満、魔女の子供とお別れする。
こんばんは、満です。僕って実は、『視える』人間なんです。
薄暗い部屋を手探りでまさぐり、クローゼットに向かいます。
扉を開くと、ほら、いました。
「ただいま、麻耶ちゃん」
小学生くらいの小さな麻耶ちゃんが、ふわふわのレースをあしらった赤いドレスを着て、膝を抱えて蹲っています。暗い顔で俯いています。
いつからでしょうか。
通販で買った子供用の少女服をクローゼットに放り込んでおくと、ここに住んでいた頃の、昔の麻耶ちゃんが現れるようになりました。
中学時代、毎日誠司君に暴力を振るわれ、麻耶ちゃんに精神的になぶられて、たぶん心が壊れてしまったのだと思います。
いつからか僕は、この部屋で、見えてはいけないものが見えるようになってしまいました。
幻覚だということはわかっています。でも、とてもリアルに存在するんです。
だってほら、そこにいるでしょう?
小さな魔女の子が。ディズニー映画で必ずお姫様を苦しめる悪い魔女が登場しますが、彼女らはきっと、麻耶ちゃんみたいな子供だったのだと思います。
意地悪で心が汚くて、それでも外見だけは綺麗なものだから大人たちにはちやほやされて、だから余計に増長していくんです。それでも大人になるにしたがって内面の醜さは隠し切れなくなって、子供の頃のようにちやほやされなくなります。さくらちゃんみたいな心も外見も可愛い、誰にも愛されるお姫様に嫉妬してしまい、やがてあんな邪悪な姿になるのでしょう。
そういえば知っていますか、白雪姫の継母の最期を。焼けた鉄の靴を履かされて、白雪姫の前で踊らされるんです。僕はもしお姫様になったとしても、そんな復讐はしませんけどね。
誠司君や麻耶ちゃんへの感情は複雑ですが、それでも大事な幼馴染です。殺したいとか、苦しめたいとかは思いません。
「麻耶ちゃん、ただいまってば」
反応のない麻耶ちゃんの襟首を掴み、クローゼットから引き摺り出します。
小さな抵抗を示しながらも立ち上がった麻耶ちゃんの腹部に、パンチを入れます。
僕は喧嘩なんかしませんから、不恰好なパンチです。それでも麻耶ちゃんは、苦しそうに座り込みます。
「僕は今日、昼休み、誠司君に殴られたよ。そうやって倒れても、お腹ばかり蹴られたよ。服の下だと、誰にも見えないからね」
僕も麻耶ちゃんの顔に傷は付けません。僕がやられてないし、それでは楽しくもないですから。
腹部を蹴っても、「かはっ」と麻耶ちゃんは何かを吐き出すような音を漏らすだけで、何も吐いたりはしませんでした。所詮幻なので、お腹の中には何も入っていないのでしょう。
僕が誠司君にされたのと同じ目に合っているのに、麻耶ちゃんは僕よりずいぶん清潔です。悔しいのでもう一発、僕は思い切り麻耶ちゃんの腹部を蹴りました。
「よいしょっと」
僕はぐったりした小さな麻耶ちゃんの脇に手を入れて持ち上げると、ベッドに座らせます。
「誠司君の分は終わり、次は麻耶ちゃんにされた分ね」
僕は人差し指を立て、ゆっくり麻耶ちゃんの目に向けて近づけます。
「煙草でまつげを焼かれたんだ。目をつぶっちゃダメだよ。じゃないと僕、麻耶ちゃんの目に指を突っ込んじゃうかも」
ぼんやりと僕を見上げたまま、麻耶ちゃんは瞬きもしません。指先が眼球に触れるんではないかというほど近づいても、何の反応もありません。
僕は目に火の着いた煙草を突きつけられた恐怖で、あっさり音を上げたのに。
「楽しくないな、僕とっても不愉快だよ。そうだ、麻耶ちゃんはね、その煙草を、待ってって言った僕の口の中に入れたんだ」
思い出して僕は、ズボンを脱ぎます。
脱ぎながら、予感します。
僕はこの小さな麻耶ちゃんの幻に、今日僕がやられた仕打ちをそのまま返します。
殴って蹴って、開いた瞳に尖った指先を突きつけて、口に汚いものを突き入れます。
そこまでしてしまうとやられた仕返しだけでは飽き足らず、赤いドレスを破り、白い肌に浮かぶ青い痣を観賞して、僕は小さな麻耶ちゃんを陵辱するのかもしれません。
それが虐げられてきた毎日の、いつ終わるともわからない繰り返しでした。
でももしかして、これも、小さな麻耶ちゃんに会えるのも、これで最後かもしれない。
来週からは幸せな日々が待っているかもしれません。そしたらもう、誠司君と麻耶ちゃんに虐められることもありません。
希望的な観測を戒めないと。そう思いながらも、幸せな未来が待っているかもしれないと思うと、つい頬が緩みます。
期待しても悲観しても仕方がありません。余計な思案は振り払い、僕は頭を空っぽにします。
心の奥底から湧きだした、閉じ込められていた欲望に、僕は意識を委ねました。
ピンポン、ピンポン。
家のチャイムが連続で鳴りました。
いつもの得体の知れない感情に意識を沈めたまま、僕は寝てしまっていたようです。
腕の中に、びりびりに破れた赤いドレスの切れ端。うーん、途中からあまり記憶がありません。
宅配業者でしょうか、今日頼んだものが当日届くはずはありません。先週末頼んだ分が届くにしては遅い気がします。
そもそも、今何時でしょう。女の子らしいハート型の壁時計を見ると、深夜十一時を過ぎていました。
誰でしょう?
「今いきまーす」
聞こえるはずもない場所から呟き、ズボンを履き直して、玄関まで走ります。
「どなたですかー」
訊ねながら扉を開けると、
「おい!」
いきなり女の人に怒鳴られました。
「男の子の一人暮らしなのに、不用意に玄関を開けるな! 俺だったから良かったものの、変質者だったりしたらどうするんだ! まったく」
びっくりしました。あなたのおっきなおっぱいをはだけさせた胸元の方が、よっぽど不用意だと思います。
丈の短い作務衣姿の背の高い女性が、スーパーのビニール袋を片手に立っています。粋です。えーと。
「な、なんだよ。俺のこと忘れたのか?」
「え、ううん。えーと、由紀、さん?」
忘れたわけではありませんが、なんと呼べばいいかピンときまえん。
篠崎由紀さん、僕の姉です。
もう三年は話したことも、そもそもちゃんと対面してすらない気がします。離れに住むようになってから劣等感から僕は本邸の家族を避けていました。七歳上の姉の由紀も、たぶん醜い僕の存在自体を頭の中から抹消していたのではないかと思います。
「お姉ちゃん、な。可愛い顔でぽーっとしてんなよ。ほんと危なっかしいな、満は」
由紀さんが僕に手を伸ばそうとして、一瞬躊躇するように固まります。
えーと。どうしよう。
よくわからない由紀さんの逡巡が伝染して、僕もなんだか固まってしまいます。
やがて遠慮がちに、くしゃっと頭を撫でられました。
「なんだよ、今日の満はなんか大人しいな。俺、後悔してるんだ。こんな可愛い弟がいるのに、なんでもっと仲良くできなかったんだろうって。俺も母さんもがさつだし、父さんもちょっとヒステリーで、年頃の満には居づらいかもしれないけど……家族なんだし、そろそろうちに戻らないか?」
家族。この人は、由紀さんは、お姉ちゃんは、僕を家族を呼んでくれるらしいです。
もう望むことも忘れていたその単語に、感情がついていきません。
「な。満、泣くなよ」
「え、いや、お姉ちゃん、ごめんなさい」
言われて、頬を伝う冷たさに気付きます。
「いや、俺こそごめんな。その話はあとだ。花金だぞ。たまには可愛い弟の顔を見ながら酒を飲もうと思ってな、晩酌しようぜ。俺なりに勇気出して訪ねたんだ、小さくてもジェントルマンなら断るなよ」
ジェントルマン……あべこべだから、レディってことですか。
お姉ちゃん、顔を背けながらちょっとキザです。
「お姉ちゃん、僕未成年だよ」
お姉ちゃんが可愛いです。不思議と自然に『お姉ちゃん』と呼べます。
「おー、やっと笑ったな。満は笑顔が可愛いぞ。じゃあ満は甘いやつな。でも寝巻が中学のジャージってのはどうかと思うぞ、晩酌の花には酷すぎる」
「あはは、ごめん。せっかくお姉ちゃんかっこいいもんね、僕も着替えるよ。入って入って」
自然に笑えます。お姉ちゃんも笑っています。
家族。お姉ちゃん。照れくさいです。
僕が望むより十倍速く、どんどん世界が光に溢れていく気がします。
クローゼットの小さな麻耶ちゃん。さようなら。
もう本当に、僕は君に会えないかもしれません。




