに弓をすべり下ろして目を閉じていた。ローザマリアは背筋を伸ばしたまま少し俯き加減でやはり目を閉じていた。銅像のようなふたつの影を観客は静まり返って見つめていたが、しばらくして一斉に我に返ったという風に大喝采が起こった。割れるような拍手と歓声が二人を、そして黒い森を包んでいった。

 一緒に目を開いたふたりはお互いを見つめて笑顔になった。クルトはバイオリンを手にしたまま腕を開いてローゼマリアを包んだ。

 

 彼女の古い馴染みたちは興奮していた。リサイタルのあとのパーティーで歌手ローゼマリアの復活を喜び、誰もが彼女にもう一度公の場で歌うようにと薦めていた。彼女の人気にあやかるようにクルトもあちらこちらから声が掛かった。多くの客人たちに応対しながらクルトはふと疑問を持った。その夜、館に集った者たちはほとんどが高齢なのだ。爵位を持つ者やたくさんの勲章を提げている軍の中でも要職にある者ならばそれなりの年齢を経ているのは仕方ないことだが、ローゼマリアはこの場に友人や家族を呼ばなかったのだろうか。あるいは今後社交界へ復活する足がかりとしてこの会を催したのではないだろうか。クルトはそんなことを憶測した。

 クルトの周りにいた客が引き独りになったところへ、背後の植え込みの向こうからローゼマリアと客人たちの会話が聞こえてきた。彼女の何倍も年を経ているような女性たちを相手に、まるで友人のように親しげに会話している。その『友人』たちは彼女の今後を心配してあれこれと助言しているようだ。


「何時までここで待ち続けるの? もう彼は帰ってこないわよ」


「そうよ。もう諦めなさい。私たちが何とかしてあげるから」


「辛いでしょうけど認めたほうがいいわ」


 それが出征したローゼマリアの夫のことを言っているのだということが分かり、クルトはローゼマリアがどう答えるかが知りたくてさらに耳をそばだてた。しかし彼女の返事は意外なものだった。


「ええ、知っているわ。もうとっくに分かっていたの。けれど私はここを離れるわけにはいかないの」


 クルトは衝撃を覚えた。彼女は夫を待っているわけではない。それなら彼女が森に留まり続ける理由は何なのか。クルトの村に来ることを勧めたとき、嘘を吐いてまで断った理由は何なのか。


「それでは貴女、この森から永遠に出られなくなるわ」


 心配そうに言う老婦人に向かってローゼマリアは朗らかに答えた。


「それと引き換えにしても、今はあの人と一緒にいたいから」





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