Glück ― 幸運 ―
「ダメだよ! 行かないでよ!」
スザネが半狂乱でクルトのバイオリンケースを掴んだ。
「いい加減にしてくれ! 今日は大切な仕事なんだ! この機会を逃したら母さんに薬を買ってやることもできなくなる。それに今日行かなければぼくの信用は地に堕ちるんだ。社交界から追い出されてそのうち食う物さえ儘ならなくなるんだぞ! ぼくが仕事を失えば母さんもお前も生活が出来なくなるんだ!」
「それならせめて森の道を往くのは止めておくれよ! 街道を回って馬車に乗っておくれよ!」
「そんな遠回りをしていたら遅れてしまう! お前の取り越し苦労でぼくの仕事を邪魔しないでくれ!」
クルトがスザネの手からケースをひったくると、その反動でバランスを崩したスザネは地面に思い切り転がった。さすがに非力な妹に乱暴を働いたことを悔いてクルトはスザネに駆け寄って彼女を抱き起こした。
「すまない。お前が大事なケースを離さないからつい。でもどうか分かってくれ。今日でぼくの今後が決まるかもしれないんだ。お前が心配してくれるのは有難いが、どこにいるのかも分からない化け物に怯えて、まともな生活ができないなんておかしなことじゃないか」
スザネは助け起こしたクルトの手を払いのけて立ち上がった。
「もう知らない! 今後のためなんて言っていても命を落としたら何にもならないじゃないか!」
スザネはクルトに捨て台詞を吐いて家へと走りこみ、バタンと大きな音を立ててドアを閉めてしまった。
昨日、森でまた犠牲者が出た。今回はクルトの村ではなく、森の中にある他の村での出来事だ。樵のヘルマンが襲われたとき、ヴァルターをはじめとする村の者たちは手分けして森の中に点在する村や隣接する町に事件のことを報せに行った。人間を襲う凶暴な獣がいるのだということを報せて注意を呼び掛けたのだ。あれから少し事態が落ち着き人々の警戒心が弛んできた頃に二人目の犠牲者が出てしまった。クルトの村から歩いて半日ほどのところにあるシュテーレ村だ。犠牲者は、クルトのように村から森を抜けて大きな街へと商売に通う者だった。樵や猟師や行商人、日常生活で森を行き来しなくてはならない者はたくさん居る。銃を携帯していたり、獣を追い払う鈴を身に付けていたり、いざというときには上手に逃げる手段を熟知している。自分の身を自分で守る対処法はそれぞれ身に付けているはずだ。これまでも獣に襲われたものが居なかったわけではない。しかし森の危険を知り尽くした者たちが次々と襲われ、さらに加害者がその遺骸をわざわざ人の住む場所まで運んでくるという異様さが、周辺の住人たちを怯えさせた。
スザネがクルトを引き止めたいと思うのは当然の心情だ。しかしクルトは尚更森に行かなくてはならなくなった。その日はいよいよあの老夫人のサロンにデビューする日であったし、物騒な事件が立て続けに起これば、ローゼマリアのことをますます心配せずにはいられなかったからだ。
スザネの制止を振り切って、クルトは街に向かうために黒い森へと入っていった。妹に啖呵を切ったもののいざ森の中に入ってみると、以前見たあの恐ろしい光景が急に脳裏に蘇ってきた。忘れていたはずなのに何故今になって思い出されるのか。おそらく似たような殺人が再び起きたことがクルトには衝撃だったからなのだ。スザネの手前強がるしか無かった。それに老夫人との契約を放棄するわけにはいかない。何よりローゼマリアを守ってやらねば……。恐ろしくてもクルトはそこから逃げ出すわけにはいかなかった。
けたたましい鳥の鳴き声に心臓が止まるのではないかと思った。背中はぞくぞくと寒いが額からは汗が滴り落ちる。早く森を抜けなければ自分はどうにかなってしまうのではないかとクルトは思っていた。
その恐怖をさらに煽り立てるように森の中で蠢く何かの気配を感じたのは、もうそろそろ長い森の道を抜けようかと思われる頃だった。木々の向こうが僅かに明るくなっていて、その先の丘の向こうに目指す街が見えてくるはずだ。ホッと気が緩んだクルトの後ろからがさがさと草むらをかき分ける音が聞こえてきた。クルトはゾッとして逆に歩む速度を弛める。ここで駆け出して背後のモノを刺激したくなかったからだ。草の擦れ合う音はクルトの真後ろを付いてきているようだ。いくら気配を殺しても、付いてくるモノとの距離は確実に縮まっているようだ。しばらくそろそろと歩いていたクルトはその草の音が間近に迫ったとき、堪らなくなって思い切り駆け出した。背後のモノはそれに刺激されたのか、やはり勢いを増してクルトに迫ってきた。全力で息も絶え絶えに駆けるクルトの、今度は真横にそのモノの気配がした。もうクルトは無我夢中でともかく光の向こうを目指して全力疾走した。森の中は足場が悪く、ゆかるみに足を取られ倒木や小枝に躓きそうになるが、必死のクルトはそれらを無意識のうちに器用にかわしていった。
街だ! とうとう森の出口が間近に迫り、クルトが助かったと胸を撫で下ろした途端、並走していた影がクルトの目の前を跳んで横切った。クルトは腰を抜かしてその場にへたりこんだ。尻餅をついた状態で走り去るモノの後姿を見たクルトは、素っ頓狂な声を上げた。
「……た、たぬき?」
確かに縞模様の丸みのある尾が森の奥へ走り去るのをクルトは見た。拍子抜けしたせいで、彼はしばらくそのままの格好で動けなかった。
街の中心にある教会の前で老夫人の遣いが待っていた。老夫人がどのような身分の人なのか、そのときクルトには知らされていなかった。前回の男爵夫人のサロンで、老夫人の使者だと名乗る者に、ここで遣いの者を待っているようにと言われただけだった。雇い主は、客人には秘密でクルトに演奏させ驚かせたいと考えているそうなのだ。それほどあの老夫人は彼の腕を信用しているということなのだろう。期待を裏切らない演奏ができるかどうか、クルトは逆に不安を覚えていた。
遣いの者の後を付いていくうちにクルトは信じられない気持ちになった。そこは街の繁華街を外れ貴族たちの広い領地の間を縫って小高い丘を上っていった先にある、黒い森とその周辺一帯の多くの町や村を統治している『大公』の城だったのだ。老夫人は『大公妃』だったのだ。庶民が大公妃の顔や姿を知る機会などほとんどない。男爵家に出入りしていたとはいえ、大公家と男爵家とはまるで格式が違うのだから、あの場にいたのが大公妃であるなどと誰が気づくだろうか。
大きな城のやたらと広い廊下をくねくねと連れ回され、辿り着いた先にはクルトの想像などとても及ばない広く美しい大広間があった。男爵家のサロンとは比べ物にならないほど大勢の貴族、貴婦人たちがそこに集い、談笑する声が賑やかに響いている。クルトは先ほど尻餅を付いた場所が汚れてはいないか急に気になり、広間に入る前に尻が痛くなるくらい念入りにはたいた。
遣いの者はクルトを上座の前まで案内すると、そこに座る老夫人 ―― 大公妃に深々と頭を垂れ、腰を低くしたまま退いた。ひとり取り残されたクルトはどうしてよいのか分からず、失礼だとは知りながら大公妃の顔を真っ直ぐに見つめていた。
大公妃は上品な笑顔でクルトを見つめ、安心させるようにゆっくり頷いた。そして立ち上がって壇を下り、クルトの肩を押して客人たちのほうを向かせると、彼らに向かって呼び掛けた。
「お集まりの皆様、ここに素晴らしいバイオリニストを紹介いたしますわ。この若者はまだこのような場で演奏したことのない無名の演奏家ですが、わたくしはこの方の奏でる音色を聴いてとても心を打たれましたの。それを皆様にもお聴かせしたくて、是非にとこの場に招いたのです。ただ経験の浅いことですし、突然のことでひどく緊張しているでしょうから、少々の失敗には片目を閉じて温かく見守っていただけたらうれしいですわ。わたくし、このような才能のある若い方が素晴らしい演奏家として育っていただけたらと願っておりますの」
紹介が済むと大公妃はクルトから離れ、彼のほうを向いて拍手を送った。大公妃の拍手に続いて大勢の招待客が一斉に拍手をすると、大広場が割れんばかりの喝采となった。
クルトは途方に暮れて立ち尽くし、しばらくその光景を見つめていた。彼の思い描いていた夢はこんな規模の大きいものではなかった。予想もしなかった事態と、身に余るほどの大公妃の期待に応えられるかどうかという不安で、とても冷静に演奏などできそうにない。拍手が止み、彼の演奏を今か今かと期待を込めて見つめるたくさんの瞳に晒されて、彼はもう逃げるわけにはいかないと覚悟した。手にしていたケースからバイオリンを取り出す動作も、観客たちはいちいち目で追っている。その間にクルトはローゼマリアのことを考えた。彼女が純粋にクルトのバイオリンを聴いて楽しんでいる姿や、それに合わせて嬉しそうに歌う姿を思い浮かべ、自分の演奏によって誰かが喜んでくれることが幸せなのだと自らに言い聞かせた。
バイオリンを構え念入りに音を調節すると、一気に弓を下ろす。サロンでは極力気を遣って控えていた本来の音が活き活きとはじけて流れ出した。クルトは自分の音を曝け出すことに快感を覚えていった。目を閉じてバイオリンを奏でるうちに、そこが大公の宮殿の大広間であることなどすっかり忘れ、目の前でローゼマリアが楽しそうにリズムを取っている姿を思い描いていた。緩やかな曲調になると、彼女もうっとりと目を閉じて首を揺らしている。そしてクルトの演奏をなぞるように澄んだ声で微かにハミングをしている姿を。
やがて一緒に歌い始めたローゼマリアは、両手を大きく開いて最後の山場を高らかに歌い上げた。クルトも最後の一音を弾き終えて弓を押し当てたままの姿勢でじっとしていた。
大広間に大歓声が響き渡った。その大音響でローゼマリアの幻想はかき消された。目を開けると大勢の観客がみなクルトを見つめて盛んに拍手をし、何かを叫んでいる。クルトは彼らに向かって膝を折り、弓を持つ手を折り曲げて深々と頭を下げた。
大公妃が拍手をしながら近づいてきて、クルトに囁きかけた。
「わたくしの耳に狂いがないことが分かってほっとしたわ。矢張り貴方は素晴らしい才能をお持ちなのね。これからもこの城で演奏をしてわたくしを楽しませていただきたいわ」
それはクルトの運命が大きく動き出した瞬間だった。
夢のような出来事をローゼマリアに報告しようと、クルトは意気揚々と森の道を帰っていった。今朝は狸の気配にすら怯えていたというのに現金なものだと自分でも思っていた。幸運の絶頂にいるいまは、もしもここで獣に襲われて命を落としたとしても、何も思い残すことは無いだろうとまで考えていた。
その道すがらまた何かが横を通り過ぎていったことを、クルトはまったく気づかずにいた。
その日は庭にローゼマリアの姿は無かった。仕方なくクルトはひとりで苦手なホールへと足を踏み入れる。この屋敷の召し使いたちは闖入者に気づかないのだろうか。か弱い女主人を守ろうという意識がないのだろうか。そのお蔭で自分も出入り出来るというのに、クルトは心配になって怠惰な召し使いたちを心の中で呪った。しかし召し使いよりも護衛よりも強力な番人がホールにはたくさん居たのだ。ローゼマリアが一緒でないと、首だけの動物たちは尚一層厳しい眼でクルトを睨みつけてくる。今にも口を開けて牙を剥くのでは無いかと思えてクルトは急いで居間へと飛び込んだ。
いきなり飛び込んできたクルトに驚いて振り返ったものの、ローゼマリアはいつもと変わらぬ穏やかな笑顔を向けて言った。
「よく、いらしてくださったわね」
クルトは挨拶の口付けをする代わりにローゼマリアの差し出した手を握り締めた。
「ローザ、ぼくはついに幸運を手にしたよ! 今日、大公殿下のお城で独奏を披露したんだ。演奏は大成功だった。妃殿下がこれからもぼくをお城に招いてくださるとおっしゃったんだ」
ローゼマリアはクルトの手を握り返して満面の笑顔になった。
「素晴らしいわ! ようやく貴方の才能が認められたのね!」
「ローザのお蔭さ。ぼくは演奏の間ずっと君の笑顔や歌う姿を思い描いていた。そうしたら気持ちが楽になっていつもどおりに弾くことができたんだ」
「嬉しいわ。でもそれは貴方の才能でしょう。私とは関係ないわ」
ローゼマリアは少しはにかんで俯き、上目づかいにクルトを見た。ローゼマリアに本当のことを告げ、結婚を申し込むのはいまだとクルトは決意し、口を開こうとした。しかしローゼマリアの手はクルトの心を悟ってはぐらかすようにするりと抜け、そのままテーブルの上の何かを手にしてクルトのところへ持って来た。
蝋で端を留めた手紙だ。見るとテーブルの上に同じ手紙がいくつも積み重ねてある。
「私ね、貴方に扇子をもらって考えついたことがあるの。街の音楽堂で歌えなくても、この屋敷にお客様を招いて歌うのはどうかしらと思って。私ひとりで伴奏もなく歌うのは少し難しいわ。でも貴方のバイオリンがあれば出来そうな気がするの。実はね、貴方に許可を得る前に古い知り合いにもう幾つか招待状を出してしまったのよ。貴方なら協力してくれると思って」
蝋を剝がずと、繊細な文字でパーティーの案内が綴られていた。日時は翌週の金曜日、夕刻からのものとなっていた。
「ローザ、日にちは予定を合わせることができるが、夜の時間は難しいよ。ぼくは遅くならないうちに家に帰ると家族に約束しているんだ」
途端にローゼマリアは表情を曇らせた。
「ごめんなさい。勝手に。夜なら貴方も空いていると思って……」
しかしすぐに気を取り直したように笑顔になった。
「でも無理ならいいわ。これまで貴方と練習してきて、だいぶ自信が付いてきたところだから」
大公の宮殿では幻のローゼマリアと心の中で協演した。本当に彼女と協演できればどんなに素晴らしいだろうか。それは宮殿で独奏を披露するよりもずっと魅力的に思える。クルトはローゼマリアの申し出を断るのが惜しくなった。
一晩くらい留守にしても母親の具合が急に変わることも無いだろう。スザネには黙っておいたほうがいい。翌日帰ったときに彼女はひどく責め立てるだろうが、受け流してほとぼりが冷めるのを待てばいいのだ。
いろいろと考えを巡らせてから、クルトはローゼマリアに答えた。
「いいよ、ローザ。ぜひ君の歌と協演させてほしい」