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Albtraum ― 悪夢 ― 


 ドンドンドン ドンドンドン ドンドンドン


 厚く硬い木のドアを盛んに叩くものがいる。広い屋敷の中に響き渡るその音は彼の喜びに満ちた生活の終焉を意味していた。それは彼の人生の終わりにも等しい。抵抗がむなしいとは知っていても彼は両耳を手で塞いで部屋の隅で息を潜めていた。


 ダーン ダーン ダーン


 今度は人の叩く音ではない、無理やりドアを破ろうと太い丸太を打ち付ける激しい音に変わった。ミシミシという(かんぬき)の悲鳴が彼にはこれ以上逃げ延びる術がないことを報せている。やがて激しい破壊音とともに閂が破られ、中へと駆け込んでくる幾人もの足音が響いた。


「ハインリヒ! ハインリヒ・グスタフ・ゲルハルト! もう逃れられぬぞ。陛下の勅命に従わぬ不届き者! これ以上手間を掛けさせたなら、この屋敷ごとお前を燃やして処罰する!」


 屋敷を燃やされてはならない。決してこの屋敷だけは。とうとう決断のときが来た。彼は、あらゆる高価な財宝よりも、いやその命よりも大切な彼の最高傑作に触れた。潤む目でそれを見つめ心の中で短く別れの言葉を告げると、そこから視線を逸らさずに後ずさりする。出口のドアを後ろ手で掴んできつく目を閉じると、勢いよくドアを開けて部屋を飛び出した。


―― わが想いは必ずここに帰ってくる ――






*********************************************************






「随分と遅くなってしまったな」


 クルトは木のケースを抱き締めて鬱蒼とした森の小道を小走りで進んでいた。通いなれた道ではあるが、やはり夕暮れが迫ったときの不気味さには慣れることはできない。今日は殊更に遅くなってしまった。村に着くまでには日が暮れているだろう。しかしここで松明を焚く時間を費やすならば一刻でも早く先に進みたかった。

 森は危険だから少しばかり時間と費用が掛かっても街道に出て乗合馬車を利用するべきだと、何時もスザネが言う。スザネの言葉は正しいかもしれないとそのときばかりは思った。しかし、僅かに得られる報酬で病弱な母親に少しでも良い薬を買ってやりたい。自らの足で歩けば済むものを、それを怠けて貴重な収入を費やしたくはない。それにもうひとつ、彼には森の道を通わねばならない別の理由があった。思いなおしてクルトはさらに歩調を速めた。

 おそらく森の中でなければまだ日の光は十分にある時間だろう。しかしここは、数え切れないほどの針葉樹がその枝を幾重にも重ねて、昼の光さえもほとんど遮ってしまう『黒い森』だ。僅かな夕暮れの光など地面にまで届きようもない。もうすでに視界がぼやけてしまうほど薄暗く、数十歩先に何があるかさえもはっきりしなかった。

 森は広大だが、クルトが歩くのは通いなれた順路だ。寄り道など考えなければこの薄闇であっても自然と村に辿り着く。それに森に入ってから半分以上の距離を進んできたのだから、もう大丈夫だ。ともかく夜になるまでに森を抜ければいいのだ。


 そのときクルトの耳が森では聞き慣れない音を聞き分けた。小鳥の囀りや、啄木鳥が幹に嘴を打ち付ける音ではない。虫の声や風で擦れ合う葉の音でもない。くちゃくちゃと脂の乗った柔らかい肉を噛むような、ずるずると粘り気のあるものを啜るような音。微かではあるが、明らかに異様な物音はクルトの居る場所から少し離れた場所から聞こえている。

 クルトは思わず足を止めた。太い木の幹が視界を遮って、さらに暗さも手伝って、その音の元に何があるのかは見えない。しかし暫く凝視していると木々の向こう側で小さな黒い影が揺れたのが分かった。

 狼や熊などの類が餌を喰らっているのだろう。ましてやこの薄闇の中で道を外れれば広大な森の中で一晩中彷徨うことになるかもしれない。決して近づいてはいけないと頭のどこかでは分かっているにもかかわらず、クルトの身体はそれに反して音の方へと歩みだしていた。近づくと音はさらにはっきりとした。明らかに肉食獣が捕食している音だ。肉を喰いちぎる吐き気を催すような不気味な音に、さらに骨を噛み砕くようなぼりぼりという音まで聞こえている。早く引き返すのだとクルトは自分の身体に警告するが、足は歩みを止めようとしない。

 近づくに連れて、これまでぼんやりとした黒い影だったものの姿がはっきりと見えるようになってきた。

 狼だ。『獲物』の脇にしゃがみこみ、餌の体に夢中で頭を突っ込んでいる。美味そうに肉を漁り、血を啜る。ときに骨までも噛み砕く。これが最後の警告だ! 狼が食事に夢中になっている間に早く引き返すのだ。まだ先に進もうとする身体に理性が歯止めを掛けた。そして踵を返そうとしてクルトはハッとした。

 それは狼以外の何物にも見えないのだが、しかし何かがおかしかった。豊かな毛で覆われているはずの背中はところどころ背骨が剥き出しになっている。毛で覆われた部分もまるでベルベットの生地のようにつるつるとしている。盛んに動いてはいるが、生気が感じられないのだ。そして狼の下敷きとなっているその獲物を見て、クルトは悲鳴を上げそうになった。無残に喰いちぎられた身体から伸びるのは人間の腕だ。狼が顔を突っ込むたびに腕は獣を追い払おうとするかのように上下する。硬直した腕が狼の動きに合わせて揺れているのだった。

 恐怖などすでに通り越した。そのあとの記憶は途絶えた。本能だけで逃れてきたのだろう。獣が追ってきたのかさえ定かではない。


 気づくとクルトは自宅のベッドにいた。どこにも傷を負ってはおらず、驚いたことにきちんと夜着に着替えて何事もなかったかのように眠っていたのだ。見ると大切な仕事道具を収めた木のケースも無傷で机の上に置いてある。どこからが夢だったのか。あまりにも疲れていたために、帰り道の記憶が飛んで無意識のうちにベッドに潜り夢を見ていたのだ。だから夢で見たことのほうが鮮明になってしまったのだろう。それにしても最悪の夢だ。今日は幸い予定が入っていない。疲れを取るために静養しようとクルトは思った。

 クルトの部屋を出ると形ばかりの小さな居間があり、その向こうの扉が病気の母親が寝ている部屋だ。クルトは母親と、そして幼い頃に親を亡くしてクルトの家に預けられたスザネと三人暮らしだ。スザネは母屋とは別の小屋で寝起きしているが、クルトの母親の世話をするために日中はずっと母屋にいる。クルトより三つ年下の十八のスザネは、働き者で気の利く娘だ。しかしよく口も立つので、クルトはこのお節介な『妹』の相手が少々苦手だった。

 珍しくスザネの姿が無かった。もう日が高いので普段ならすっかり朝食の支度を済ませて母親の食事を手伝っている頃だ。しかし居間のテーブルの上は空で、脇の竈で煮炊きをした跡もない。スザネが寝坊などしたのは初めてだ。毎日陽の昇らないうちに鼻歌を歌いながら食事の支度をする彼女に、いつも文句を言うくらいなのだから。

 母親の部屋を覗いてみると、食事を取ったあともなく、母親はぐっすりと眠っていた。朝の薬を飲ませてやらないと。母を放ったまま姿を見せないスザネに苛立ちながら、クルトは母親の薬を取りに居間に戻った。

 そのとき、家の外がざわついていることに気づいた。大勢が集って何やら話しているようだ。こんな朝早くから村人が集まっているなど尋常ではない。クルトは慌てて外に出た。

 クルトの家からそう離れていない場所に黒山の人だかりが出来ている。そこは村の共同井戸の辺りで、村から黒い森の中へ続く道の入り口だ。人のさざめきの中に少女の泣き声のようなものが混じっている。


「スザネ!」


 騒がしい中でも『妹』の声を聞き誤るわけはない。その泣き声がスザネのものだと気づいてクルトは人だかりをかき分けていった。人々の先に地べたにしゃがみこんで泣きじゃくっているスザネがいた。数人の主婦が彼女を支えて必死になだめている。彼女が身体を向けている森の入り口には、銃を手にした村の男たちが集まって何やらやっていた。

 スザネを支えている主婦から彼女の身体を引き受けて支えると、クルトは妹に聞いた。


「何があったんだ、スザネ」


 しかしスザネはただ泣きじゃくって頭を振るばかりだ。スザネの言葉を、さっきまで彼女を支えていた主婦が代弁した。


「朝いちばんに水を汲みに来て、とんでもないものを見ちまったんだよ」


 あれだよと言う代わりに、主婦はそろそろと手を上げて男たちが集まっている辺りを指さした。クルトはスザネの身体をふたたびその主婦に預けて立ち上がり、男たちの輪に近づいていった。その中を覗いたとき、クルトはうぐっと唸り声を上げた。男たちの足もとには人の片腕があった。そして少し離れた場所にもう片腕とそれにかろうじて繋がっている胴体と両脚がある。胴といってもあばら骨も臓腑もほとんど無く背骨とそれに付いた肉が僅かに残っている有様だ。首は千切れてその傍に転がり、断末魔の叫びを上げたままの表情をしていた。


「まったくひでえもんだ。狼に喰われたんだろうが、昨晩、狼の声や悲鳴を聞いたもんはいねえ。森の奥で喰った死体をわざわざ村の傍まで運んできやがったんだ。悪趣味な狼もいたもんだ」


 クルトは総毛立った。クルトが森で見たものは夢ではなかったのだ。逃げてきた過程は記憶に無いが、ひとつ間違えれば自分がこの死体と同じ状態になっていた。それとも記憶を抹消してしまうほど、さらに衝撃的なものを見たのだろうか。いずれにしても、今何事も無くこの場にいることは奇跡なのだ。

 しかし、あの夢が本当のことならば、獣がこの人間を襲った場所は村からだいぶ離れた奥深い森の中だ。狼があれだけの距離を、決して小柄ではない遺骸を咥えて運んできたなど考えにくい。

 男たちに昨夜見たことを話そうとしてクルトはふと後ろを振り返った。怯えきった目でスザネがこちらを見ている。スザネの前で、いや村の者にこんな話をすればスザネはクルトが仕事に行くのを引き止めるだろう。この期に及んでクルトは仕事に行かれなくなることを心配して口を噤んだ。


「森の奥で一人で暮らしている(きこり)のヘルマンだろう。森のことを誰よりも知り尽くしている男が襲われるとは。伝説の悪魔が乗り移った狼かもしれん。みんな森に入るときは十分に注意したほうがいいぞ」


 集っている男の中でもリーダー格のヴァルターが言うと、誰もが真剣な面持ちで頷いた。クルトは頷くような素振りを見せながらもすぐに彼らに背を向けた。そのままスザネのところに引き返して、まだ震えている彼女を何とか抱えて立ち上がらせ、家へと連れ帰った。




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