麻耶、歪な世界でお金をせびる。
「オラ、サッカーボールキックっ! おわ汚ねえ、てめえ吐くなよこのうじ虫が!」
腹に蹴りを入れた誠司が慌てて飛び退きます。蹲ったまま動かない『うじ虫』の制服に、吐瀉物の飛沫の掛かった革靴を拭いつけます。
のっけから失礼しました。
日野麻耶です。高一です。
高校に入っても、中学と変わらない日常です。昼下がりの屋上、給水タンクの上からそんな光景を眺めながら、私は青空にぷはっと紫煙を吐きます。
幼馴染の誠司はこうしてうじ虫を虐めているときが一番無邪気な笑顔になります。この顔でいつも笑っていたら、嫌でもモテるだろうに。女にモテようとして浮かべるいつもの作り笑いは、無駄に出来すぎた顔の造作と相まって、胡散臭くて仕方がないです。
もっともいくら笑顔が魅力的でも、この弱い者を暴力でなぶる趣味を知られたら、バンドしたりバスケしたり勉強したり、見てる分にはある意味涙ぐましい努力で築いてきた誠司のハーレムも崩壊でしょうか。
幼稚園からの付き合いです。今更誠司の性根を見たところで、私はなんとも思いません。
「昼休み、あと十分くらいよ。誠司、もうやめたら?」
煙草をくわえ直し、二メートル近くある給水タンクから梯子を使わず飛び降ります。
ひらりと着地しましたが、予想外の風が吹き上げ、短く詰めたスカートがまくれちゃいました。見られたのが誠司と蹴り潰されたうじ虫では、恥じらうのも面倒なので省略ですが。
「ほんと男前だよな、麻耶。てかヤンキー? 教室でぶりっこの優等生演じてるの見てっと、逆にこえーよ」
これでも女ですから、人前で猫くらい被ります。アホは例外です。アホは人にカウントしません。うじ虫? 昆虫でいいんだっけ。どちらも幼稚園からの腐れ縁です。
とりあえず誠司の言葉を無視して、まだ動かないうじ虫の前にしゃがみこみます。
「大丈夫? 臭いわよ」
口から煙草を外し、優しい声音を作って訊いてみます。
反応して、びくっとうじ虫は痙攣しました。本気で虫っぽい。
チリチリ。煙草の穂先で、うじ虫の長い前髪を焼いてみます。
寸胴の癖に大きすぎる頭に、細い目は死んだ魚みたいに生気がないし「……豚鼻つぶれて鼻毛開帳だし、口の開き方だらしないし、てかゲロでてるし。てか目つきかなぁ、バランスかしら。一つ一つのパーツ以上になんかオーラがキショイよね」
やば、いつの間にか思ったまま口にしてました。
二文字に要約すると汚物と言ったわけですが、なぜかうじ虫がにやりと笑います。笑うと上唇がまくれ、異様に歯ぐきがせり出し、生理的にきしょいです。背筋にぞわぞわ、やけにリアルに何かが這い上がるような気がします。
「ビビアンのバッグを買おうかな。そんな高くないのよ、セールで四万くらいだった」
「ないよ、そんなに」
「なにが? あ、目、閉じないでね。手元狂っちゃうかもだから」
うじ虫の前髪を焼いた煙草の穂先を突き出し、うじ虫の睫毛を焼いてみます。うじ虫の睫毛はまだらで短く、結構怖い。
「待って。麻耶ちゃん。待って、出すから」
うじ虫なりに決心がついたご褒美に、短くなった煙草をぽいと口の中に差し入れてあげます。
咳き込みながらも文句も言わず差し出されたのは、二万ちょい。
「げほ。これしかないんだ、許して……」
大金だと思います。毎日徴税しているのに、絞るたびこれだけ出てきます。
うじ虫は大きな日本家屋に住む、名家の御曹司です。世界はどこまでも歪だなぁ、と実感する瞬間です。
私も誠司も、わざわざランクを落としてこの地元から少し離れた高校に入りました。認めたくないですが、このうじ虫は私たちの人生に必要な存在になっています。ATMとしてとか、サンドバッグとしてとかですけど。
昼休みの残り時間も少ないので、そろそろ戻ります。
やけに太陽が眩しいような違和感を覚えながら、私はうじ虫を置いて屋上を降りました。