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忘却の蝶は夜に恋う  作者: 北畠 逢希
1章 変わり者令嬢と平民の政官

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第8話

 一体、この無駄な時間はいつまで続くのだろうか。


「ノクス・プルヴィア。一体どのような手を使って、その地位を手に入れたんだ?」


 怒気を含んだ声でそう問いかけてきたのは、魔術師団に所属するセドリック・オールヴェニスだ。名門公爵家の次男であり、容姿端麗・文武両道ともなると、嫌でも耳に入ってくる存在だ。


 ノクスは文官であり、セドリックは軍官。これまで書類関係でやり取りをすることは何度かあったが、顔を合わせたことは一度もなかったというのに。


 所用で執務室の外に出ていたその帰り道で、ノクスは不運なことにセドリックに絡まれてしまっていた。


「それをお答えする義務はありません。私が今の立場にある理由でしたら、昨年の国仕試験の詳細を知る者に問われるのが宜しいかと」


 ノクスは自分よりも頭ひとつ分背が高いセドリックを見据えながら、淡々とした声音で返した。


 柱の間を吹き抜ける風が、セドリックの紫色の髪を揺らす。そのスペックの高さから絶大な人気があり、優雅で物腰柔らかく、誰にでも分け隔てなく優しく接するので、周囲からの信望も厚いと聞くが──。


「図に乗るな。平民風情が」


 セドリックの唇が弧を描いたのと、ノクスの首元のタイが引っ張り上げられたのは同時だった。反射的にセドリックの手首を掴んでしまったが、剣を握ったことすらないノクスにそれ以上のことはできなかった。


「いいか、貴様にイスカーチェリは渡さない」


 そんなふうに言われたところで、ノクスにはどうすることもできないというのに。


「お言葉ですが、私は──」


「そこまでにしてくれないか。セドリック・オールヴェニス」


 望んで婚約したわけではない、と言い返そうとしたノクスの言葉を遮ったのは、この場には似つかわしくない、涼やかな声だった。


 ノクスの背後から影が伸びる。声の主はヒールを履いているのか、軽やかな音を回廊に響かせながら近づいてきた。


 セドリックが瞬時に表情を変え、ノクスから手を離す。そして今の今までノクスと話していた時とは別人のような顔を作ると、何事もなかったかのようにノクスの横を通り抜けた。


「久しぶりだね、イスカ。元気にしていたかい?」


 ノクスは首元のタイを結び直しながら、背後を振り返る。そこに居たのはやはりイスカだった。何をしにきたのかは分からないが、ノクスと目が合うなり嬉しそうに笑っている。


「会えてよかったよ、婚約者殿。忘れ物を届けにきたんだ」


「……忘れ物?」


 イスカはセドリックに一瞥もくれずに、ノクスのもとへ歩み寄ってくる。それがあり得ないことだったのか、或いは気に入らなかったのか──セドリックがイスカの肩に触れた。


 だがイスカはそれを手で振り払った。


「軽々しく触れないでくれないか。私には婚約者がいる」


 セドリックは軽く目を見開いた。イスカの言葉が意外だったのだろうか。


「……そう、だったね。失礼したね」


「まったくだ。もう二度と、私の婚約者殿に失礼なことをしないでくれ」


 イスカは微笑みを浮かべながら、彼女にしては硬い声でセドリックに釘を刺すように告げる。気づけば周囲には人が増えており、それが彼の状況を悪くさせたのか、セドリックは立ち去っていった。


 イスカは今度こそノクスと向き直った。


「やあ、婚約者殿。セバスチャンに頼まれて、お弁当を届けにきたよ」


 はい、と差し出されたバスケットには、見覚えのある布が掛けられている。


 ノクスはバスケットを受け取り、嬉々とした表情でいるイスカと手元を交互に見てから、訝しげな顔をした。今朝の黒いパンのことを思い出したのだ。


「……まさか貴女が作ったものか?」


「まさかとは何だ、まさかとは。残念ながら、私ではないよ。だから安心して食べたまえ」


 ほっと胸を撫で下ろしたノクスを見て、イスカはくつくつと笑った。顔に出したつもりはなかったが、彼女には伝わっていたらしい。


「では私はこれで帰るよ。世のため人のために、頑張ってくれたまえ」


「……ああ」


 イスカは目的を遂げたことに満足したのか、手をひらひらと振りながら去っていった。彼女はこれから城のどこかに寄るのだろうか。それとも──。


(……帰ったらいるんだろうな)


 ノクスは手元のバスケットを見つめながら、ほうっと息を吐いた。



 ノクスが宰相の執務室に戻ると、そこには珍しくエヴァンの姿があった。彼は自分専用の仕事部屋があるというのに、いつも皇帝の執務室に入り浸っている。その為、ここを訪ねてくる人の相手はノクスがしていることが多いのだ。


「──おや、婚約者の手作りですか? いいですねぇ」


 エヴァンは机から顔を上げると、ノクスの手元のバスケットを見てぱあっと笑った。


「まさか。ご令嬢が作ったものなんて、食べられたものではないです」


「イスカは味覚音痴ですから、仕方ありません」


 ノクスは隣室へと続く扉に手を触れて、そのまま立ち止まった。床の木目を見つめながら、薄い唇を開く。


「……お詳しいのですね」


「イスカのことですか? そりゃあ、幼馴染ですから」


 エヴァンは指を折って数えながら、名前を挙げ始めた。自分を入れて皇帝とアスランの三人は、彼女とは長い付き合いであると。


「……何故、僕なのでしょうか。あなたがた三名は、僕よりもずっと彼女のお相手に相応しいように思いますが」


 ノクスは瞳の色を濃くしながら、感情の読めない声で問いを呟く。


 分からないのだ。イスカが自分を選んだ理由が。伯爵家の出である宰相と侯爵家の次期当主、そして皇帝という幼馴染がありながら、なぜ平民である自分が選ばれたのだろうか。


 エヴァンは何も答えなかった。いつものように柔らかく笑いながら、ペンを手に取っていた。

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