Hymne ― 賛歌 ―
貴婦人たちのさざめきは、まるでシャンデリアの小さな宝石がぶつかり合う音のようだ。優雅で洗練された会話はひとつの音楽を奏でているようで、耳に心地よい。同じ『おしゃべり』でも田舎村の女たちの遠慮ない大声とは雲泥の差だ。
嫌味のない程度に黄金と宝石が散りばめられた室内装飾、滑らかな流線型の彫りが形作る調度品。鮮やかな色と細かな図柄の刺繍が施されたクッションやカーテン。壁にも天井にも柔らかな色彩で空や星やそこに舞う天使たちが描かれている。
報酬を得る以上に、この空間に居合わせることができるのが幸せなのだとクルトは思う。深い森の中の小さな村に職人の子として生まれたクルトには本来、このような世界を見る機会など無かったはずだ。
クルトは幼い頃から少しばかり音楽の才能に秀でていた。幸運にも楽器職人の父がそれを見出して首都の音楽学校へ入れてくれたのだ。学校を卒業するさい、彼の腕を買ってくれた楽団の団長に付いて、こうして貴族のサロンに出向いて演奏する仕事を得た。少々得意な音楽を生業とすることが出来たのも有難いことだが、田舎者の自分など到底知ることのなかった貴族の世界を垣間見ることが出来るというのがクルトには幸運だ。その場に居るだけで自分が洗練されていくような気がし、やがては貴族のパトロンを得て貴公子のような生活を送るのだなどという幻想まで抱くようになった。
男爵家の居間は甘やかな香水の香りと香ばしいお茶の香りに満たされている。気だるい時の流れに少し華を添えるのが楽団の役目だ。しかしサロンでのメインは貴婦人たちの『おしゃべり』だ。楽器はあくまで伴奏であって決して主旋律を邪魔してはいけない。聞こえるか聞こえないかの大きさで彼女達が紡ぐメロディを引き立てなくてはならないのだ。
クルトは自身の奏でるバイオリンの音にはとくに気をつけるように心がけていた。弦に押し当てる弓の強さを少しでも間違えば美しいメロディをすべて飲み込んでしまうような暴力的な音に変わるからだ。
つねに注意深くなくてはならない。そう思って始終弓を持つ右手を強張らせていると、まだ経験の浅い若者はかえって力加減を誤ってしまう。和やかな空間に突然甲高いバイオリンの音だけがやけに大きく響き渡り、扇で口元を覆った貴婦人たちはいっせいにクルトに鋭い視線を向けた。しかしここで音楽を止めてしまうことはできない。クルトは何事も無かった風を装ってそのまま演奏を続けた。
サロンがお開きとなり、控え室へと向かうクルトをひとりの貴婦人が呼び止めた。
「貴方の演奏はなかなか赴きがあるわ。よろしければ今度、わたくしの屋敷にいらしてくださらないかしら。ぜひとも独奏をお聞かせ願いたいわ」
少し白髪の混じった髪を美しく結い上げて目尻の皺をさらに深くして微笑むその貴婦人は、年相応の美しさを備えているどころかホストである男爵家の夫人よりもずっと気品がある。おそらく位の高い貴族の奥方なのだろう。クルトは黙って貴婦人の前に跪くと、彼女が差し出した手を取ってその甲に口付けた。
その日の報酬の金貨を受け取り、クルトは家路に就く。何時ものようにまっすぐに帰らずに街の市場で母親の薬とスザネへの土産を買う。さらにその日は仕立て屋を訪ねて新しい服を注文した。これまでは楽団のお仕着せで十分だったが、独奏者となればそうもいかない。クルトは早くもあの老婦人のサロンで演奏する自分の姿を思い描いていた。
日当がほとんど消え、残りは付けにするほど上等な服を注文した。しかし彼がチャンスを掴むために必要な出費だ。残った金貨をはたいて美しいレースが施された扇子を買う。いやはじめからこの扇子を買うだけの金貨は残していたのだ。それはクルトにとって最も重要な買い物だからだ。
まだ陽の高いうちに街を出られたことを神に感謝した。先日の事件の記憶はまだ生々しい。不幸な出来事だったと割り切るにはかなりの時間を要するだろう。それほどに衝撃的だった。スザネはあれから極端に口数が少なくなったが、クルトが出かけるときは気が狂ったように騒いで引き止めるのだ。日常の歯車を狂わされたことに恐怖と同じくらいの怒りも覚える。そう簡単に遭遇するものではないとは分かっていても、やはり夜の森を歩くのは避けたかったのだ。
片手に木のケースに収めたバイオリンを抱え、片手に土産物を入れた袋を提げて森の道を往く。果てしない樹齢を重ねた針葉樹が空高く伸び、四方に大きく枝を伸ばす。それが幾重にも折り重なり広大な森の屋根を築いている。昼なお暗い森の道はある場所で突然眩い光に晒される。森の一角を切り拓いて敷地を作り立派な屋敷を建てた殊勝な人物がいるのだ。そしてその人物の留守を守る健気な女性を訪ねることが、森の道を通い続けるクルトのいちばんの目的だった。
ローゼマリアは庭にいた。美しく咲き誇る色とりどりの薔薇の花に囲まれて透けるような金色の髪がそよ風に靡いているのが見えた。
「ローザ!」
クルトが呼び掛けると金の髪が薔薇の群れの中からすっと浮き上がり、こちらを振り返った。深い碧色をした二つの眼がこちらを見とめ、やがて喜びを示すように細くなる。切り取ったばかりの薔薇の束を抱えて、ローゼマリアはクルトのほうに早足に歩み寄った。
「よく、いらしてくださったわ」
もう何度となく訪れているというのに、大切な客人を迎えるように律儀な挨拶を欠かさない。クルトのほうも荷物を地面に下ろすとローゼマリアの前に跪き、彼女の差し出した手の甲に口付けて挨拶をした。荷を持ってふたたび立ち上がったクルトの背中を支えて、ローゼマリアはクルトを屋敷の中へと導いた。
屋敷の中は、華やかな薔薇の庭と清楚な美しさを持つ女主人には似つかわしくなく、暗く陰鬱だ。重たいオークの扉を押して中へ入るとすぐに広いホールとなっていて、正面には左右から上って中段の踊り場でひとつになり二階へと続いていく大きな階段がある。高い天井のホールには貴族たちの屋敷がそうであるように肖像画が幾つか飾ってあるが、異様なのは肖像画よりも多くの動物の剥製が飾られていることだ。鹿や狸、狼や熊、猪や雉まで。頭部だけの剥製が壁一面に飾られているのだ。動物たちはまるで壁の穴からぬっと顔を出し、まだ生きているように輝くふたつの水晶体でこちらを睨みつけているようだ。
この館の主人、ローゼマリアの夫の趣味だというのだが、悪趣味も甚だしいとクルトはここを訪れるたびに思うのだ。
不気味なホールを我慢して通り抜け、こぢんまりとした居間に入るとようやく人心地つく。居間の装飾や調度品は彼女が見立てたのであろう。白を基調とした壁や家具には小さくかわいらしい花柄が描かれて華やいだ雰囲気だ。華美にならない程度の金の時計やブロンズの天使像などの装飾品が計算されたようにぽつんぽつんと置かれ、優雅な雰囲気を醸している。窓には木々の影が揺れ部屋の中に入る光を和らげている。
ローゼマリアが持っていた薔薇の束をテーブルの花瓶に活けると、さらに部屋の中に明るさが増した。ホールが悪趣味でなければ、この屋敷は貴族たちの屋敷に劣らないほど立派で優雅なものだ。
とんとんとドアをノックする音がした。ローゼマリアはドアの向こうに誰が居るのか分かっている。「ありがとう。そこに置いておいてちょうだい」とドアを開けずに告げると、ドアの向こうの人物の足音が遠ざかっていくのが微かに聞こえた。
クルトが荷物を下ろしいつもの椅子に落ち着いたのを見計らって、ローゼマリアはドアの向こうに置かれていたカートを運び入れた。薔薇の花が手描きされた陶磁のポットと、揃いの柄のふたつのカップとソーサー。そして三段に重ねられた菓子器にはクッキーやカットされたフルーツが載っていた。慣れた手つきでローゼマリアがポットのお茶をカップに注いでクルトに手渡す。朝早くから森の道を通い、仕事で緊張し、買い物に奔走し、ふたたび警戒しながら森の道を戻ってきたクルトの気持ちがほっと和んだ。家に帰れば母親の容態も気に掛かるし、スザネが長々と一日の報告をするのを聞いていなくてはならない。クルトにとってローゼマリアと一緒に居る時間だけが唯一の息抜きだった。
お茶を飲んで菓子をつまみながら、最近の街の様子などを話題に談笑する。美しいローゼマリアの笑顔を間近に見ているだけでクルトは幸せだった。
しばらくおしゃべりに興じたあとお茶を片付けると、ローゼマリアが楽譜を手にしてクルトの横に座った。その楽譜はクルトが贈ったものだ。森の中に篭っていて流行に触れる機会のない彼女のために、いま社交界で流行っている曲の楽譜を写してあげたのだ。
「この旋律を弾いてくださる? どうしても分からないわ」
クルトは木のケースからバイオリンを取り出して立ち上がった。簡単に弦の調子を合わせるとローゼマリアの掲げる楽譜を見ながら彼女の指した部分を演奏する。クルトの演奏を聴いてローゼマリアは嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ああ、ようやくすっきりとしたわ。やはり楽器がないと音程がはっきりしなくて」
そう言うと彼女も立ち上がって背筋を伸ばし、両掌を軽く腹の上で重ね合わせて深呼吸した。彼女の口から清らかな音が流れ出す。その容姿に似つかわしい透明感のある優しいメロディ。クルトも彼女の声を追いかけてバイオリンを合わせる。美しい音の協演が屋敷中に、いや開け放した窓を抜けて森の向こうにまで響いていく。分からないと言っていた部分が過ぎると彼女の声はますます自信に満ちて力強くなった。やがて腹に置いていた掌を順々に横に差し出して腕を広げると、山場である高音部をフォルテで高らかと歌い上げた。
ふたりの音楽が止むと途端に静寂が訪れた。クルトはまだ弦に弓を置いたまま、ローゼマリアは大きく手を広げて少し上を向き目を閉じていた。どこからか大喝采が聞こえてくるようだ。しばらくして目を開けたローゼマリアはこのうえなく楽しそうな目をしてクルトを見た。そして楽器を下ろした彼の首に抱きついた。
「素晴らしいわ! 昔が戻ってきたみたいよ。ああ、街へ行って音楽堂で歌ってみたいものだわ!」
クルトが間近に擦り寄るローゼマリアの頬に唇を寄せようとすると、彼女はまったくそれに気づかずに彼から身体を離してダンスするようにくるくると回って見せた。クルトは短く溜め息をつき、バイオリンをテーブルに置いた。
「ローザ。君の夢が本物となるように、こんな小道具を持ってきたよ」
クルトは傍らの袋から街で買った扇子を取り出した。ローゼマリアはそれを見てこれまではしゃいでいた顔を真顔に戻してクルトからそれを受け取った。
「なんて素敵なの。これを持ってマドンナを演じている姿を毎晩夢に見ることができるわ」
「ありがとう」と震える小さな声で呟くと、少し涙目になってローゼマリアはクルトを見上げた。
ローゼマリアは以前、クルトと同じように貴族の屋敷で歌を歌っていたという。彼女の澄んだ歌声はおそらくすぐに話題になったのだろう。それからほどなく名のある音楽堂から声が掛かり、そこで演じられる歌劇で主役の座を務めるほどになったらしい。
しかし結婚して歌手を辞めこの森にやってきた後、夫は戦争に行くことになってしまったのだそうだ。それから彼女は何年も留守を守り夫の帰還を待っているのだ。
クルトはその話に疑問を抱いた。クルトの住む森の一帯は、五十年以上前には大きな帝国が支配していた。森の反対側は隣国に接しており、その頃は国境を巡って争いが絶えなかった。森の周辺に暮らす者たちは常に戦に怯えて暮らしていた。若者は次々と兵士に招集されていったと、クルトは村の年寄りから聞いたことがある。
しかし度重なる戦で疲弊した帝国は崩壊し、その領土は王家の次に有力であった貴族たちによって分割統治された。その後は大国同士の争いは無くなり平和が訪れた。そして今に至るのだ。
帝国時代に彼女の夫が出征したとは考えられない。彼女はどう見ても二十代。若く見えるとしても三十前半だろう。夫が五十年以上も前の戦争に行ったはずはない。考えられるのは遠い国で行われていた戦争だ。遥か南の国が長年異教徒と領土権を巡って争っていた。同じ教義を信じる同胞としてこの国からも援軍が派遣されたのだ。しかし。
貴族のサロンに出入りしていれば庶民が聞き及ばない社会情勢も耳に入ってくる。異国の戦争はもう一年も前に終結しているはずだ。凱旋といっても、他国の戦争であり援軍に派遣された兵士の数も多くなかったため、それほどの騒ぎにはならなかった。首都にいなければ軍が帰ってきたことすら知らない者がほとんどだ。この一年の間に無事だった兵士はすべて帰還しているはずである。つまり彼女の夫は戦死した可能性が高いのだ。
クルトには彼女にそれを告げる勇気は無かったし、あくまでも可能性の話で彼女の希望を打ち砕いてしまうことはできなかった。それなら自然と彼女の心を夫から自分のほうになびかせ、いずれ自分が彼女を養えるだけの経済力を身に付けて結婚を申し込むのがいちばん良い方法だろう。だからこそ、社交界で名を馳せることがクルトには必要だったのだ。
しかし、あの夜の事件で悠長なことは言っていられなくなった。ひとりで暮らしている若い女性など凶暴なけだものの格好の餌食だ。彼女をこの森から救い出さねばばらないとクルトは焦っていた。
「ローザ。しばらくぼくの家に住まないか? 森にはどんな危険が潜んでいるか分からない。ご主人には手紙を残しておけばいいじゃないか」
「申し出はうれしいけれど、クルト。私はこうして何年も暮らしてきたのだから大丈夫よ。貴方の足手まといになるのは申し訳ないわ。それに、数はそういないけれど召し使いも抱えていることだし……」
そうなのだ。クルトは一度もその姿を見たことはないが、この屋敷には幾人かの召し使いがいるらしい。先ほど温かいお茶を運んできたのは彼女以外の誰かなのだから彼女の言うことは本当なのだ。
「私、そろそろ主人は帰ってくる頃ではないかと思うの。彼は必ず帰ってくると約束してくれたんですもの」
何時もは微笑ましく思える無邪気なローゼマリアの言動は、そのときのクルトには腹立たしいばかりだった。もう夫は帰ってこないうえに、彼女の身に危険が迫っているかもしれないというのに。けれどそれをローゼマリアに告げるのは躊躇われる。何よりも彼女を引き受けられるだけの力をいまクルトが持ち合わせていないことが問題なのだ。
あの老婦人のサロンの専属奏者となれれば……。老婦人の誘いがもう少し早ければよかったのにとクルトは悔やんだが、それは仕方ないことなのだ。演奏家として確かな地位を得るまでに彼女が無事でいてくれることを願うことしか、そのときのクルトには出来なかった。