第9話
その日、イスカは珍しくどこにも寄らずに、真っ直ぐに帰路についた。いつもなら警備で配置されている騎士に見つからないよう、穴やら壁やら隠し扉やらを使って、友人と呼べる人たちに会いに行くのだが、今日は気が乗らなかったのだ。
ノクスの邸に戻ると、セバスチャンは庭で草むしりをしていた。日傘を差さずに帰ってきたイスカを見るなり、糸目を大きく見開かせ、急いで予備の傘を取りに戻った。
「おかえりなさいませ、イスカーチェリ様」
「……イスカでいいのに」
イスカは差し掛けてくれた傘を受け取り、薄く笑んだ。
セバスチャンは草むしりを終えたのか、雑草が入った麻袋を茂みの横に置くと、紐と呼ぶには頼りなさげな細い何かでその口を縛っていく。
「ほほ、そうさせていただきたいところですがの。ノクス様より先に呼ばせて頂くわけにはいきませんからのぅ」
「そういうものなんだね」
イスカはほんのり赤みを帯びた顔を隠すように傘を傾け、セバスチャンの隣にしゃがみ込んだ。
「少しだけ、聞いてもいいだろうか。言えないことだったら、内緒だと言ってくれ」
「ノクス様に関することですかな?」
「うん。二人はいつから一緒にいるのかと思ってね」
セバスチャンは何度かゆっくりと瞬きをした後、自慢の髭を弄りながら笑った。
「私はノクスがお生まれになった時から、お傍におります」
「婚約者殿は使用人がいる家で生まれたということかい?」
「いいえ、普通の家庭ですよ。私はノクス様のお父上に命を救って頂いた身なのです」
セバスチャンは「ほほほ」と笑い、大きな麻袋を両手に持って立ち上がった。その目は青く澄んだ空へと向けられている。
「ノクス様のお父上は十年前に事故で、母君はノクス様が幼い頃に病で亡くなられました。私は亡き旦那様に恩を返さねばと思うて、使用人として置いて頂いておりますが、困ったことにじじい扱いされておりましての」
イスカは苦笑を漏らした。使用人ではなく、おじいさんとして接するのはノクスらしいと思う。それは彼が平民だからなのか、使用人がいる貴族のような生活を送るのが嫌だったのかは分からないが──セバスチャンと彼は主従関係というよりも同居人のように見えた。
「そうか。長らく二人で暮らしてきたんだね」
「ええ。必死に勉強をして、晴れて政官になられた姿を見た時は……まだまだ生きなければと思うたものです」
セバスチャンはイスカに視線を戻すと、にっこりと笑った。
「では中に戻ってお茶を淹れましょう。もう少ししたら、夕食の材料を買いに市へ行かねば」
「私に手伝えることはあるだろうか」
「もちろんありますとも。今夜はノクス様のお好きなものを作りますので、芋をたくさん剥いていただきましょうかの」
それなら、とイスカは笑った。芋どころか林檎の皮さえ剥いたことはないが、なんとかなるだろう、と。
ノクスは昨日と同じ時刻に帰ってきた。扉が開くと鳴るベルの音を聞いて、イスカは小走りで玄関まで迎えに行く。
「お帰り、婚約者殿。お勤めご苦労様だね」
笑顔で出迎えたイスカに、ノクスは無表情で頷いた。後からやってきたセバスチャンには「ただいま」と言い、仕事用の黒い鞄を預けている。
いつの日か、イスカも言ってもらえる日がくるだろうか。
薄手のマントを私室に置きに行ったノクスを待つこと数分。袖を捲りながら食堂に現れた彼は、じいっと芋もちを見ていた。
ノクスの好物であるというこの料理は、茹でた芋を潰して粉と混ぜ合わせ、こんがりと焼いたものだ。これに濃いめの味つけのソースをかけて食べるのが主流らしい。
無論、イスカは食べたことがない。芋料理自体、片手で数えるほどしか食べたことがないので、焼き上がったものを見た時は子供のように瞳を輝かせてしまった。
芋もちを頬張るノクスは相変わらず無表情で、感想一つ言いやしなかったが、厨房から顔を覗かせていたセバスチャンが笑顔でガッツポーズをしていた。長年傍にいた彼だけには分かるのだろう、きっと。
「──魔術省のセドリック・オールヴェニスとは知り合いなのか」
ノクスがそう尋ねてきたのは、セバスチャンが食後にコーヒーを淹れ、厨房の奥に戻った時だった。ノクスの口からその名が出るとは思わなかったイスカは、驚きのあまりに軽く目を瞠る。
「おや、私に興味を持ってくれたのかい?」
咄嗟に茶化したイスカに、ノクスは「そうじゃない」と即答した。深海のような瞳にはイスカだけが映っている。
「答えてくれ。代わりに僕もひとつだけ、貴女の質問に答える」
思わぬ提案に、イスカは淹れたてのコーヒーをひと口飲んでから、そっと口角を上げた。
「セドリック・オールヴェニスは私の元婚約者だ。彼は次男で家を継がないから、ハインブルグ家の婿養子になる予定だった」
オールヴェニス公爵家、その次男であるセドリック。文武両道で眉目秀麗な彼は、ハインブルグ家の次期当主であるイスカの夫になるはずだった。──一年前までは。
ノクスはため息混じりに「意味がわからない」と言うと、白いティーカップの取手に指を差し入れた。
芋もち効果だろうか。今夜のノクスは昨日よりも喋ってくれるような気がした。
「では、お言葉に甘えて質問させてもらうよ。その芋もちのお味は如何かな?」
ノクスの青い瞳が色濃くなる。そんなくだらないことを訊くのか、と言わんばかりに。
「……いつも通りだが」
「今朝はすまなかったね。不味いものを食べさせてしまって」
イスカは独り苦く笑った。花嫁修行に来たのだと言っておきながら、簡単な料理ひとつ出来ないイスカのことを、ノクスは嗤うだろうと思ったのだ。
だが、ノクスの顔には不思議な表情が浮かんでいた。
「貴女は味覚音痴だと宰相から聞いた。今後、味付けは全てセバスチャンに任せればいい」
──今後。つまり次があるということ。思わぬ言葉に、イスカの喉の奥は震え、次に奏でる声を掠れさせた。
「……それじゃあ私は、ただ具材を切ることしかできないじゃないか」
「そうしてくれ。僕の胃のために」
イスカはムッと口を歪ませ、立ち上がったノクスを下から睨め付けた。
「私は君のために腕を奮いたいのに」
「腕を奮った結果が、炭色の塊だろう。僕の胃を病ませる気か?」
「分かってないね。愛情はお金では買えないんだよ」
イスカはつるりとした白い布で口元を拭った。帰宅してから何度目か分からない溜め息を吐くノクスの肩を軽く叩き、快活に笑った。
「冗談はさておき、私の願いを叶えてもらいたいんだが。貴殿の次の休日はいつだろうか」
歩き出したノクスの前方に回って、イスカは笑顔で尋ねる。
ノクスは盛大なため息を吐いてから「明日だ」と低い声で答えた。
「楽しみにしているよ、婚約者殿」
イスカは心のままに笑みを浮かべ、ノクスを追い抜いて食堂を後にした。




